2015年10月10日 20時49分

サハリン(樺太)鉄道旅(8)コルサコフ(大泊)港界隈。

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ロシアに入国。コルサコフ(Корсаков)のターミナルはこじんまりかつひっそりと建っていました。

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ターミナルの裏手には線路があり、今も時折走っているかのように見受けられました(私の個人的な感想であり確かめてはいません)が真相や如何に。

さてここからこの日(9月3日)の宿泊地ユジノサハリンスク(かつての豊原)までは約40キロ。

港から路線バスでコルサコフの市街まで出て都市間バスに乗り換えることも想定していましたが、運良く感じの良いタクシーの運転手さんに出会い、料金を聞いたら1000ルーブルとのことで交渉成立。1時間後にはホテルにチェックインと相成りました。

※9月2日(水)の円⇒ルーブルの交換レートは1ルーブル=2.5円。

参考にした書籍類

(今回の旅の主な参考資料)

1)「地球も歩き方 シベリア&シベリア鉄道とサハリン 2015~16」

「地球の歩き方」編集室/ダイヤモンド・ビッグ社

/2014年12月12日発行

2)JTBキャンブックス「サハリン 鉄路1000キロを行く」

徳田耕一/JTB出版事業局/1995年4月1日発行

3)ワールドガイド「サハリン」

徳田耕一/JTB/2002年7月1日発行

4)「1884-1976 日本の鉄道連絡船」

古川達郎/海文堂出版/昭和51年5月20日発行

5)「鉄道省編纂 時間表12月号」

日本旅行協会/昭和14年11月10日発行

6)「樺太の鉄道旅行案内」

樺太鉄道事務所/昭和3年9月3日発行

 

(このブログで掲載している写真・画像について)

自分が撮影した写真の他に以下の写真・画像を使っています。

*上記5)6)の本につきましては著作権の保護期間を過ぎているので、それを転載しています。

*このブログでの使用許可を頂いた借用写真もあります。

またロシアの方々が写っている写真もありますが、顔が判別できるものは全て撮影にあたり了承いただいております。考えようでは小さな市民交流気分でした。

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(サハリンでの滞在中に写真撮影で留意したこと)

ロシアでは以前「空港施設」「鉄道施設」「港湾施設」等での撮影は厳格に禁止されていました。

この空港の写真は1991年(平成3年)10月にシベリアのハバロフスクで撮影したもので、駅の写真も同時期のものです。その頃から記念撮影程度であればそれほどの厳しさはなくなり、今回の旅でも多くの鉄道写真を撮影しています。ただどんな場合でもOKということではなく、駅員さんや運転士さんといった鉄道関係者や警察官から「ここでの撮影はNG」もしくは市民の方から「ここでの撮影はやめた方が良い」と何度か声を掛けられました。そうした場合は速やかにカメラをカバンにしまい、間違っても“大丈夫だろう”とばかりに撮影を続けるということはしてしません。

それもあってか幸いにも注意はされても撮影済みの写真を確認されたり、またメディアを抜かれるようなこともありませんでした。

一方警察官や軍人、また軍の施設と思われる場所にはカメラを向けてはいません。

楽しい旅を続けるためには「無理をしない」「空気を読む」といった心掛けが必要でしょう。

2015年10月09日 20時47分

サハリン(樺太)鉄道旅(7)コルサコフ(大泊)到着。

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穏やかな宗谷海峡。食後は爆睡していましたが、眼覚めてデッキに出れば海風が本当に気持ち良い!

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サハリン時間で午後3時近くになるとサハリンの島影がはっきりと見えます。

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暫くすると目的地であるコルサコフの街が目前に迫り、そこにある風景は改めていうまでもなく日本には無いものであり、ここに来て異国に来た実感が沸々と湧き始めていました。

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午後4時頃に下船。車を積んできた甲板から異国の地を踏もうとは想定外。

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ロシア/サハリン(樺太)に上陸。

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すると目の前に今は使われていなさそうな線路が出現。事前の知識が無かっただけに思いがけない出会いに思わず「わおっ!」。この線路こそが稚泊航路で大泊港に出入りしていた連絡船に列車が横付けされていたことを今に伝える遺構。戦後70年。まさか往時の姿を留めているとは夢にも思っていませんでした。

2015年10月08日 20時45分

サハリン(樺太)鉄道旅(6)100円ビールと船内食。

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2等船室にはコンセントがありました。ということで夜行バス組の舘田さんと私は早速充電タイム。充電すべきものが(携帯+携帯の予備バッテリー+カメラ)×2人分とあって、タコ足配線ならぬ見た目は『イカの足』の如く。ということで我々4人組はこの時から自らを『怪しい「イカ足探検隊」』と命名しました。

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国際線の飛行機に機内食あらば、国際線の船には船内食あり。かどうかは分かりませんが、アインス宗谷では乗船時にお弁当とお茶が配られました。

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アインス宗谷名物の「水」より安い「100円ビール」を早速プシュっ。

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稚内の街が遠くなり、

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日本最北端の宗谷岬も霞んでいきます。

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日本とロシアの中間線を越えると船内アナウンスが入り、国境通過証明書が配られました。左側が往路、右側が復路のものですが、船長さんの名前が変わりかつ押印の丸・四角の違いがあるだけではなく、印の中の地名(稚内&コルサコフ)の順番も往路・復路で違いがあるなど片道だけもらえば良いというものにしていない工夫が楽しい。

2015年10月07日 20時38分

サハリン(樺太)鉄道旅(5)パスポートを持って船に乗る。

稚内港国際旅客ターミナルで出発を待つハートランドフェリーの「アインス宗谷」2628トン。往復で4万円也、いつもニコニコ現金払い。

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稚内発9:00、コルサコフ(Корсаков)着15:30(サハリン時間、日本時間では14:30)で、これから5時間半の船旅です。

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稚内・コルサコフ定期航路運航の看板。この先が出国審査を行う場所となります。

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パスポートに印が押されいよいよ乗船。私にとって日本から海外に船で出かけるのは初めて。少々興奮気味。

余談ですが確か10年ほど前、名古屋から大阪・那覇を経由して台湾まで行く航路がありました。名古屋では出国審査をしていなかった(那覇だったかな?)はずですが、「経験として一度乗っておけば良かった」とは今だから言えること。3泊か4泊かかかったはずでそんな時間を作ることなど夢のまた夢でした。

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私達が陣取った2等船室。まったり出来そうです。

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稚内港北防波堤ドームを左手に見つつ、我がアインス宗谷は日本を離れていきます。

ここで今回の同行の士にして同好の士の紹介です。

ノグリキ

左から石原信和さん、白川淳さん、舘田達也さんそして私の4人。

白川さんは鉄道系の本の出版や雑誌等への寄稿を数多くされているトラベルライターさん。その白川さんが5月の中旬、「今年で廃止と言われる稚泊航路に乗って樺太の鉄道に乗る旅を企画したいと思います。もし宜しければ、ご一緒にいかがでしょう?」と仲間内に呼びかけたのが今回の旅のきっかけ。かつ白川さんは私たちのビザの申請から船・鉄道・ホテルの予約の全てを代表してやって下さいました。(多謝)

話をこのさりげない記念写真に戻しますが、実はとてもありえないことの連続から生まれた一枚です。また後日、詳しく書かせていただきます。

(余談)

白川さんは東京から稚内まで、普通列車~はまなす~普通列車を乗り継ぎ2日がかりで来られました。

これを「流石」と言うか「よくやった」と思うかもしくは「呆れるぜ」と思うのかの分かれ目はどこにあるのでしょう?

新幹線と青函トンネルが無かった時代は、確かにこれくらいの時間はかかっただろうし、ある意味今回の旅(稚泊航路で行く樺太)の正しい序章のあり方だと思った私は何者?

2015年10月06日 20時24分

サハリン(樺太)鉄道旅(4)稚泊航路と稚内桟橋駅。

結局、手段はともかく9月3日(木)の朝、無事に稚内に着いたからこそこのブログが書けるわけですが、さてこの先どうなることやら…。旅の醍醐味はやっぱりトラブルか?いやいやそんな事はありません。

ところでサハリン(樺太)に渡るにつき「船(航路)」を選んだのには理由があります。それは「船で海外に行ってみたかった」のではありません。

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まずは稚内観光の目玉の一つ「稚内港北防波堤ドーム」。

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そしてそこには「稚泊航路記念碑」があります。

かつて樺太の南半分が日本だった頃、稚内と樺太の大泊(現コルサコフ)の間は鉄道連絡船で結ばれ、その航路は地名から「稚泊航路」もしくは「稚泊連絡船」と呼ばれていました。

※以後「稚泊航路」と表記します。

稚内駅の北にあって堂々たる姿を今に伝える「稚内港北防波堤ドーム」。そこは正に連絡船の着く桟橋であり、また国鉄稚内桟橋駅があって列車が横付けされ、冬場の極寒の強風を避けて乗下船できる構造となっていたそうです。

(このドーム、冬場は犬の散歩と市民のジョギングの場所として親しまれていると聞いています)

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稚内駅の駅前に今も線路の跡がありますが、それは決して駅頭のオブジェではなく、行き止まりの駅では無かったかつての稚内駅構内から先に線路があったことによります。

稚内市

昭和49年(1974年)2月の稚内市の俯瞰。

左上にドームがあり、この写真では右端近くに稚内駅があります。

稚内桟橋駅北防波堤ドームUP

ドームのあたりをトリミングにすると貨車が見えます。この辺りから線路は上方向に曲がり稚内桟橋駅へと繋がっていました。埋め立てによりドームの右側は大部分が陸地になっておりかつての姿を想像しにくいのが残念です。またそこにあった駅舎も昭和49年時点で既に取り壊されていました。

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こちらは平成27年9月3日の稚内港国際旅客ターミナル。

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そのデザインは北防波堤ドームをイメージしている感あり。

さて前述の稚泊航路の後継ともいうべき航路が実はあるのです。いや現時点では「あった」という過去形ですね。その航路(サハリン航路)はこの9月18日、コルサコフから稚内に向かう便を最後に、17年間の運航を終えました。赤字続きだったということでしたからやむを得ないというところでしょう。

ただ10月に入って、稚内市が第三セクターを設立して来年度以降の運行を目指しているとの報道があり、今後に若干は希望を繋げられるかもしれませんがまだまだ予断を許さない状況です。

『日本最北端の都市稚内から宗谷海峡を北へ159Km。そこは、大自然と歴史にふれる異国の島サハリン。』

ハートランドフェリーのHPにあった航路紹介ですが、今回のサハリン鉄旅は「連絡船時代に思いを馳せる最後のチャンスになるかも知れない」と、そんな理由から出かけることにしたのです。

2015年10月05日 20時33分

サハリン(樺太)鉄道旅(3)強風と豪雨で稚内に辿り着けない?

NH4843便は札幌(新千歳)発16:10→ 稚内着17:05で、夜6時頃には同行の方達と合流し、北海の幸に舌鼓を打っている予定でした。

そうっ、「予定」とは予定であってそれは「予測不能」と同義語。

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稚内行きの出発案内の時間が定時であったのは午後4時頃まででした。

この日の千歳地方は豪雨で強風。結局着陸できなかった便も多く、当然それは折り返しの出発便も出ないという事。

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午後4時40分時点では千歳線もストップするほどで、ひょっとすると稚内に行きつけないかもという厳しい現実がヒシヒシと身に迫り始めていました。

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稚内便は何度も出発予定が繰り下げられ、最終的に19:30発とアナウンスされたのですが、それも18時15分頃に欠航が決定。他の便の欠航がアナウンスされるなかANAも何とかしようと頑張ったのでしょうが流石に天候には勝てませんでした。

茫然自失。思考停止。食欲なし。

でも自分で言うのも何ですが、これまで無駄に経験(=痛い目に会う)を積んできた訳ではありません。最終的に欠航という事もありうると考え、夕方の5時20分に札幌発稚内行きの宗谷バス深夜便の予約という次の一手(最後の一手)を打っていました。

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バス会社に電話した際に「ANA便が飛べばバスがキャンセルになるのですが…」と相談したら「飛んだら電話してください。キャンセル料は要りません」との有り難いお言葉があり、しかも「今日は2便運行ですが残り4席です」。何と2便運行に救われました。

因みに欠航が決まってからバスの予約センターに電話した方は席が取れず、札幌市内に泊まって翌日のJRで向かうことにし、私に「バスが取れて良かったですね。良い旅を」との言葉を残し空港を後にされました。

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欠航の恐怖と戦った緊張覚めやらぬまま23:00発のバスに乗り込んだものの、まずは一安心。恐らく30数年ぶりの夜行バスだっただけに、寝られるかが正直言って心配でしたが、30分も経たずに寝落ち。

ところでこのバス、網棚が思ったより広く機内持込がギリギリサイズの私のカメラを入れたバッグも無事に収まり、期待していなかった広々足元で一夜を過ごせました。

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はるばる来たぜ!稚内。

行き着けないかも?

名古屋にこのまま戻る?

1週間の北海道旅行?

とか新千歳空港で(真剣に)考えていただけに喜びも一入(ひとしお)。で、着いたら着いたで「朝日が美しい!」とか写真を撮ったりして立ち直りが早い。

 

2015年10月04日 20時30分

サハリン(樺太)鉄道旅(2)新千歳空港乗り継ぎで目指すは稚内。

9月2日(水)、夏の繁忙期が一段落し、シルバーウィークの追い込み仕事がやってくる前に1週間の夏休み。

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旅立ちは新塗装車。幸先が良い。

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ミュースカイは久々の車内清算。

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晴天の中部国際空港11:20発のJAL3105便で新千歳空港へ。1時間20分後、着陸態勢に入ったものの強風と豪雨の中で大揺れ。目の前の翼でさえ霞んでいる。

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そして着陸寸前に急上昇。空港の上での旋廻。このまま旭川?函館?もっとも「着陸できない場合があります」というアナウンスはありませんでしたが…。

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13時過ぎに無事着陸。ANAに乗り継ぎこれから稚内に向かいます。それにしても着陸のやり直しは心臓に良くない。とか言ってられたのはこの時まででした。

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新千歳空港での昼食は「北海千歳天丼」1190円也。

さて日本からサハリンに行く方法ですが、空路ならば選択肢はいろいろあります。サハリンの州都ユジノサハリンスクへはここ新千歳であったり成田からそれぞれ週2便直行便が飛んでいますし、ロシア本土乗継という方法もあります。でも今回、私がサハリンへの交通手段として選んだのは船。その出港地が稚内であり、その船が9月3日(木)に出航と言うことで稚内を目指して移動していました。

2015年10月03日 20時26分

サハリン(樺太)鉄道旅(1)プロローグ。

9月2日(水)~8日(火)の日程で、サハリン(樺太)鉄道旅(夜行列車もあります)を楽しんできました。サハリンと言っても馴染みの無い方が多いのでしょうが、北海道の稚内からは目と鼻の先。実はとっても近いのです。

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駅撮りをしていたら虹が出ていた!

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今は、旅客列車は走っていないと聞いていた路線によもやの復活劇!

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美味しいロシア料理を堪能!

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北の地の夏祭りでは素敵な笑顔に迎えられました。

サハリンは南半分が日本の領土だった時代に鉄道網が整備されたこともあり、その線路の幅は今も1067ミリ。

乗っていてどこか親しみが湧いてくるサハリンの鉄道。

さてどんな旅だったかは明日からUPします。

2015年09月21日 20時52分

国際鈍行列車の旅(5)シュパーゲル三昧でドイツの旅の終わり。

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やっとのことでドレスデン中央行きの列車が見えてきましたがまだ地下道の階段に行き着いていません。

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この日はアルンスドルフでバスに乗り換えることもなくそのまま列車で通過。

(参考)

4月17日(金)に01形重連の列車がラーデベルクで停車したのは、どうもアルンスドルフまでの間がその時間に単線運転となっていたからと思われます。今回乗車した列車はラーデベルク~アルンスドルフを何と左側通行しており、そんな点からの推察です。

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ドレスデン中央駅には18:59に到着し、最後の晩餐。

まずは白アスパラのスープ。

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そして白アスパラ250グラムとメニューに書かれた料理。肉・魚無し。でも精進料理ではありません。

かくして私の4月15日~21日のドイツ撮り鉄の旅は、極めてこの時期のドイツらしい季節感溢れる食事で終わりとなりました。

ほぼ40年ぶりとなる“撮り鉄”旅。まして海外。自分なりに納得することの出来た一週間でした。多少の時差ぼけはあったものの私の経験的には『夜型』になっていくのは比較的楽ですが、これから日本に『朝型』で戻るのはきつそう。

でも今回は意外とすんなりと体が戻りました。やはり01重連を撮った充実感のなせる業だったのでしょう。

(完)

明日からは北海道/留萌線の旅です。

2015年09月20日 14時47分

国際鈍行列車の旅(4)再び代行バスで国境越え。

この路線でドイツ側を走るのはそれほどの距離もない短い区間で、乗客は10人ほどしか乗れないバスで十分なほどなので、そんなことでの合理化かな?とか思ったものの、であれば何で仮設ホーム?とか考えたりしているうちにザイフヘナースドルフ発16:42の代行バスが少々遅れて到着。この発時間ですが、実は列車と同じなので私の頭の中には疑問符が一杯でした。

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バスが到着する場所に立っている方は“乗り鉄”です。ここまで来るのに同じ列車&バスで来ており、しかも直ぐに折り返すところも“乗り鉄”です。実はお互いアイコンタクトで『同類』であることを認識していました。

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チェコ/ヴァルンスドルフ・・・以下読み方が不明(Varnsdorf pivovar Kocur)で再び列車に乗車。

16:50にバスが着き、乗り込んだところで直ぐに列車は出発。

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ここはヴァルンスドルフ(Varnsdorf)駅。思いの他大きな駅で駅員さんもいる有人駅。

同じチェコのリベレツ(Liberec)とヴァルンスドルフ(Varnsdorf)間は、チェコ国内だけで行こうと思うととっても大回りとなりますが、ドイツのツィッタウ(Zittau)経由であればショートカットできるためこうした列車が設定されているようでした。

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この町の名前「ヴァルンスドルフ」は調べてみるとドイツ風の地名ということのようで、国境線の複雑さも含めいろいろ歴史がありそうです。

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ツィッタウ(Zittau)着17:15。そして17:21のドレスデン中央(Dresden Hauptbahnhof)行きに乗車。乗ってきた列車はドレスデン中央行きに接続の列車のはずですが、何故か地下道からはるかに離れた所に停車し、息を切らしながらの乗換えとなりました。



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プロフィール

稲見部長稲見眞一
<自己紹介>
昭和52年4月、中京テレビ放送入社。「ズームイン!!朝!」を始めとした情報番組や「ドラマ」「ドキュメンタリー」等のディレクター・プロデューサーを務めた。鉄研最終回(2010年1月29日放送)では自ら自慢の鉄道写真「俺の一枚」を持って出演。 鉄道歴は小学校5年からスタートしはや半世紀。昭和55年には当時の国鉄・私鉄(ケーブルカーを除く)を完全乗破。平成18年にはケーブルカーも完全乗破。その後も新線が開業するたびに乗りつぶしている筋金入りの“乗り鉄”。好きな鉄道は路面電車。電車に揺られながら窓外に流れる街並みを眺めているのが至福のとき。さてスジを寝かせてゆったり乗り鉄と行きましょう!