2013年02月25日 20時32分

1991年のドイツ(9)ルフトハンザエクスプレス・フランクフルト空港。

デュッセルドルフ空港駅発12:36の“列車”はフランクフルト空港駅に15:35着。(実時間ではなく、ダイヤ上の時間です)

この列車の他の乗客と違い、ここから飛行機に乗り継ぎでは無かったのですが、取り敢えず空港ターミナルを目指しました。

そこにあったのが「ルフトハンザ エアポートエキスプレス」の搭乗カウンター(?)で、左側に「デュッセルドルフ」、右側には「シュツットガルト」とあり、実はエアポートエキスプレスはその2都市と結ばれていました。

両方とも1日4往復あり、日本にはない面白さがありました。こんな写真を撮っていたとは全く記憶に無かったのですが、航空便名の列車の実情調査も旅の目的にあったのでこうして撮影したのでしょう。

その流れかどうか、フランクフルト空港の写真も撮っていました。

2013年02月24日 21時27分

1991年のドイツ(8)ルフトハンザエクスプレスとは?

今から10年ほど前になりますが、取材でベルギーのブリュッセルに行ったことがあります。その時に利用した航空会社はエアフランスで、まずは成田からパリに向かい、「シャルル・ド・ゴール空港TGV」駅から『航空券』でTGVに乗り継ぎ目的地に向かいました。もともとその区間に飛行機が飛んでいたかは分かりませんが、例えば他の航空会社であれば、ハブ空港で乗り継いで飛行機で向かうのでしょうが、TGVならパリ~ブリュッセル間は1時間半ほどだったので、エアフランスがこの区間に飛行機を飛ばす理由はなく、TGVの中にエアフランスの席が用意されていました。

さてこの列車は1991年10月21日撮影の「ルフトハンザ エアポートエキスプレス」。DBのヘッドマークが輝いていますが、この写真の列車番号は「LH1005」で、もうお分かり頂けると思いますが、ルフトハンザ航空の『飛行機の便名』が付いた列車で、写真の「デュッセルドルフ空港」駅と「フランクフルト空港」駅を結んでいました。ということで今から22年前、そんな列車がドイツにはあったのです。先に書いたエアフランスの場合は、一列車の一部がエアフランスの専用席だったのに比べ、こちらは丸々一編成がルフトハンザでした。

写真は途中駅の「デュッセルドルフ中央」駅(ルフトハンザ空港の時刻表では「デュッセルドルフ・シティ」とありました)で、ここを出ると「ケルン中央」「ボン」(当時の首都)に停車し、デュッセルドルフを出た時には余裕があった座席が「ボン」でほぼ満席になったと手元のメモに書いてありました。この列車の座席はどうも指定席では無かったようで、メモには『座席確保の自由席車の様だった』とも書いてあり、また「席はお好きなところで」と言われたので、禁煙車、オープンカー(コンパートメントではない)、ライン川側の席「2号車7F」に陣取ったとも書いてありました。(この時のチケットは行方不明です。ユーレイルパスでは乗れなかったと思うのですが…)

沿線はライン川の渓谷の景色は古城も各所に見られて素晴らしく、かの有名な「ローレライ」はギリギリ撮影できました。

2013年02月23日 21時21分

1991年のドイツ(7)エッセン~ミュールハイム。

一昨日も資料で使用した『LRT整備都市』に載っている路線で、世界的に見ても新しい都市作りの観点で作られた最初のグループの一角に入ると思われるのが1974年(昭和49年)に開通した「エッセン~ミュールハイム」間の“都市間軌道”。

ここはエッセン中央駅の地下にある「ミュールハイム」行きの乗り場。

ホームが低く、車両もトラムっぽいのですが、何となくそれよりミニ郊外電車的な雰囲気が漂っていました。

そして地下駅を出て暫くすると道路の真ん中の専用軌道となっており、その区間のスピードたるや私の手元のメモで時速70キロ前後とありました。ここを訪れた理由は、この路線が道路と一体的に作られたという紹介記事を読んだからで、もっともそれも今となっては私の記憶の範囲で、参照資料が見つかっていません。ともあれ乗った感想だけは書けます。北大阪急行電鉄のミニ版と言ったところでしょうか。

中小都市での地下鉄導入はハードルが高いものがありますが、知恵と工夫で何とかなるものだという事もこの鉄道から見えます。またこの整備された道路からはドイツが車の国ということも分かりますが、それでも公共交通機関の整備も怠っていないというのがドイツらしさでしょう。

(余談)

もともとはエッセンを訪れた主たる目的は、世界初のガイドウェイバスに乗ること。名古屋のゆとりーとラインの元祖になるのですが、行った日が10月20日の日曜日!日曜日と言うのはヨーロッパでは鬼門と言いたくなる日で、何とガイドウェイバスは全面的に運行無し!(バス停の時刻表にそうありました)そんなこともあって昨日UPしたデュッセルドルフはたっぷり時間がとれました。トホホッ。

2013年02月22日 21時03分

1991年のドイツ(6)デュッセルドルフのトランジットモール。

1991年10月20日は日曜日。デュッセルドルフの中心部は市民で賑わっていました。

この日の最大の目的はトランジットモール。本の知識では知っていましたが、車の通行が制限された『歩行者天国』にトラムが次から次へと来る様を見て、またトラムがあることで街が賑わっていることは日本ではどうして理解されないのだろうと残念な気分になりました。(今だから言えるのかも知れませんが…)

何せドイツには世界有数の車メーカーがあり、アウトバーンも存在する世界でも有数の車社会の国です。

もう廃止されてしまいましたがもしも名鉄揖斐線の電車が「柳ヶ瀬」のアーケード街を通り抜けていたら…、そんな妄想を持ってしまいました。

悔しがっていても仕方がないのですが、この写真のように南米のフォルクローレを奏でる演奏家が、路上でライブをしている風景の向こうをトラムが走っているのは何とも良いですね。私もここで足を止めて音楽を聞いていました。

街をそぞろ歩き、買い物をし、疲れたらトラムに乗って家路につく、、、と考えただけでもワクワクしませんか?

因みに写真の手前に写っている少女は、私がこの辺りの撮影を始めたころから帰り際まで多分、30分以上は聞き入っていたと思います。何故か印象に残っています。

ところでこの日最大のアクシデント。実は朝、中央駅に行って「Uバーン」に乗ろうとしたら何故か紅白のテープがありました。しかしながらこれが『おめでたい』はずもなく、立ち入り禁止!前日に駅で火災があったとのこと。近くにいた警察官が英語で一言「Yesterday」「Fire!」と私に理解できる英単語で教えてくれました。

さてこちらは前日の19日に、街中の市場で撮影したスナップ。日本では見られない「ブドウ」の山。市井(しせい)の人々の暮らしを感じました。

2013年02月21日 20時53分

1991年のドイツ(5)デュッセルドルフのトラム?。

デュッセルドルフ中央駅前にも、トラムの停留所があります。ドイツではあまりにも普通の風景です。

さて、2月13日にUPした『1991年のドイツ(2)ケルン到着』で、「シュタットバーン」という言葉を思い出して書いたところ、「ばけぺん」さんから「Stadtbahn」、「LRT」「TRAM」という言葉の使い分けについてのコメントを頂きました。それを読ませてもらいながら私のこのブログでの表現の一貫性の無さに呆れ果てるばかりですが、それにしても鉄道用語の選択の難しさを感じています。

ところで国土交通省が平成23年3月に公開している「LRT等の都市交通整備のまちづくりへの効果」23ページにある『LRT整備都市』という一覧がありますが、そこにはドイツの都市の名前は数えるほどしかありません。以前、このブログでLRTの例として紹介した「ミュンヘン」の名前は無く、そしてここ「デュッセルドルフ」の名前もありません。その理由は「ばけぺん」さんのコメントにある通りなのですが、他の国と違ってドイツのトラムが他国で廃止され続けた時代にも生き残ってきたからと言えるでしょう。1991年にして市街地にある芝生軌道の美しさは私にとってはとても大きな驚きでした。

車内はこんな感じですが、もう一枚は最初に見た時にあまりにも感動した風景です。

それは道路中央の専用軌道に路面電車の複々線が続いていたこと!ここは都心部ではなく、どちらかと言えば少々離れた場所でした。(「Nord park/Aquazoo」駅付近)

参考までにこの写真の路線は「U」の系統番号がついており、都心部では地下線となっており、ドイツのトラムを紹介した本「2012 Schwandl’s TRAM ATRAS DEUTSCHLAND」によれば「Stadtbahn/Light Rail」という分類になっていました。

2013年02月19日 20時16分

1991年のドイツ(4)ヴッパータールのモノレールは美しい。

街の中を走っている列車から窓外を眺めると、まず目に入るのが逆U字型の太い鉄塔or橋桁…。その表現は難しいですが、何はともあれ下を眺めれば商店が並んでいるという日本ではあまり見られない風景が楽しめました。

でも本当の楽しみは列車を降りてからで、この独特のアーチが延々と続くさまは「美しい!」とさえ感じました。それはさておき、支柱を道幅一杯(建物ギリギリ)の場所に建ててあるのを見て、私は19世紀から20世紀の変わり目の時代に住民との合意形成つくりをどう行ったかが気になりました。

最低限度、こうした構造物を作ることが出来たという技術力があったからこそ実現したとは言えるでしょうが、住民に説明しようにも誰も見たことが無いわけですから…。

ところでヴッパータールのモノレールの車両(当時)は3車体構造となっており、真ん中の車両に台車(車輪)はなくフローティング構造となっています。トラムのフローティング構造は身近なところでは豊橋鉄道のT1000形でも見られますが、高架線を懸垂式で走る姿を見ると文字通りのフローティングだと思いました。

このモノレールの感想ですが、街に溶け込んでいるのであまり深く考えなくても良いのでしょうが、川の上に交通機関を走らせるという、所謂、街の形に合わせた交通機関の選択肢もさることながら、当時は“技術力”を見せる要素も強かったのではないかとも思いました。このパターンはきっと日本には当てはまらないですね。

2013年02月18日 21時15分

1991年のドイツ(3)ヴッパータールの元祖モノレール。

1991年10月19日(土)はデュッセルドルフからほど近い、ヴッパータールの町に向かいました。

目的は世界最古のモノレール「ヴッパータール空中鉄道」です。1901年の開通でこの写真の撮影時で90年、今では1世紀を超える歴史があります。ランゲン式と呼ばれる懸垂式モノレールで、日本初のモノレールが上野動物園内に開通したのが1957年ですからそれを遡ることは半世紀以上前からもうこのヴッパー川の上を走っていたことになります。

川の上をモノレールが走る風景は思いのほか雄大で美しく、かつ橋げたが大きな山型というユニークな構造で、更に言えば乗っていて目の下に構造物が何も見えないのはモノレールならではです。

ここを訪れた理由は、1980年代後半に入り、日本国内で都市型モノレールの開通が相次いでいたこと。私には当時、モノレールという選択をするという必然はどこにあるのだろうという疑問がありました。

とまあ小難しいことはさておき、まずはホームに上がり電車を待ちこと暫し。思ったよりも小さい電車がやってきました。

車内は見た通りやはり狭く、一旦作ってしまうと、軌道の間隔を広げるのはモノレールではまず不可能でしょうから、これからもこの大きさの列車が走り続けることになりそうです。

 

(参考資料)

今回、Wikipedia「ヴッパータール空中鉄道」を参考に書いていますが、1991年当時、ここに行こうと思ったきっかけとなった書籍か何かがあったはずなのですが、何も見つかっていません。情けない…。

2013年02月13日 22時12分

1991年のドイツ(2)ケルン到着。

そう言えば1991年当時、市街地と郊外を結ぶ路面電車の事を「シュタットバーン」と言っていたと思いますが、最近はトラム・LRTと言う言葉に集約されているような気がします。

※ドイツの都市には「Sバーン」という電車が走っていますが「シュ」と言っても「Sバーン」の「S」ではありません。

さて、このブログを書くために今日、ルフトハンザ航空の日本語サイトを見たら「ニュールンベルグ」ではなく「ニュルンベルク」でもなく「ニュールンベルク」となっていました。外国の地名はまことに奥が深いと思いつつ、デュッセルドルフ空港までは1時間ほどのフライトで、確かそのまま宿泊先のホテルに荷物を預け、予定通りケルンに向かいました。

ここからが今日の本題で、今でも十分近代的デザインといえるケルン中央駅に降り立ったのは確か午前中です。

その真ん前には巨大と言う表現がぴったりの「ケルン大聖堂」が聳えており、まず目の前に飛び込むのがこの風景。

そして少し回り込むと大聖堂の正面になります。ところでこの地を訪れた目的はこの大聖堂の見学ではなく、勿論大聖堂の中はゆっくりと時間をかけて見学しているですが、ケルン中央駅の地下から出ている“首都”「ボン」行きのシュタットバーンに乗ること。

ドイツ有数の大都市から、人口規模は小さいものの「西ドイツ」~「ドイツ」の当時、首都だった「ボン」に、国鉄ではなく、路面電車に乗って向かうというそのシチュエーションが気に入ったというより『気になった』というのが正解でしょう。

日本では比較できる存在がないのですが、感覚的には阪堺線とか、もしくは阪神・国道線だったり西鉄・北九州線に通しで乗るようなモノと言ったところでしょうか?

2013年02月12日 22時15分

1991年のドイツ(1)ニュールンベルグから飛行機???

1991年10月18日。さてニュールンベルグに着き、ここからデュッセルドルフまではどこをどうやって移動しようかと思いつつ、ホテルを変更しようにもそんな英語力はなく、ドイツ語に至っては「ありがとう」しか知らず万事休す。そんななんやかやで取り敢えず「ニュールンベルグ」駅に降り立ってみたら、どうやら「デュッセルドルフ」に行く飛行機が8:00にあるのが分かりました。

そして「ニュールンベルグ」空港に直行。空席があると聞き、直ぐに搭乗手続き。そしてそそくさと搭乗。

思いがけない、そして後にも先にも一回限りのドイツ国内の飛行機の旅はこうして始まりました。眼下に広がるニュールンベルグの町に一旦別れを告げ、「鉄道博物館」への再訪を誓いました。

町のシンボル、送信塔(テレビ塔)が「待ってるよ」と言っているような気がしました。(画面の真ん中のマッチ棒みたいなものなのですが…。)

ところでこの「デュッセルドルフ」行きの便の最終目的地はイギリスの「バーミンガム」。面白いと思ったのはつまりこの便が国内線だけど国際線ということで、回りくどい言い方ですが、私のようなデュッセルドルフまでの乗客ではなく、バーミンガムまでの乗客はデュッセルドルフで降りることもなく、何というかあたかも国内線の経由便の如くでした。まるで国際列車の「国内区間」に乗車した気分でした。

2013年02月11日 19時38分

1991年のコペンハーゲン~ニュールンベルグ(ドイツ)。

1991年10月17日、日本を出る時の予定では、コペンハーゲンからはドイツのケルン行きの夜行列車に乗るはずでした。

ところがストックホルム駅の切符売り場で乗車希望日のその列車の一等寝台が満室!とのこと。そこで止む無く行先を変更。(30分以上、駅で悩んでいました)

思案に思案を重ねた結果、同じドイツでもニュールンベルグ(私のメモではこの読みですが、wikipediaをはじめ「ニュルンベルク」の方が多そうです。)を目指すことにしました。これでコペンハーゲンで4時間少々あったはずの余裕が無くなりました。

(当初)

「コペンハーゲン」着16:50

「コペンハーゲン」発21:05のケルン行き

(結局)

「コペンハーゲン」着16:50

「コペンハーゲン」発19:05のミュンヘン行き

※時刻は全て定時の場合で、実際にどうであったかのデータは残っていません。

話しが飛んでしまいますが、翌10月18日はデュッセルドルフのホテルが予約してあり、夜行を降りて朝一番からケルン市内をゆっくり回るつもりだったのですがそれは半ば諦め、取り敢えず夜行列車でゆったり眠り、朝もやの中を疾走しながら朝食を摂るという細やかな“夢”を叶えることにしました。

何せコペンハーゲンまでの列車は「ハンブルグ」行きで、その終着駅到着時間は22:31だったので、下車後、ホテルを捜す…という選択肢もありました。

デンマークからドイツへ連絡船(フェリー)で渡るルートは、俗に「渡り鳥コース」と呼ばれ、当時、地上交通の大幹線となっていました。そして連絡船の中には当然のように両替所(銀行)がありました。またヨーロッパは当時でも消費税(付加価値税)が高かったことから船の中の免税店は大いに賑わっており、しかも日用品の品揃えが良かったという微かな記憶があります。

ところで乗車した夜行列車は、船内では保安上の理由から船に降りられる出入り口が限られ、1等寝台車からは降りられず隣の2等車に階段が置かれていました。

なお、1等寝台車入口では車掌さんがいてズーッと乗客の部屋を監視しており、安心を与えてくれていました。

そして車両はこんな風に固定されており、この取り付け金具は連絡船に乗らない車両にはないのか、それともそもそも一般的な車両にもついているものかどうかが気になりました。



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プロフィール

稲見部長稲見眞一
<自己紹介>
昭和52年4月、中京テレビ放送入社。「ズームイン!!朝!」を始めとした情報番組や「ドラマ」「ドキュメンタリー」等のディレクター・プロデューサーを務めた。鉄研最終回(2010年1月29日放送)では自ら自慢の鉄道写真「俺の一枚」を持って出演。 鉄道歴は小学校5年からスタートしはや半世紀。昭和55年には当時の国鉄・私鉄(ケーブルカーを除く)を完全乗破。平成18年にはケーブルカーも完全乗破。その後も新線が開業するたびに乗りつぶしている筋金入りの“乗り鉄”。好きな鉄道は路面電車。電車に揺られながら窓外に流れる街並みを眺めているのが至福のとき。さてスジを寝かせてゆったり乗り鉄と行きましょう!