2013年03月10日 21時19分

1991年のドイツ(16)シュツットガルトのケーブルカー。

シュツットガルトの街のもう一つの名物がこれ。ケーブルカー。

当時のメモには「Seilbahnstraße」~「Waldfriedhof」間のケーブルカーとあったのですが、「Seilbahnstraße」は言うならば「ケーブルカー」通りという事で、今思えば駅名とは若干異なるニュアンスかも知れません。

古色蒼然たる車両で驚くべきですが、鉄道のスタッフは鉄道マニアを見慣れているのか、車内では先頭部分の窓を開けてくれたりして、便宜を図ってくれました。日中は12分間隔で、乗車時間は約4分。乗務員が2人乗っていたとメモにありました。

また、こちらの車内の写真ですが、左に座っているご婦人たちには、ドイツ語でちゃんと承諾を得て撮影しています。(「撮影していいですか?」とガイドブックに書いてあったのをそのまま見せた)

それはさておき、外観だけではなく、内装も古色蒼然ですが、いい味を出していると思うのは私だけではないはず。1991年当時でも、この車両は現役で、決して保存鉄道ではありません。

終点はこんな感じで、墓地への足…と聞いたような気がします。

2013年03月09日 21時13分

1991年のドイツ(15)シュツットガルト・ラックレールの威力。

ラックレールの鉄道は登山電車のイメージですが、ここはあくまでも市街電車です。

大体どれくらいの傾斜かと言えば例えば「Haigst」停留所ではこんな感じです。当時、もう少しちゃんと調べておけば良かったと思っても後の祭りですが、「Wielandshöhe」の停留所には123パーミルの案内表示がされていました。

参考までに英語版Wikipedia「Stuttgart Rack Railway」には、最大傾斜は17.5%とありましたが…、123も175もこれ位になると今一つ実感がありません。ただただ急勾配であることだけを感じていました。

ラックレール鉄道で楽しみの一つにポイントの構造があります。この写真を改めて見て感じたのは、線路とラックレールが同時に動くのを動画で撮ってみたいと思ったことです。

ところで電車の山側には貨車がついています。目的は『自転車を積む』というのがドイツらしさですが、比較するには種類は異なるのですが。日本の立山ケーブルカーは貨車が谷側についており、その違いは面白いですね。(このラックレールのトラムは言うまでもなく、今も現役です)

2013年03月08日 21時12分

1991年のドイツ(14)シュツットガルトのラックレールトラム。

シュツットガルトと言えば、ベンツ!

シュツットガルトの観光の目玉(だと私は思っています)がメルセデス・ベンツミュージアムです。

1991年10月22日、やはりここは外せないだろうと思って足を運びました。

「ただ、、、」と敢えて書かせていただきますが、私にとってシュツットガルトで最大のアトラクションはかのベンツ博物館よりこちらです。

シュツットガルト中央駅からほど近い「Marienplatz」停留所。トラムにしては明らかに大がかりな車止めが目立ちます。ここから「10系統」は出発し、「Degerloch」を目指します。

この10系統は単線のトラムでしたが、手元のメモでは15分間隔と書いてあり、運転頻度は都市交通の役割を十分に果たしていました。「あれっ」と思いつつ線路の間にあるもう一つの線路の様な存在にお気付き頂けましたでしょうか?

交換駅「Wielandshöhe」でのこの写真で一目瞭然ですね。起点から終点まで『ラックレール』の路線で、そもそも道路に敷かれたラックレールは相当に珍しい存在のはずで、「世界でここだけ!」だったらどんなに楽しいかと思ってここを訪れました。

冒頭の「シュツットガルトで最大のアトラクション」と書いた理由がここにあります。

2013年03月07日 22時17分

1991年のドイツ(13)シュツットガルトは坂の町。

2月28日以来のドイツ話し。

シュツットガルトは坂の町です。

街の中心部を少し離れると、山懐に抱かれた住宅が広がっています。

そこを目指すトラムも、ご覧のように坂を駆け上がってくることが見て取れます。

そのトラムも都心部では地下区間を走ります。ここは「シュツットガルト中央駅」です。旧型の電車が地下駅を通らなくなってどれ位の月日が経っているのでしょうか?今は路線も増え、かつ再編成もされているようで、1991年の路線図と今の路線図を比べてみるとその違いには驚かされます。なお、『LRT整備都市』にはここシュツットガルトの名前はあり、1985年となっていました。因みに写っている電車は土佐電鉄の「シュツットガルト市電」と同型車です。この電車が更に福井鉄道で活躍することになりそうですが、“本場”シュツットガルトでこの写真を撮影していた頃には既に日本の土佐で走っていました。不思議な感じがします。

2013年02月28日 21時05分

1991年のドイツ(12)シュツットガルトのUバーン。

「Schreiberstraße」停留所です。

U系統の『乗務員扉』のある電車が安全地帯の無いところで停車し、道路から直接乗り降りするのは日本では私の記憶の限りでは思い当りません。どこかにあったかなあ?

もっとも安全地帯があれば福井鉄道を、一方、乗務員扉が無い電車であればまるで今はなき名鉄岐阜市内線を髣髴(ほうふつ)させます。それはさておき、近代化が済んだ今はこうした光景は今は昔となっているような気がします。

この写真は「Schreiberstraße」~「Marienplatz」間で地下区間から出てくるところですが1991年当時の路線図ではU系統しか走っておらず、メーターゲージの線路は既に錆びついていました。

2013年02月27日 21時04分

1991年のドイツ(11)シュツットガルトのトラムの3線区間。

「シュツットガルト」U1系統「Fellbach」行き。手元のメモでは『Bad Cannstatt』電停とあります。

当時のシュツットガルトはメーターゲージと標準軌の3線軌道の区間も多く、この電車の様な『U』の付く系統は標準軌の電車が使われ、専用軌道ではやはり時速70キロを出していました。

一方、『U』の付かないこの電車のような系統(この写真は2系統)はメーターゲージでした。場所は上の写真と同じです。

この3線軌道は、トラムの近代化(標準軌化)をして路線拡大を図るための過渡期の姿だったのですが、Wikipedia「シュトゥットガルト」の項目には、2007年には最後の路線が標準軌化されたとありました。今、この2系統はUの何系統になっているのでしょうか?

2013年02月26日 20時46分

1991年のドイツ(10)シュツットガルトを目指す。

ところでデュッセルドルフからシュツットガルトまでは手荷物1個だけの気楽な旅でした。大きく重いトランクは前日の昼過ぎに既に鉄道便で送っています。この時のヨーロッパ探訪では、何回かこの手を使っています。

威厳と風格のあるフランクフルト中央駅。この姿は今も変わっていません。

ネガの順番でおそらくフランクフルト中央駅の構内に停車中の「レールバス」風の車両。「Indusi-Messwagen」とは何の意味なのでしょうか?撮影時は気になったからこうしてカメラに収めたのでしょうが、今、改めて見て、何も考えずにシャッターを押したことが良く分かりました。今更考えてもしょうがないのですが、雰囲気的には保線か何かの計測用の感じですね。

このフランクフルト中央駅から次の目的にシュツットガルト中央駅までは、この年に登場したばかりのICEに乗車、しかもマンハイム~シュツットガルト間の高速新線も体感。在来線と新線を行き来するのは軌道の間隔が同じだからこそですが、とてもシームレスで、日本でこれが出来ないのは本当に残念に思いました。それにしてもICEの写真がこれしかないのは何故だろう?

この旅の最大の目的地と言っても過言ではない「シュツットガルト」に到着。この地は2泊の予定です。(もっともこの駅の写真は到着翌日の10月22日撮影)

ところで右の塔のような場所の上にあるのは間違いなくベンツのマーク。この街にはダイムラー・ベンツの本社があり、メルセデス・ベンツミュージアムもあります。流石、シュツットガルトと感じた瞬間でした。

2013年02月25日 20時32分

1991年のドイツ(9)ルフトハンザエクスプレス・フランクフルト空港。

デュッセルドルフ空港駅発12:36の“列車”はフランクフルト空港駅に15:35着。(実時間ではなく、ダイヤ上の時間です)

この列車の他の乗客と違い、ここから飛行機に乗り継ぎでは無かったのですが、取り敢えず空港ターミナルを目指しました。

そこにあったのが「ルフトハンザ エアポートエキスプレス」の搭乗カウンター(?)で、左側に「デュッセルドルフ」、右側には「シュツットガルト」とあり、実はエアポートエキスプレスはその2都市と結ばれていました。

両方とも1日4往復あり、日本にはない面白さがありました。こんな写真を撮っていたとは全く記憶に無かったのですが、航空便名の列車の実情調査も旅の目的にあったのでこうして撮影したのでしょう。

その流れかどうか、フランクフルト空港の写真も撮っていました。

2013年02月24日 21時27分

1991年のドイツ(8)ルフトハンザエクスプレスとは?

今から10年ほど前になりますが、取材でベルギーのブリュッセルに行ったことがあります。その時に利用した航空会社はエアフランスで、まずは成田からパリに向かい、「シャルル・ド・ゴール空港TGV」駅から『航空券』でTGVに乗り継ぎ目的地に向かいました。もともとその区間に飛行機が飛んでいたかは分かりませんが、例えば他の航空会社であれば、ハブ空港で乗り継いで飛行機で向かうのでしょうが、TGVならパリ~ブリュッセル間は1時間半ほどだったので、エアフランスがこの区間に飛行機を飛ばす理由はなく、TGVの中にエアフランスの席が用意されていました。

さてこの列車は1991年10月21日撮影の「ルフトハンザ エアポートエキスプレス」。DBのヘッドマークが輝いていますが、この写真の列車番号は「LH1005」で、もうお分かり頂けると思いますが、ルフトハンザ航空の『飛行機の便名』が付いた列車で、写真の「デュッセルドルフ空港」駅と「フランクフルト空港」駅を結んでいました。ということで今から22年前、そんな列車がドイツにはあったのです。先に書いたエアフランスの場合は、一列車の一部がエアフランスの専用席だったのに比べ、こちらは丸々一編成がルフトハンザでした。

写真は途中駅の「デュッセルドルフ中央」駅(ルフトハンザ空港の時刻表では「デュッセルドルフ・シティ」とありました)で、ここを出ると「ケルン中央」「ボン」(当時の首都)に停車し、デュッセルドルフを出た時には余裕があった座席が「ボン」でほぼ満席になったと手元のメモに書いてありました。この列車の座席はどうも指定席では無かったようで、メモには『座席確保の自由席車の様だった』とも書いてあり、また「席はお好きなところで」と言われたので、禁煙車、オープンカー(コンパートメントではない)、ライン川側の席「2号車7F」に陣取ったとも書いてありました。(この時のチケットは行方不明です。ユーレイルパスでは乗れなかったと思うのですが…)

沿線はライン川の渓谷の景色は古城も各所に見られて素晴らしく、かの有名な「ローレライ」はギリギリ撮影できました。

2013年02月23日 21時21分

1991年のドイツ(7)エッセン~ミュールハイム。

一昨日も資料で使用した『LRT整備都市』に載っている路線で、世界的に見ても新しい都市作りの観点で作られた最初のグループの一角に入ると思われるのが1974年(昭和49年)に開通した「エッセン~ミュールハイム」間の“都市間軌道”。

ここはエッセン中央駅の地下にある「ミュールハイム」行きの乗り場。

ホームが低く、車両もトラムっぽいのですが、何となくそれよりミニ郊外電車的な雰囲気が漂っていました。

そして地下駅を出て暫くすると道路の真ん中の専用軌道となっており、その区間のスピードたるや私の手元のメモで時速70キロ前後とありました。ここを訪れた理由は、この路線が道路と一体的に作られたという紹介記事を読んだからで、もっともそれも今となっては私の記憶の範囲で、参照資料が見つかっていません。ともあれ乗った感想だけは書けます。北大阪急行電鉄のミニ版と言ったところでしょうか。

中小都市での地下鉄導入はハードルが高いものがありますが、知恵と工夫で何とかなるものだという事もこの鉄道から見えます。またこの整備された道路からはドイツが車の国ということも分かりますが、それでも公共交通機関の整備も怠っていないというのがドイツらしさでしょう。

(余談)

もともとはエッセンを訪れた主たる目的は、世界初のガイドウェイバスに乗ること。名古屋のゆとりーとラインの元祖になるのですが、行った日が10月20日の日曜日!日曜日と言うのはヨーロッパでは鬼門と言いたくなる日で、何とガイドウェイバスは全面的に運行無し!(バス停の時刻表にそうありました)そんなこともあって昨日UPしたデュッセルドルフはたっぷり時間がとれました。トホホッ。



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プロフィール

稲見部長稲見眞一
<自己紹介>
昭和52年4月、中京テレビ放送入社。「ズームイン!!朝!」を始めとした情報番組や「ドラマ」「ドキュメンタリー」等のディレクター・プロデューサーを務めた。鉄研最終回(2010年1月29日放送)では自ら自慢の鉄道写真「俺の一枚」を持って出演。 鉄道歴は小学校5年からスタートしはや半世紀。昭和55年には当時の国鉄・私鉄(ケーブルカーを除く)を完全乗破。平成18年にはケーブルカーも完全乗破。その後も新線が開業するたびに乗りつぶしている筋金入りの“乗り鉄”。好きな鉄道は路面電車。電車に揺られながら窓外に流れる街並みを眺めているのが至福のとき。さてスジを寝かせてゆったり乗り鉄と行きましょう!