2013年02月07日 21時16分

1991年のスウェーデン・ヨーテボリのトラム。

北海からバルト海へ繋がる海峡の町、ヨーテボリ。当時、スウェーデンからドイツに鉄道で抜ける最短ルートは「ストックホルム」~「ヨーテボリ」~「コペンハーゲン(デンマーク)」~「ドイツのどこかの町」でした。その乗り継ぎで下車したヨーテボリ。その頃、スウェーデンのトラムはストックホルムとここヨーテボリで、12:12発の「コペンハーゲン」行きの出発時間まで、まずは駅前で撮影をしました。

と言っても2時間ほどしか時間が無いので、駅から歩いて10分ほどの場所までしか行っていません。800番台の車両は、当時としても少々使い古した感はありました。

新しい車両の方が、車両番号が若く200番台となっていました。

ところで公共交通の考え方なのでしょうが、バス・トラムと乗用車・トラック等の車の走行レーンが分かれているように見えました。ただあくまでも「見えた」というだけで、十分な調査に基づいていない情報をこうして書くのは宜しいことではありませんが、どなたかご存知の方がいればご教示いただきたくあえて書いています。

2013年02月06日 22時49分

1991年のスウェーデン・X2000。

1月27日以来のスウェーデンの続きです。

1991年10月17日(木)、首都/ストックホルムで15日間有効の「ユーレイルパス」の使用を開始し、まずはスェーデン第2の都市、ヨーテボリを目指しました。乗車したのは前年に登場したばかりのX2000。振子式の車両で、在来線を時速200キロで快走することで当時、日本でも話題になっていました。また振子式と言えば日本なら電車となるのですが、スウェーデンでは電気機関車が牽引する客車列車で、しかも客車だけに振子が装備され、そうした意味で注目を浴びました。X2000の存在がスウェーデンをヨーロッパの起点にした理由の一つなのですが、新幹線並みのスピードで在来線を走る感覚は思ったよりも「何でもない出来事」と感じた記憶があります。それは人口密集地といえるところがあまりなく、大自然の中を走り抜けていたからなのでしょう。

さて私が乗車したのは朝6:30発の列車で、日本で作った予定表では8:00に乗る予定だったのを1時間半繰り上げていたことになるのですが、何せ記憶が曖昧で申し訳ないのですが、路面電車のあるヨーテボリで少し時間をとろうと思ったか、それともX2000は乗車率も高く、満席が理由で1本早くしたのかが定かではありません。

乗車すること3時間25分。9:55が定時の到着時間だったのですが、ほぼその時間通りについたような記憶があります。

到着後、取り敢えず重いスーツケースを駅に預け、駅の外に出たのは10時を少し回った頃でした。このヨーテボリ駅を撮影した時、時計は10時20分を指していました。

2013年01月27日 21時52分

スウェーデン・ストックホルムにて(2)

もう一回だけストックホルムの街歩きにお付き合い下さい。

水の都・ストックホルム市の象徴「ストックホルム市庁舎」です。ノーベル賞の晩餐会の会場となることでも知られています。

こちらは「ストックホルム市庁舎/黄金の間」です。ノーベル賞のパーティー会場だそうです。昨年、山中教授もこの場に立たれたのでしょうか?

1991年にここを訪ねた際は、単に「ノーベル賞」の受賞者と同じ場所に立てただけで少々嬉しい気分だったとの記憶があります。それにしても名前の通りの「黄金」の輝きに圧倒されました。

ところで北欧の日の入りは思いの他早く、曇り空ともなれば撮影ができる時間はざっくり朝の10時から午後2時頃までで、この写真も夕闇の中のフラッシュ撮影に見えますが、時間帯はそれほど遅くなかったはずです。ということはともかく花屋さんのカラフルさは、厳しい寒さに生きる北欧の人々の楽しみなのでしょう。このエリアは市場となっており、果物屋さんも隣にありましたが、そこもカラフルな売り場になっていました。

2013年01月26日 21時45分

スウェーデン・ストックホルムにて(1)

鉄道から少し離れます。

スウェーデンの国名は正式にはスウェーデン王国です。つまりこの国には王様がいらっしゃいます。

1991年10月15日、この日、ストックホルムの町を歩いていた私の目の前をまるで中世にタイムスリップしたような馬車が通り過ぎました。

ルクセンブルク大公国(ドイツ・フランス・ベルギーに囲まれた国)のルクセンブルク大公がスウェーデンを訪問されたとのことで、スウェーデン国王・王妃とルクセンブルク大公ご夫妻を乗せた馬車を思いがけず見ることができ、偶然の幸せを感じていました。

この日は何故か市内各所でものものしい警備態勢が敷かれ、車の通行だけではなく、歩行もかなり制限をされており、本当ならもっと早く何がしかに気付くべきでした。

警備の警察官と記念写真を撮らせてもらったのですが、帽子も含めてこの服装は警察官にとっても特別だったようで、この方は「初めての経験です」と思いのほか喜んでおられ、この服装の警察官の方たちが互いに記念写真を撮影していました。もっとも私の拙い英語で聞いたことなので若干、怪しい面があるのは否定しませんが、王宮を警備する「衛兵」ではなく「警察官」と言われたと記憶しています。

「鉄」旅ではこうした街歩きも楽しんでいます。

2013年01月25日 21時28分

スウェーデン・ストックホルムのトラム「21系統」。

「Tunnelbanan」(地下鉄)の終点の一つ「Ropsten」(ロープステーン)から「21系統」が出ていました。21系統は「Lidingobanan」と呼ばれる路線で「Ropsten」から「Gashaga」(手元に残っているメモには「ゴックスアーガ」と書いてありましたが、本当の所は…)の間9.2キロを約20分で結んでいました。

※路線長の参考資料:英語版wikipedia「ストックホルムの公共交通機関」

写真を見る限り単線で、と書きつつ全線単線だったかどうかがうろ覚えなのですが、ともあれここは「Ropsten」から7駅目の「Parkvagen」駅です。まるで人里離れた山中の小駅の佇まい(たたずまい)ですが、ラッシュ時には約10分間隔、日中でも20分間隔の電車が走っていました。

ここが21系統の終点「Gashaga」です。駅前には大きな工場のような建物がありましたが、それがどんな会社なのかまではわかりませんでした。ところで上の駅名の表記ですが、取り敢えずローマ字表記にしていますが本来はスウェーデン語であり、この駅で言えば「G」の次の「a」の文字の上には記号がついています。

さて日本でも、もとい名古屋でも知られている「スウェーデン」と言えばファッションブランドの『H&M』。日本でその存在が知られていなかった1991年にもトラムの終点にはその看板がありました。左手前の女性の顔がそれです。今回、この写真を見ていてそれに気付いたのですが、当時、当然のことながらこの『H&M』の看板を意識して撮影したわけではなく、恐らく数年前にこの写真をスキャンしていていたとしたら、ブログをやっていなかったことも含め、何も感じなかったでしょう。

2013年01月22日 21時17分

スウェーデン・ストックホルムのトラム「12系統」(2)。

1991年のストックホルム市内「12系統」トラムの車内はこんな感じです。

比較的小型な車両の2両編成(300番台の車両+600番台の車両)で、それぞれの車両の真ん中に乗降扉があり、その両側にボックスシートが配置されていました。そのシートの何とも味わい深いことよ!といいつつ私は当時のそのシートの座り心地を何も覚えていません。残念ですが…。ただ乗車したことは覚えています。たしか私が終点の「Nockeby」に向かう時の運転士さんが、研修中の女性だったことが印象に残っていたからです。

そして日本では見かけないパンタグラフの形ですが旧・ソ連では同様のタイプのものを見かけました。その辺りはあまり詳しくないのですが、当時、ヨーロッパで一般的だったかどうかまでわかりません。と書きつつ、パンタグラフの形狙いでこの写真を撮影したわけではなく、背景の集合住宅も含めて如何にも北欧風に感じたからです。

2013年01月21日 20時46分

スウェーデン・ストックホルムのトラム「12系統」(1)。

スウェーデンの鉄道についての情報は、1991年当時は決して多くはないというより、はっきりいって極めて乏しい情報しかありませんでした。

それでも「福祉国家」の名に負けないバリアフリーの交通施策や、その地形(湖に浮かぶ島の街ともいえる)の関係で深いところを走らざるを得ない地下鉄の構造を利用したホーム美術館と言った情報は徐々に集めることができました。そしてもう一つ見つけた情報が、路面電車「12系統」(Nockebybanan=Nockeby線)の起点「Alvik」駅の変わった線路構造でした。

この線は「Alvik」」(私には「アルヴィク」に聞こえました)~「Nockeby」(同じく「ノックビー」)間を結ぶ路線で、路線長は調べきれていないのですが、片道13~15分程度で、平日ダイヤでは最短5分間隔、日中は10分間隔で運転されていました。

こうして走っているところをみれば普通のトラムですが、その地下鉄への乗り継ぎ駅「Alvik」では同一ホームで乗り継ぐ形になっていました。

その「Alvik」の駅の構造ですが、ストックホルム中心部から地下鉄に乗り、ここで下車すると目の前に停車中のトラムが「Nockeby」行きの電車で、逆に「Nockeby」から乗り継ぐ場合は、目の前にストックホルム中心部に向かう電車に乗り継げるようになっていました。どういうことかと言うと、「Nockeby」から来た“上り”電車はホームで乗客を降ろしたあと“下り”ホームに転線していたのです。(私の記憶です)

と書くと簡単なことのようですが、スウェーデンはもともと車の通行は日本と同じ左側通行で、それが1967年にヨーロッパ標準の右側通行に変わりました。ところが鉄道は左側通行のままであり、右側通行の「12系統」の上り電車がそのまま「Alvik」駅に侵入した場合、地下鉄では下り線ホームに入ることになります。

それを回避するために何をやったかと言えば「12系統」の線路を「Alvik」直前で平面交差でクロスさせること。ある意味、ヨーロッパ的な乗客サービスの発想と言え、日本ではもしも同様の事態があったとしても、『平面交差』ということは実現したでしょうか?

失礼!少々パターンは異なりますが、JR北海道/千歳線「南千歳駅」がありました。

2013年01月18日 20時00分

スウェーデン・ストックホルムの地下鉄芸術。

このブログでは以前、名古屋市営地下鉄「桜通線」の壁画について書いていますが、その原点となったのがストックホルムの地下鉄芸術(駅ナカ芸術)です。

ストックホルムの地下ホームは大規模な構造となっており、その空間を利用して“芸術”作品が展示されています。この「Vreten」駅の作品は日本人作となっていました。(作:TAKASHI NARAHA)

こちらは「Tensta」駅の作品のほんの一部。比較対照するモノがなくて申し訳ありませんが、こうした造形物があるという雰囲気をお楽しみください。

そして「Kungstradgarden」駅。

ここまでくるともう博物館の中ですと言っても信じてもらえそうです。それにしても駅ナカ芸術巡りをするだけで一体何日かかるのだろうかと茫然としたことを覚えています。

ストックホルムの地下鉄駅には当時「WELCOME TO THE WORLD’S LONGEST ART EXHIBITION」というパンフレットが置いてありました。『世界で一番長い美術館』といったところでしょうか。

2013年01月17日 21時27分

スウェーデン・ストックホルム市の地下鉄。

車中2泊+ホテル1泊+車中3泊と1週間かけてシベリア鉄道でユーラシア大陸を横断。更にモスクワに2泊した後10月13日(日)の夜遅くスウェーデンの首都・ストックホルムに着きました。

ストックホルムの交通機関で見たかったのは、バリアフリーの現状でした。

地下鉄ですが、1991年当時、私の見た限りですが全駅にエレベーターが設置されており、そこで成程というか驚いたのはベビーカーの利用者がとても多かったことです。考えてみれば当たり前なのですが、バリアフリーは障がい者・高齢者と言った方たちのためだけにあるわけではありませんでした。

日本の交通機関の車内ではベビーカーは畳んでいるのが一般的でしょうが、ストックホルム市内では、路線バスを含め、ベビーカーはそのまま乗り込むのが常識となっていました。乗客の絶対数であったり混雑具合が異なるため、一概に是非をいうことはできませんが、今風に言えばママ友たちが何台もベビーカーを連ね都心を闊歩するさまはとても好感が持てました。赤ちゃんのいる家庭にとって公共交通機関で家から都心にベビーカーのまま堂々と出かけられるのは、今の日本でも是非実現してほしいと思います。そうそう、路線バスに乗り込もう(降りよう)とするベビーカーは、運転手さんではなく乗客の方たちが協力して乗せて(降ろして)いました。

一方、こちらはお国柄というか考え方と言うか、その差がはっきり出ていると感じたのですが、階段に敷かれた2本のレール(金属板)です。これはまたまたですが、ベビーカーをこのレールを使って押し下げたり引き下げたりするためのものと聞きました。この国では、デパート等での上下移動の際、ベビーカーはエスカレーターを使うのが常識となっており、日本のようにエスカレーターでのベビーカー禁止とは随分違うものだとは思ったものの、流石にこのレールには驚かされました。

 

2013年01月16日 23時12分

1991年のヨーロッパ(1)まずはソ連へ。

1991年10月4日(金)、私はソ連(現・ロシア)のハバロフスクを目指しました。そしてそこを起点にシベリア鉄道に乗車しつつヨーロッパに入りました。

ヨーロッパに向かった目的は「ヨーロッパの最新交通事情」(1991年当時)の実地検分。会社に報告書を提出する必要があったので事前準備はそれなりに行ったのですが、何せ放送の予定はなくカメラクルー同行の『取材』ではなかったこともあり、そのため特に現地で通訳の手配をしておらず、私の『趣味の範囲』ともいえる今思えば不十分な検分でした。

今回、そのヨーロッパ見聞録をシリーズでここに書くには“趣味”として公共交通・路面交通・海外の鉄道など特定の分野の研究をされている方からみればいささか「おざなり」どころか「なおざり」にすら達しないレベルでしょうがその辺りはご容赦いただければ幸いです。

シベリア鉄道の話しは2010年(平成22年)5月13日からこのブログで書いていますので、それと重なる話し(写真)は避け、まずはハバロフスク空港到着時の写真です。

当時、ソ連では空港・鉄道施設は軍事的理由により撮影禁止で、こうした写真を撮影するとまずはフィルム没収の可能性があることを覚悟していました。ただ、1991年に入りその規律が緩んでいるとの情報もあり、流石に航空機内であったり、機内からの風景写真撮影は避けました。とはいうものの旅は始まったばかりで、没収されても良かろうという思いで堂々と撮影してもらいました。結果は空港係員に見咎められることも無く、無事に市内のホテルに向かうことが出来ました。現在のロシアの事情は分かりませんが、空港施設の撮影禁止は今も海外ではあります。

※私の後ろにある夥しい数の旅客機に注目です。広い国土の移動には必要な交通手段と言う事でしょうが、それにしても当時、日本ではお目にかかれないほど広大な空港でした。

 

(追伸)

1月12日にUPしたフランス・ストラスブール市の路線長について「ばけぺん」さんから、『正しくは40.2kmです。公式のHPなどのデータは53kmとなっていますが、これは系統の合計です』とのコメントを頂きました。ご指摘ありがとうございました。



ADVERTISEMENT

電子書籍「稲見駅長の鉄道だよ人生は!!」
稲見駅長の鉄道だよ人生は!! ―各駅停写の旅―

カレンダー

2021年2月
« 7月    
 123456
78910111213
14151617181920
21222324252627
28  

プロフィール

稲見部長稲見眞一
<自己紹介>
昭和52年4月、中京テレビ放送入社。「ズームイン!!朝!」を始めとした情報番組や「ドラマ」「ドキュメンタリー」等のディレクター・プロデューサーを務めた。鉄研最終回(2010年1月29日放送)では自ら自慢の鉄道写真「俺の一枚」を持って出演。 鉄道歴は小学校5年からスタートしはや半世紀。昭和55年には当時の国鉄・私鉄(ケーブルカーを除く)を完全乗破。平成18年にはケーブルカーも完全乗破。その後も新線が開業するたびに乗りつぶしている筋金入りの“乗り鉄”。好きな鉄道は路面電車。電車に揺られながら窓外に流れる街並みを眺めているのが至福のとき。さてスジを寝かせてゆったり乗り鉄と行きましょう!