チェーホフの駅にいた時に、工事用車両の入れ替えを見かけました。
こんな車両を見たことがない!ということになりますが大迫力であったことは間違いありません。
駅構内にはこんなレールを敷いた枕木を段積みした車両もあり、これは間違いなく今、サハリンで進められている1067ミリ⇒1520ミリへの改軌に使うものでしょう。
今回、サハリン鉄道歴史博物館の館長さんから提供された写真の中に、その工事の様子が分かるものが入っていました。
改軌工事については話しには聞いていてはいたものの、まさか目の前でその一端を垣間見るとは思ってもいませんでした。
またサハリンの東海岸と西海岸を結ぶ北部横断線については、改軌工事と共に一部では大規模な路線変更も行われているようで、この写真には2本のレールしか見られないもののその新線区間ではないかと推察されます。
今現在、どの程度の区間でとりあえずの3線化が終わっているかについては分かりませんが、何年か後には1067ミリゲージがここサハリンから消えていくことになりそうです。
チェーホフ駅に14:50、予想通り定時着。
乗客たちは三々五々散っていきます。駅の中を通り抜けていくのはどうも普通のことのようです。
青色の駅舎。そう言えばホルムスク北駅の駅舎も同じ色です。
駅前では駅名の由来ともなっているチェーホフが迎えてくれます。ロシア国内で「サハリン」が知られるようになったのはチェーホフがこの島を旅して書いた「サハリン島」からということで、サハリンでのチェーホフの存在は別格と言っても過言ではありません。でも足を踏み入れていない地にその名が残ったのは何故でしょう?
昭和3年発行の「樺太の鉄道旅行案内」にあった野田の町。折り返しの列車が15:04発とそれほどの時間がなかったため、街中に出ていないので分かりませんが、日本家屋がロシア風に建て替わった姿を勝手にイメージして今にトレースしていました。
「旅行案内」の「主要旅館」によれば近くに温泉旅館も含め3軒の名前が出ていますので野田の地がそこそこの規模だったことが推察されます。それより野田駅の右隣にある登富津「荷客扱所」ってどんな存在だったのでしょう?こちらが気になります。
南駅側から見たホルムスク北駅。
道路側から見た駅舎。
貨物列車が停車中。どれ位の頻度で運転されているのでしょうか?
チェーホフ(Чехов)行きの列車が出るまでの時間を使ってホームで昼食。
スーパーで買った海苔巻。韓国の海苔巻き・キムパのようです。ただ酢飯ではなくいわゆるご飯。キムパならその通りなのですが、やはり醤油が欲しい。そう言えばスーパーには醤油も売っていたっけ。そういう人が買うものであって調味料を持たない私達向きではなかったようです。
いよいよ乗車。お客さんは結構多い。
これから往路ホルムスク北(北真岡)~チェーホフ(野田)間の距離44.7キロ。
復路チェーホフ(野田)~ホルムスク南(真岡)間47.6キロ(昭和14年の時間表参照)の旅が始まります。
●北駅13:30発の列車が3:25着の5分停車なのを失念していてちょっと焦ってギリギリで撮った写真。恥ずかしい。
ホルムスクのロシア正教会は改築中。
12:50過ぎ、ホルムスク北駅(Холмск-Северный)まであと一歩と言うところで踏切の警報が鳴り始めました。
※(68)でUPした踏切です。
気動車が通過。この気動車は南駅までの送り込み回送で、折り返しチェーホフ(野田)行きとなり、これから私たちが乗ることになります。
そうそうっ、サハリンの踏切で特に交通量の多い道路でたまに見かけた車止め。警報機がなり暫くするとこうして金属板が持ち上がり、
列車が通過すると板が降りて車が通ることが出来るようになります。板の上がっている角度を見ればわかりますが、これなら警報を無視してまで通ろうとする車はいないでしょうね。
定期的に運航日が決まっているわけではなく、運ぶ貨車があれば出航すると聞いていたこの連絡船。
出会えればラッキーというまるでドクターイエローのような存在。
岸壁に近づいてきました。
沖合にこの船がいることに最初に気付いたのが丁度12:00頃で、これからの私達の予定に全く影響しない時間での入港。本当に私達の今回の旅は運が良い。まして車をチャーターできずに路線バスで来たから出会えたこの瞬間です。
間もなく接岸。
これで接岸。撮影を始めて僅か10分の出来事で、多分このブログを呼んでいる方も「えっ!たった10分」と驚いてもらえると思っています。
参考までにこの船に積まれるのはロシアのブロードゲージ1520ミリの貨車。
鉄道歴史博物館提供の写真でその様子が垣間見られますが、以前日本からサハリンへの「鉄道愛好家」向けツアーが何度か実施された際、ここの見学も組み込まれていたそうです。
で、陸揚げされた貨車はここホルムスクで1067ミリの台車に履き替え、サハリン各地に散っていきます。
逆にサハリン各地から戻ってきた貨車は逆の手順で1520ミリの台車に履き替えてロシア本土に戻っていきます。日本では消えてしまった鉄道車両の航送を、日本から一番近くでやっているここロシア。船のダイヤが決まっているのなら乗ってみたいものですね。
海を臨む公園の向こうに船がいる風景。素敵です。
さて、ここホルムスク(真岡)から北の町チェーホフ(野田)にこれから乗り鉄するのですが、私達は列車の始発となる「ホルムスク南駅」ではなく「ホルムスク北駅」(Холмск-Северный)から乗ることにしました。
理由は下記のようなこと。
1)帰りのバスの乗車券の購入。
指定席なので一瞬の躊躇はあったものの列車が遅れる事は無かろうと買ったのですが、結果論としてこれは良い判断でした。
2)昼ご飯の買出し
ホルムスクの南駅と北駅の間にバスターミナルがあり、そのエリアが町の中心であっていろいろなお店が並んでいるのですが、鉄道駅の近くには一切お店がありません。(これは断言できます)
そのためスーパーで買出しを終えた私達は、南駅か北駅を目指す必要があり、ということもあって北駅を目指すことにしました。
3)列車に乗るまで時間があった。
ホルムスクに着いたのが10:25。列車が出るのは北駅で13:30。
4)市内の風景を撮影できるポイントを探しながら歩いていた。
などなどです。
移動の途中で見かけた鳩たち。何故かこの屋根だけにぎっしり。不思議。
港の見える公園があり、そこで海を見たら一艘の船がこちらにお尻を向けている。
えっ?ひょっとするとと言う話しになり、しばし様子を見ることに。
すると船尾が大きく口を開け始めた。
中にはタンク車がいる!
間違いない!!これはロシア本土のワニノ(Ванино)とホルムスクを結んでいる鉄道連絡線だ!
さて旧真岡駅があった場所。
今はホルムスク南駅(Холмск-кЮжный)となっています。
このコンクリートの塊が真岡駅の基礎の痕跡といわれていますが、ほぼ同じ場所にあるのに「ホルムスク」ではなく「ホルムスク南駅」を名乗っているのは何故でしょう?
サハリン鉄道歴史博物館からご提供いただいた「真岡駅」。キャプションに「Maoka」とあったので、日本時代の写真と思われます。
日本時代の真岡には大きな港があり、当時の写真も「樺太の鉄道旅行案内」に残されています。
「樺太の鉄道旅行案内」にあった「真岡節踊」の写真。真岡節という歌があり、それに合わせての踊りもあったということでしょうが、往時の真岡の町の発展振りがこの1枚の写真からうかがい知ることが出来ると思います。