2013年01月16日 23時12分

1991年のヨーロッパ(1)まずはソ連へ。

1991年10月4日(金)、私はソ連(現・ロシア)のハバロフスクを目指しました。そしてそこを起点にシベリア鉄道に乗車しつつヨーロッパに入りました。

ヨーロッパに向かった目的は「ヨーロッパの最新交通事情」(1991年当時)の実地検分。会社に報告書を提出する必要があったので事前準備はそれなりに行ったのですが、何せ放送の予定はなくカメラクルー同行の『取材』ではなかったこともあり、そのため特に現地で通訳の手配をしておらず、私の『趣味の範囲』ともいえる今思えば不十分な検分でした。

今回、そのヨーロッパ見聞録をシリーズでここに書くには“趣味”として公共交通・路面交通・海外の鉄道など特定の分野の研究をされている方からみればいささか「おざなり」どころか「なおざり」にすら達しないレベルでしょうがその辺りはご容赦いただければ幸いです。

シベリア鉄道の話しは2010年(平成22年)5月13日からこのブログで書いていますので、それと重なる話し(写真)は避け、まずはハバロフスク空港到着時の写真です。

当時、ソ連では空港・鉄道施設は軍事的理由により撮影禁止で、こうした写真を撮影するとまずはフィルム没収の可能性があることを覚悟していました。ただ、1991年に入りその規律が緩んでいるとの情報もあり、流石に航空機内であったり、機内からの風景写真撮影は避けました。とはいうものの旅は始まったばかりで、没収されても良かろうという思いで堂々と撮影してもらいました。結果は空港係員に見咎められることも無く、無事に市内のホテルに向かうことが出来ました。現在のロシアの事情は分かりませんが、空港施設の撮影禁止は今も海外ではあります。

※私の後ろにある夥しい数の旅客機に注目です。広い国土の移動には必要な交通手段と言う事でしょうが、それにしても当時、日本ではお目にかかれないほど広大な空港でした。

 

(追伸)

1月12日にUPしたフランス・ストラスブール市の路線長について「ばけぺん」さんから、『正しくは40.2kmです。公式のHPなどのデータは53kmとなっていますが、これは系統の合計です』とのコメントを頂きました。ご指摘ありがとうございました。

2010年07月02日 18時08分

1991年にシベリア鉄道に乗った目的

1991年のシベリア鉄道によるユーラシア大陸横断は、
“乗り鉄の夢の実現”で行けた訳ではありませんでした。

写真は1991年当時、ソ連の『ホワイトハウス』と
呼ばれたロシア共和国最高会議ビルで、
この年の8月19日にクーデターが起き
このビルが占拠されました。

ビルの前にあるのは、その時に作られた“バリケード”で、
クーデターから2か月近く経っていたにも関わらず
そのまま放置されていました。

またクーデターは直ぐに鎮圧されたものの
このあと、世界に大きな衝撃を与えた『ソ連』崩壊は
1991年の12月25日でした。
私が見たソ連は、その狭間の正にドタバタの時期でした。
※『ベルリンの壁』崩壊は1989年。

食糧事情の悪さや、多少の危険に遭遇する可能性が
あったにしても、そこに踏み込み『正に歴史が動く』瞬間を
目の当たりにしたいという私の強い願望は、
シベリア鉄道経由でもOKという思わぬ形で
会社が認めてくれました。
※限られた夏休みの日数ではシベリア鉄道乗破は困難だった。

実際にシベリア鉄道に乗り、車内のみならず
途中の街々での1週間の出来事は
私に多くの経験を与えてくれ、
まさしく、公共の交通機関の中にこそ
庶民の真実が見えることもあると感じました。

皆さんはどんな“乗り鉄”をされているのでしょうか?

シベリア鉄道 完。

2010年07月02日 9時09分

シベリア鉄道 クラスノヤルスク駅

昨日のダニロフ駅から大きく後戻りした
10月9日の現地時間12時過ぎ。
モスクワから4104キロのクラスノヤルスク駅です。
この駅はまだアジアで、ヨーロッパまで
まだ2327キロあります。
※ヨーロッパに入ったのは、翌10日の
 午後6時前位と思われますが、
 オベリスクは既に漆黒の闇の中でした。

戻った理由は、単純に一番多くの車両が
写っていたからですが
これからする話しの中身とは全く関係がありません。

堅い話しで恐縮ですが、
丁度この駅辺りから『考えさせられること』に
何回か遭遇したからです。

1)昼間に駅に着くと、10号車辺りに
  子供たちが集まってくる。
 ⇒10号車は、外国人が乗車しており、
  子どもたちはそのボディーを叩いて
  「チョコレート」「ガム」と大声で叫んでいました。
  ※日本史で出てくる
   第2次世界大戦直後の「日本」ではありません。
2)食堂車の食事の質は、時間を追って悪化しているのに、
  何故か駅に着くと「食堂車」から食糧をおろしている。
 ⇒食糧をおろすと、当の本人である
  食堂車のオバちゃんは、相手から
  現金の束を受け取っていました。
  どうみても横流しです。
  食糧事情の悪い当時、
  ロシア号からの食糧の仕入れは案外、
  堅い手法だったのかもしれません。

2010年07月01日 18時26分

シベリア鉄道 ダニロフ駅 機関車交換

1991年10月11日、
モスクワ駅から357キロのダニロフ駅で
交流25000ボルトから
直流3000ボルトに変わるため
機関車の交換が行われました。
※5月13日にUPした写真が交換後の全景です。

子供たちがその様子を見に来ていたりして
この辺は世界共通ですね。

実はこの写真、機関士さんとバトルの末の産物です。
当時、鉄道の写真を撮影することは“原則禁止”で
ダニロフにたどり着くまで何も言われなかったのが
ある種ラッキーだったかもしれません。
でも機関士さんの怒鳴り声はあったものの
誰かに写真を制止されることはありませんでした。

それでも「橋」の写真は撮っていません。
理由は、そこには必ず軍隊がいたからです。
国防上の問題とのことでした。

それと絶対に撮影しなかったのは「飛行機内」と「空港」。
さすがにこれだけは『止めた方が良い』という
機内で隣り合わせた日本の旅行社の方の忠告を守りました。
本音としては、晩秋の美しいシベリアの大地(絶景!!!)と
数えきれいくらい飛行機が駐機する
とてつもなく広い『ハバロフスク空港』は撮影したかった。
※ハバロフスク空港では、カメラを2台持っている
 理由を聞かれたり、そもそも私の荷物は、
 他の乗客の荷物から30分以上遅れて手渡されており
 ソ連から見れば怪しい「ジャーナリスト」と思われた?

2010年07月01日 9時04分

シベリア鉄道 洗面所

1991年当時のシベリア鉄道「ロシア号」の
洗面所です。

決して清潔とは言い難い雰囲気ですが
ここで顔を洗い、歯を磨いていました。

トイレは…。
実は写真はあるのですがお見せできません。
車掌さんは毎日、ちゃんと掃除をしているのですが
直ぐに汚れてしまいます。(清掃直後はOK!)

車掌さんの名誉のために一言。
当初持っていたイメージと違い、よく働いていました。
ロシア号は、数少ない長距離列車だけあり、
昼間だろうが深夜だろうが
駅に着けば常にお客の入れ替わりがあります。
その度に車掌さんは、切符の確認とシーツ等の交換をし、
あとトイレ以外にも各コンパートメントの
掃除もするなど、結構、大変そうでした。
これでウラジオストックからモスクワまで
8日間連続勤務とのことでした。

ところでトイレの話し。
ハードクラスのトイレは直ぐに汚れるので
タバコの「マルボロ」(当時、世界の通貨と言われていた)
2個でソフトクラスの車掌を買収し、
快適なトイレライフを送っている日本人乗客もいました。
もっともそうしていたのは日本人以外にもいましたが…。

そういえば、ロシア号の車内で、
飲み水はどうしていたのだろう?
水を買った記憶が無いのは何故?

2010年06月30日 19時00分

シベリア鉄道 ロシア号のサモアール

6月13日以来の「シベリア鉄道 ロシア号」です。
※「カテゴリー」の「海外」でこれまでの
 話しを思い出してください。

ロシア号の各車に必ずついている
『サモアール』。サモアールとは給湯器のこと。

よく知られている話しですが
石炭で沸かしています。
これは、万が一の列車事故等で
停電になった場合でも
救援列車が来るまで温かいお湯が
使えることが一番の理由と聞きました。
※シベリアの冬の寒さを考えれば
 お湯の有無は人の生死に関わります。

ハバロフスクからイルクーツクまでは
このサモアールで、紅茶やインスタントコーヒーを
飲んだりしていましたが…。

イルクーツクからはこのサモアールが
正に命綱となりました。
 
1)何せ、食堂車が開店休業。
  具の殆ど無いボルシチだけはありましたが
  腹の足しにはならず。
2)それまで駅ごとに開かれていた『市』が
  全く見当たらない。
3)駅に売店のある大きな駅でも
  所謂「菓子パン」しかない。

実は、私はソ連の食事事情の悪化を聞いていたので
カップヌードルを15個ほど持ち込んでいました。
(トランクの中身の半分以上がこれだった)
それでこのサモアールのお湯を使い、
同乗の日本人にも分けて皆で一時をしのぎました。

2010年06月13日 18時01分

シベリア鉄道 イルクーツク市電

ソ連では、ハバロフスクもそうですが
このイルクーツクでも市電が
市民の足になっていました。

この時は市電に乗っておらず、今思えば「とても残念」という
一言に尽きます。

ここでは夕方までたっぷり時間があったので
百貨店(『デパート』と言うイメージではない)や
レストランでロシア料理に舌鼓を打ちました。

で、驚きの出来事。
1)ソ連のニュースでよく見かけた
  温かそうな帽子を買いたくて百貨店に行ったが
  私の頭が大きすぎたのかサイズが無かった。
  (ロシア人は、体はデカイが頭はそうでもない)
2)レストランの(窓のない)トイレに「電球」がなく、
  手探りと言うか「感」で用を足した。
  ※店の雰囲気や味は良かったのですが…。
3)現役の馬車を見かけた。
などなど。

それはそれとして全体には落ち着いた雰囲気の
穏やかないい町でした。

2010年06月13日 9時04分

シベリア鉄道 イルクーツク駅

1991年10月8日、イルクーツクです。
川は町の真ん中を流れる「アンガラ川」。
川の対岸に見える白い建物が
イルクーツク駅となっています。

米粒程度でこの写真では分かりませんが
列車も写っています…。(残念)

イルクーツクの町は、実は三重県と縁が深く
江戸時代、今の鈴鹿市出身の船頭『大黒屋光太夫』が
江戸(東京)に向けて船を進めていたところ
その船が嵐で漂流。その後ロシアの領地に流れ着き、
1789年から1791年までここイルクーツクに
暮らしてました。(最終的には帰国を果たしました)
※ご存じない方も多いと思いますが、地元の
 鈴鹿市では大黒屋光大夫記念館もある超有名人です。

この話しは井上靖『おろしあ国酔夢譚』として小説となり、
私がイルクーツクを訪れた翌年、緒方拳主演で
映画化もされました。(私は映画を見ました)

話しを戻して、当時、共産圏の町のイメージは
『画一的で面白みがない』といったところでしたが
この町は少し違っていました。

2010年06月12日 18時58分

シベリア鉄道 バイカル湖

10月5日に乗車したロシア号も早3日目。
現地時間で夕方5時頃、美しい風景が広がりました。
写真は、ウラン・ウデ~スリュジャンカエ間で撮影した
バイカル湖です。

透明度と深さで有名な湖ですが
正直、列車からでは実感できません。

でも私はその深い「青さ」に感動し
窓際に長時間立っていました。

ついでにこんな事も考えていました。
「列車の通路がバイカル湖サイドで良かった」と。
多分、バイカル湖がコンパートメント側だったら
ベッドの間の小さな空間(窓ですが…)に顔を押しつけ、
他の乗客を気にしながら、落ち着かない気持ちで
外を見ていたのでは?

シベリア鉄道の旅は、日本と違い
大自然の風景がゆったりとした時間とともに
流れていきます。
『代り映えのしない風景の連続』で
飽きてしまうのではと乗車前は思っていましたが
その緩慢さの心地よさに気付くのに時間はかかりませんでした。

2010年06月12日 9時08分

シベリア鉄道 時刻表

1991年当時のソ連の時刻表です。

写真はロシア号のページで、
一番上の真ん中に列車名「ロシア」(Pocc…)号があり
左側が2列車(モスクワ⇒ウラジオストック)、
右側が1列車(ウラジオストック⇒モスクワ)の
時刻です。

もうお気づきかもしれませんが、
日本の列車番号は下り列車が奇数、上り列車が偶数ですから
発想が真逆なんですね。

それと画面中央の横線のすぐ上にある“2”列車側の
146y05Mの数字は全区間の所要時間で、
ユーラシア大陸横断には146時間5分かかるということ。
一方、“1”列車側の数字は144時間5分ですから
モスクワ行の方が所要時間が短いことがわかります。

また、時刻表の時間は全てモスクワ時間となっており
因みに『1』列車のハバロフスク発は『6:09』と
記載されていましたが、モスクワとの時差が7時間のため
実際の現地時間は『13:09』でした。
※最初は慣れませんでしたが、列車の運行上は合理的ですね。

ところで私の手元にある時刻表は、
モスクワ起点の優等列車のものと思われ、
全ページが、この『ロシア』号と同様に
対となる上下列車がセットで掲載されています。

なお、当時時刻表は全く市販されておらず
ロシア号車内にはロシア号だけの時刻が
書かれた紙が張り出されていました。
結局ロシア号以外の列車の時刻は
「地球の歩き方」(それもほんの一部)でしか見ませんでした。
※列車の時刻も国家機密の一つと言われていた時代です。

最後に、私の時刻表は
6月9日に紹介した帽子を売っていた車掌さんとは
別の車掌さんから申し出があり、
彼から購入したことを報告します。



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プロフィール

稲見部長稲見眞一
<自己紹介>
昭和52年4月、中京テレビ放送入社。「ズームイン!!朝!」を始めとした情報番組や「ドラマ」「ドキュメンタリー」等のディレクター・プロデューサーを務めた。鉄研最終回(2010年1月29日放送)では自ら自慢の鉄道写真「俺の一枚」を持って出演。 鉄道歴は小学校5年からスタートしはや半世紀。昭和55年には当時の国鉄・私鉄(ケーブルカーを除く)を完全乗破。平成18年にはケーブルカーも完全乗破。その後も新線が開業するたびに乗りつぶしている筋金入りの“乗り鉄”。好きな鉄道は路面電車。電車に揺られながら窓外に流れる街並みを眺めているのが至福のとき。さてスジを寝かせてゆったり乗り鉄と行きましょう!