2010年06月11日 18時06分

シベリア鉄道 ウラン・ウデ駅『露店』

シベリア鉄道に乗っていて駅に着くと
乗客相手の露店が並ぶこともあります。

この写真は、昨日紹介した売店と同じウラン・ウデ駅で、
この駅のように
ちゃんとした作りの売店+露店の両方の場合もあれば
売店のみ、露店のみといったバリエーションがありました。

写真中央に山盛りの茶色の丸い物体は
ロシアママ手作りの蒸したジャガイモです。
(これがホクホクしていて何とも美味しい)

私は、昼ご飯をこの様な『露店』で売っていた食べ物で
済ませることも何度かありました。

ロシア人乗客の多くは食料を車内に持ち込んで
それを食べていましたが、
駅に着くと売店や露店があればそこを覗き、
めぼしいものがあると買っていました。

因みに1食分で当時のレートでですが
50円程度と記憶しています。

2010年06月11日 9時22分

シベリア鉄道 ウラン・ウデ駅売店

ウラン・ウデ駅のプラットホームで
写真の様な売店を見かけました。

このような売店はロシア号の停車駅でよく見かけ
売っていたのは主に食料品です。
他駅の売店の事例も含めると
1)ピロシキ(揚げパン)
2)松の実(しかもまるまる「松かさ」の状態)
  ※かさ付きを生まれて初めて見ました。
   松かさのかさの間から実を取りだしながら
   食べるのは不思議な感覚でした。
3)牛乳
  ※意外と美味しかったといったら失礼でしょうか?
4)スイカ
  ※シベリアの10月は、日本の11月末の気候で
   何でスイカを売っているのか不思議でした。
5)トマト
などなどいろいろな種類がありました。
(全部、私がロシア号の7日間で食べたものです)

安くて美味い!庶民の味方でした。

2010年06月10日 18時08分

シベリア鉄道 ウラン・ウデ駅車両の点検

1991年10月7日、
ハバロフスクを出て3日目の
定時なら現地時間午前11時59分着のウラン・ウデ。
ハバロフスクから2884キロ
モスクワまで5647キロ地点です。

この駅は12分停車。
ここで鉄道マンが車体足回りの点検作業を黙々と
行っているのを見つけました。
台車周りを様々な角度からハンマーでたたき
カーンというその音の響きで具合を調べ上げていきます。

全線通しで9297キロのロシア号。
多分、私が気付かなかっただけで
他の駅でもこうした作業が
黙々と行われていたと思われます。

全世界共通ともいえる鉄道で働く人の
安全運転を支える心意気を感じました。

2010年06月10日 9時04分

シベリア鉄道 モゴチャ駅 日独共同作業

ハバロフスクから1601キロ、26時間58分。
昼下がり(現地時間14:48着)のモゴチャ駅です。

この駅で何をやっているかと言えば『窓ふき』。

乗車した時から気になっていたのですが
とにかく窓が汚い!
窓外の風景が滲んで見えた位です。

で、これが始まったのです。
肩車をしている男性とされている女性は日本人で
手前の男性はドイツ人です。

ロシア号では外国人は原則10号車と決まっていたようで
ドイツ人の10名ほどの団体と同じ車両でした。
列車の中では、風景を見ることしか本当にすることがなく
「窓を拭こう!」と話しがまとまったのです。

この後、イルクーツクからモスクワ行に乗車した時も
同乗のお客さんと窓拭きをしています。
※こちらは車掌さんからモップを借用しました。

これも今となっては良い思い出です。
といっても私は窓拭きをしておらず
「写真撮影」をしていました。
※この写真は帰国後、日本人2名には送り
 最終的に義務をちゃんと果たしました。

2010年06月09日 17時48分

シベリア鉄道 グッズ???

シベリア鉄道の車掌さんの帽子と
「ロシア号」のバッジです。

何れもロシア号の車掌さんから売込みがあり
購入しました。

本物は本物ですが、公式な販売物で無いことだけは確かで
払ったお金(ルーブルではなく米ドル!を要求された)は
車掌さん本人の懐に入ったものと思われます。

この車掌さんは、片言の英語(私よりも上手かった)を話し
それで商談をしました。
※本人写真もありますが掲載はご容赦ください。(笑)
確か32~33歳で、2~3歳の子供がいて
『生活が大変』と言っていた記憶があります。

私がロシア号に乗った当時(1991年10月)は、
ソ連崩壊(1991年12月)の直前で国内は大混乱しており、
シベリア地方では冬を越せず“餓死者がでる”のではと
日本でも報道されていました。

そんな中でも庶民たるロシア号の乗務員たちは
したたかに生きており、
ロシア号も時に遅れることはあっても
比較的定時に近い時間で走っていました。

2010年06月09日 9時05分

シベリア鉄道 乗車券

シベリア鉄道の乗車券です。

黄色の枠をつけた部分が列車番号。
栄光の『No.1』です。

緑色の枠内が『10号車 席番24』です。

笑ったのが赤い枠内で
『5191』と書いてあります。
何の数字かと言えば、
モスクワからイルクーツクまでの
距離数です。
※私のロシア号によるユーラシア大陸横断は
 1)ハバロフスク~イルクーツク(2泊3日)
 2)イルクーツク~モスクワ(3泊4日)
 の2回に分けており、
 イルクーツクでお風呂(シャワーですが…)に
 入るため一旦下車しています。
 そのため、この乗車券は後半戦のものです。

日本ではここまで細かい距離数を
記載した乗車券の記憶がないのですが
皆さんはいかがでしょうか?
また、今もロシアではこのパターンなのでしょうか?

ともあれ乗車券一つにもお国柄がありますね。
因みに、ハバロフスクからイルクーツクまでの
乗車券は私の手元にはありません。

2010年06月08日 18時31分

シベリア鉄道 キロポスト

かろうじて6030の数字が
読めますでしょうか?

シベリア鉄道のキロポスト(距離標)です。
※モスクワから6030キロ地点。

日本とは随分雰囲気が違いますね。

このキロポストと時計を使って
列車の時速を割り出したのですが
フルスピード時で
大体100キロちょいオーバー程度と思われました。

ただ、100キロの時は揺れがひどい…、
と思って窓から先頭車方向を見ていた時
ある事実に気がつき愕然としました。

そもそも路盤があまり良くないのか、
整備状況が良くないのか、
先頭の機関車が何故かある時、一瞬小さく沈むのです。
その後、1両づつ同じ場所で次々と沈み
最後に自分の乗った車両も瞬間沈みました。

道にちょっとした穴があり
車でそこを通り過ぎて「ガタン」となったと言えば
ご理解いただけるでしょうか?

サッカー・野球の試合のウェーブじゃあるまいし、
これだけは願い下げたいと思いました。
⇒日本なら間違いなく徐行運転だ!!

2010年06月08日 8時58分

シベリア鉄道 ロシア号快走中

シベリアの大地は想像を絶している!

ハバロフスクを出発し、3日目。
この写真には、
モグゾン(モスクワから6060キロ)から
ペトロフスキーザボード(モスクワから5750キロ)の間で
撮影というメモがありました。
実際にはこの間にもロシア号の停車駅(ヒロク)が
1駅あった訳ですし、そもそも310キロも距離のある
撮影ポイントメモは何だったのだろう。
名古屋起点で考えれば、東では小田原のはるか先、
西なら大阪を越えてさらに姫路を通り過ぎる距離です。

おそろしく大雑把ですいません。

で、ウラジオストック方面に向かう列車とのすれ違いですが
1991年当時、旅客列車はともかく貨物列車は
少なくとも10~30分に1回程度は
すれ違っていた記憶があります。
広大なソ連にあって、トラック輸送はとても現実的とは
思えず、冬は凍てついてしまう海もあてにならず
結局、鉄道が貨物の主役と思えました。

2010年06月07日 19時00分

シベリア鉄道 ロシア号寝台車上段

大変ご無沙汰のシベリア鉄道です。
(5月17日以来です)
*これまでの話しは、『カテゴリー』の
 『海外』でご確認ください。

お久しぶりにもかかわらずいきなり
むさ苦しい写真で申し訳ありません。
ロシア号ハードクラス寝台車の上段です。

ベッドの幅は問題なかったのですが
万が一の時にガードするものが何もない!

私の寝相の悪さは人後に落ちないものがあり
さすがに転落は避けたかった。
そこで洗濯用に持っていたロープを
写真のように張って
何とか緊急の事態に備えたのです。

で、これは役に立ったのでしょうか?
同室の日本人の方から、
「稲見さん、ロープに体が食い込んでいましたよ」と
言われたことが2~3度あり、
やはり、何事も『備えあれば憂いなし』と感じた次第です。

因みに、他のコンパートメントで
「ドサッ」という音を深夜に聞いたことがあるので
落ちた人がいたみたいです。
※この話しは作っていません。実話です。
 他にも聞いた人がいます。
 但し、上段とは限りませんが…。

今も、ロシアの寝台車はこんな風なのでしょうか?

2010年05月17日 9時05分

シベリア鉄道 ロシア号の寝台車内

シベリア鉄道(ロシア号)に乗車する
外国人乗客は、原則、ハードクラス寝台車で
4人1部屋のコンパートメント。
(2等寝台車とお考え下さい)
2段ベッドが合い向かいになっており
トランクは下段のベッドの下に入れたり
していました。
それにしても室内は結構、狭いです。
車掌からコンパートメントの鍵を渡され、
仲間内が1部屋なら、鍵をかけて
食堂車に行くことも可能でした。

また、日本の寝台車では、
昼間はベッドを解体しますが
ロシア号の寝台はいつもこの状態。
シーツ&毛布の類は全線通しではなく
乗客が入れ替わるとその乗客用に新しいセットが
渡されていました。(まあ、当たり前ですが…)

日本人とロシア人が同室になることも多く
そうでなくても、ロシア人と仲良くなって
コンパートメントでの国際交流も
多くありました。



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プロフィール

稲見部長稲見眞一
<自己紹介>
昭和52年4月、中京テレビ放送入社。「ズームイン!!朝!」を始めとした情報番組や「ドラマ」「ドキュメンタリー」等のディレクター・プロデューサーを務めた。鉄研最終回(2010年1月29日放送)では自ら自慢の鉄道写真「俺の一枚」を持って出演。 鉄道歴は小学校5年からスタートしはや半世紀。昭和55年には当時の国鉄・私鉄(ケーブルカーを除く)を完全乗破。平成18年にはケーブルカーも完全乗破。その後も新線が開業するたびに乗りつぶしている筋金入りの“乗り鉄”。好きな鉄道は路面電車。電車に揺られながら窓外に流れる街並みを眺めているのが至福のとき。さてスジを寝かせてゆったり乗り鉄と行きましょう!