2017年06月05日 20時15分

1939年(昭和14年)8月発行 名古屋市電路線図/名古屋市電気局

※名古屋の全域の地図はあくまでも全体の雰囲気ということでご覧ください。

昭和14年の名古屋市電路線図。まだまだ全盛期とまではなりませんが、その路線網の充実ぶりには目を見張ります。

名古屋駅前に市電の系統が集結しており、さすが名古屋の玄関口だけあります。

もう一点。黒色細実線のバス路線の停留所に青色文字で「平池」を発見!

話は変わって「千種駅」。当時、千種駅は広小路通りの南側にあり、その駅前(千種駅前)に市電が乗り入れていました。きっと知らない人が多い。

また千種駅の南側に『千早町』の電停がありますが、これだと直通しているように見えますが、実際には中央本線を間に挟んで、徒歩連絡となっていました。

理由は、鉄道省の旅客列車が走る路線と市電との平面交差が認められていなかったことによります。

※当時、中央本線は高架化されておらず地平を走っていた。

2017年06月04日 20時12分

1938年(昭和13年) 大名古屋新区制地図

※名古屋の全域の地図はあくまでも全体の雰囲気ということでご覧ください。

1938年(昭和13年)発行の大名古屋新区制地図。

名古屋駅界隈の開発が一段落し、私のような昭和世代には馴染みのある姿になりました。

名古屋駅界隈では市電の路線の改修が引き続き行われているのが分かるのを始め、目を少し移せば、今の近鉄名古屋線が登場しています。

※昭和13年6月26日に関西急行電鉄開業

一方、現在の名鉄名古屋本線はまだ開通しておらず、地下予定線となっています。

※名鉄の岐阜方面への開通は1941年(昭和16年)8月12日。豊橋方面に全通したのは1944年(昭和19年)9月1日。

ところで中京テレビの住所は、中村区平池町4-60-11。この地図ではほぼ「南平野町」と書かれた場所に会社があります。

一方、地図の左端に「平池」の地名はあることから、今の所在地住所と関連があるのは間違いなさそうですが、このあたりの話になると郷土史研究家に委ねたいと思います。

2017年06月03日 15時07分

1937年(昭和12年)1月5日発行 名古屋市街全図/武内時雄

※名古屋の全域の地図はあくまでも全体の雰囲気ということでご覧ください。

昭和12年発行の名古屋市街全図。

名古屋駅は現在地に移転し。市電の電停に「名古屋駅前」が見えます。

ただ過渡期なのか市電の線路は、まだ最終的な場所に移っていませんし、笹島駅にも東海道本線から直接入るようになっています。

この時期の名古屋駅・笹島駅の構内配線の研究をされている方に、地図も見つつお話をお聞きしたいと思っているもののまだ実現していません。

因みにという事ではありませんが、笹島駅の場所には「平野町」の表記があります。

2017年06月02日 20時37分

1937年(昭和12年)2月1日 新名古屋駅竣工記念絵葉書/名古屋鉄道局

竣工当時、東洋一の大きな駅舎と言われた“新”「名古屋駅」(三代目)。

その建設中~開業後の写真は、当時としては絵葉書も含め結構残されています。

開業時の写真は先にUPしたものと同一ですが、いろいろ調べてみてもこの写真しか辿り着けず、開業時の様子を伝えるものはどうやらこれ1枚しか無さそうです。

右上の二代目名古屋駅。車の時代が到来したことを感じさせる駅前風景。

新名古屋駅構内の写真には「腕木式信号機」がなく、色灯式信号機が見えます。時代的にはこのあたりが変わり目だったのでしょうか?

2017年06月01日 20時02分

1936年(昭和11年)発行 名古屋市鳥瞰図/吉田初三郎

※名古屋の全域の地図はあくまでも全体の雰囲気ということでご覧ください。

昭和11年に発行された「名古屋市鳥瞰図」。当時、鳥瞰図=初三郎と謂われた鳥瞰図絵師/吉田初三郎氏の作品。

名古屋と言えば金のしゃちほこ。本当にこんな風景をスケッチしたかどうかはともかくデザイン的には素晴らしいと思う。

以前、平成26年7月26日から名古屋市博物館にて「NIPPONパノラマ大紀行~吉田初三郎のえがいた大正・昭和」という展示が行われ、かくいう私もそこで(実質上)初めて初三郎氏の鳥瞰図に出会い、その面白さにはまりました。その魅力の一つが大胆なデフォルメ。

右端に伊勢神宮を配し、その上には富士山。

また左正面でひと際存在感を出しているのが御岳。

そして名古屋の街を見下ろすが如くある名古屋城。

また名古屋駅は、この鳥瞰図が出版された翌年に開業の(三代目)名古屋駅が既に「新名古屋駅」として描かれています。

一方、笹島駅。当時は名古屋駅の貨物駅なのですが、東海道本線から直接入る線路と、その後の関西本線からスイッチバックで構内に入る線路の両方が描かれています。恐らくその当時の姿はかくあったであろうと推察できる貴重な資料であると思います。

前の画像と合わせての話ですが、1932年(昭和7年)に全線開通した中川運河が描かれています。建設当時は「東洋一の大運河」と呼ばれ、名古屋駅と笹島駅を結んだ海運の大動脈も今は昔。それでも中京テレビ本社南側のエリアを含め、その再生に向けての動きが始まっており、変わりゆく様は目が離せない状況となっています。

2017年05月31日 20時36分

1936年(昭和11年)10月25日発行    名古屋鉄道局編纂 車窓展望 第一編

昭和の時代に入り、鉄道を利用した旅は結構一般的になっていたということでしょうか?

名古屋鉄道局が作った「車窓展望」という本。名古屋鉄道局管内の旅行案内で、もっとも表紙の絶景撮り鉄ポイントの場所は不明。

内容は東海道本線を中心に関西本線等の『車窓』が解説されています。

ただ『車窓』とはあるものの実際の中身は簡単な観光案内です。

さて名古屋エリアの地図。①番は何でしょう?

答えは大高駅から最寄りの「桶狭間古戦場」になります。

私の気持ち的には名古屋の①と言えばやはり熱田駅近くの熱田神宮なのですが、当時「桶狭間古戦場」はそれほど皆さんに知られた存在だったのでしょう。もっとも駅から約5キロですから、今思えば随分遠い印象です。まあ当時としては「最寄り」の感覚なのでしょう。

特急「つばめ」号の展望車。きっと憧れの「旅」の象徴だったのでしょう。

2017年05月30日 15時35分

1935年(昭和10年)10月14日発行 絵葉書「鉄道展」

昭和10年の鉄道記念日(当時。今の「鉄道の日」)に名古屋で「鉄道展」が開催されたようで、その記念の絵葉書集。1937年(昭和12年)2月1日開業の三代目「名古屋駅」の模型の写真と1886年(明治19年)5月1日開業の初代名古屋駅が一枚に収められています。

一方こちらは1891年(明治24年)に初代名古屋駅が濃尾地震で倒壊後、再建された2代目名古屋駅。

C53の流線形。今も残っていたらどれだけ人気者だったであろう。と思っても仕方がない。

上がD50。下が流線形ではないC53。

D50は現役時代をかろうじて知っています。

6200型は「へーぇ」。

42000型汽動車。キハ07形と書いた方がまだ馴染みがあるでしょうか?同型機で同和鉱業片上鉄道で活躍した車両は「柵原ふれあい鉱山公園」で動態保存されており、今も見ることができます。

この写真が古ぼけているので「年季が入った」感じがしますが、この形式は昭和10年登場のバリバリの最新鋭。因みに前の写真のC53形流線形も改造直後の最新鋭機です。

珍しいと思ったのが除雪車。こちらは仙台鉄道局所属であることがボディーの「仙」から読み取れます。また当時の実際の除雪作業の写真は貴重な歴史の証人とも思っています。

掻寄せ排雪車。「マックレー車」の方が通りが良いかも。

キマロキ編成(機関車+マックレー車+ロータリー車+機関車)は名寄市に保存されており、今も往時の雪掻きに思いをはせることができます。所属の「札」は札幌で札幌鉄道局の所属であることが分かります。

ところで私が調べた限りですが、昭和10年に名古屋で大規模な鉄道車両展示の催事があったのかが見つかりません。本物の車両を名古屋駅もしくは貨物駅のどこかに並べ、この絵葉書集はその記念の発行と思いたいところですが、さて…。今そのようなイベントがあったら、どれだけの人が集まるかにつき考えただけでも恐ろしいことになりそうです。

2017年05月29日 15時34分

1924年(大正13年)頃?発行 名古屋市発行の観光絵葉書

名古屋市役所が発行したと思われる絵葉書。

当時は市役所がこうした発行物を作り、配布していたということでしょう。

この図は当時の鉄道の状況の把握もありますが、当時、名古屋市の各区がどんな風になっていたかが一目瞭然なのでUPしました。

中区を中心に、東区、西区、南区があるのですが、以上の4つしかなく、例えば南区ならば現在の南区にプラス、熱田区、港区、中川区が入っています。また各区の区役所の場所の違いも興味を引きます

栄町通の写真。街並みだけを見ていれば、今でもヨーロッパのどこかにありそうな風景ですね。

一方こちらは名古屋港。ベースの図柄がタツノオトシゴなのがご愛嬌。

2017年05月28日 15時33分

1923年(大正12年)5月20日発行 名古屋駅ヨリ主要駅ニ至ル/交通社出版部

「名古屋駅より主要駅に至る 賃金、里程、到着時間表」。

そのその昔、運賃は「賃金」と言っていたのですね。知りませんでした。

参考までに名古屋=東京間は234.6マイル。賃金は4円49銭。所要時間は9時間で隔世の感あり。豊橋と蒲郡の間に「御油」がありますが、これは今の愛知御津駅で、昭和23年に改称されています。一方の「御油」は名鉄の駅名になっています。

東海道53次の宿場町として栄えた「御油」を名乗るには、東海道本線はあまりに遠く、まあ当然の帰結と言えます。

名古屋駅発時間表。東海道本線の上りはほぼ東京行きで、その間に武豊や沼津、豊橋の名前が見られます。

一方、下りは下関、神戸といった有名どころが並ぶ半面、恐らくマイナーと思える「糸崎」は、昭和の鉄道ファンならともかく、今やほとんどの人には馴染みが無いはず。

かつて糸崎(広島県三原市)には大きな機関区があり、昭和40年代、大型蒸気が走る路線として人気のあった呉線のC59,C62と言った機関車が集結していました。ということで大正時代も同様に糸崎が重要な拠点だったことがうかがい知れます。

もう一つ中央本線に注目!朝5:45に出る列車は何と飯田町行き。当時、すでに中央本線は東京まで開業していましたが、長距離列車は今の飯田橋駅に近い「飯田町」を起点にしていました。

この冊子はまさに歴史の生き証人。

鉄道公徳當(当)選モットー。当時、すでに「モットー」が外来語として定着していたのが面白い。一方「当選」の意味は今一つ分からない。公募でもしたのかな?

それはともかく「1降り2乗り3発車」とか「押すな、離るな、割込むな」とかもさることながら「お互いに座席を譲り合いましょう」など今の時代にも通じる『標語』が並んでおり90年以上前も今もあまり変わっていない…。

2017年05月27日 20時14分

1922年( 大正11年)4月5日発行 名古屋市内図/奥村栄助・大昌堂

大正11年発行の「名古屋市内図」。

※名古屋の全域の地図はあくまでも全体の雰囲気ということでご覧ください。

全体図も随分今の名古屋市に近づいてきました。

名古屋駅前の電停名は「笹島」。「名古屋駅前」ではありません。

大正11年の8月に名古屋電気鉄道から名古屋市営(名古屋市電気局)になっており、この地図が発行された4月5日時点ではまだ市営にはなっていないもののその表記はなく、地図中の「赤い実線」は『市内電車』との凡例が出ていました。

もう一つトピックなのは、金山にあった東海道本線と中央本線の連絡線。

1918年(大正7年)に開通し、1930年(昭和5年)に廃止された短命な路線ですが、もっともこの線の存在自体を私は最近まで知らず、こうした古い地図に接してから、名古屋の鉄道史を研究している知人に教えを請い、解説を受けて驚いた次第です。とか書いてみたものの「金山」駅も「金山橋」駅も無い時代なので「これはどこですか?」とかなりそうですね。

三角形の左側の線路の合流点が今の「金山」駅です。



ADVERTISEMENT

電子書籍「稲見駅長の鉄道だよ人生は!!」
稲見駅長の鉄道だよ人生は!! ―各駅停写の旅―

カレンダー

2021年2月
« 7月    
 123456
78910111213
14151617181920
21222324252627
28  

プロフィール

稲見部長稲見眞一
<自己紹介>
昭和52年4月、中京テレビ放送入社。「ズームイン!!朝!」を始めとした情報番組や「ドラマ」「ドキュメンタリー」等のディレクター・プロデューサーを務めた。鉄研最終回(2010年1月29日放送)では自ら自慢の鉄道写真「俺の一枚」を持って出演。 鉄道歴は小学校5年からスタートしはや半世紀。昭和55年には当時の国鉄・私鉄(ケーブルカーを除く)を完全乗破。平成18年にはケーブルカーも完全乗破。その後も新線が開業するたびに乗りつぶしている筋金入りの“乗り鉄”。好きな鉄道は路面電車。電車に揺られながら窓外に流れる街並みを眺めているのが至福のとき。さてスジを寝かせてゆったり乗り鉄と行きましょう!