2010年05月16日 19時15分

三重県紀和町紀州鉱山 仕事中

珍しく(?)仕事中の私です。
この写真は、同行の取材スタッフが撮影してくれました。

注目してほしいのは取材用カメラです。
今時、民生用はデジタルカメラが当たり前で
記録媒体がDVDやHDD、メモリーカードという時代ですが、
昭和50年代前半の取材と言えば「フィルム」の時代。
使っているカメラは西ドイツ製(当時は東西分裂の時代)の
『アリフレックス』。
フィルムサイズは16ミリ。
タングステン光用ポジフィルムを日常的に使っており
屋外ではASA100を選択。
何故か、テレビの現場ではデイライト用の
フィルムはあまり使いませんでした。
このため色調整に「フィルターワーク」を要求され、
当然の事ながら「自動絞り」ということもあり得ず、
更にフィルムの交換は、ダークバッグにカメラを入れ
手探りで行うという
恐ろしいほどの緊張感の中で仕事をしていたと
記憶しています。
※ダークバッグ…カメラがすっぽり入る
 光を通さない袋とお考え下さい。

また、このカメラには音声を同時に録音する機能がなく、
音が必要な時は、オープンリールのテープレコーダーを
持って行ったものです。
今では映像と音を同時に撮るのが当たり前の時代ですが
こんな時代もあったのです。

2010年05月15日 18時03分

三重県紀和町紀州鉱山 湯の口温泉駅

湯の口温泉駅の構内です。

この写真の選択のポイントは
「ポイント」です。
ズラッと並んだ手動転轍機。

「美しい!」と感じるのは私だけではないはずです。

この鉱山鉄道では、自動はもとよりスプリング式等の
転轍機ですら見かけませんでした。
旧国鉄でもこれだけ見事な光景は
記憶にありません。

湯の口温泉は今も「生きた」駅ですが
この姿はどうなっているのでしょうか?
多分、もう残っていないのでしょうね。

2010年05月14日 20時37分

三重県紀和町紀州鉱山 小口谷駅鉱車

曖昧な記憶で申し訳ありませんが
多分、小口谷駅だと思います。

沢山の鉱車が並んでいますが
ほぼ全てに鉱石が積まれているのが
お分かり頂けますでしょうか?

閉山直前でも鉱山(やま)は生きていました。
実は、写真では1枚もないのですが
私は地下の坑道での作業も取材しており
これらの鉱車は、一両ずつエレベーターで
地上に運ばれていました。
※エレベーター!です。
 昭和53年4月30日に
 この話題を放送した時のフィルムが
 当社の映像ライブラリーで見つかり、
 それを確認しました。
 また、その当時の坑道は
 海抜0メートルよりも低いところだったと
 聞いた記憶もあります。

この写真は日本を代表する銅鉱山の宴の終焉まで
残すところあと僅かの最後の打ち上げ花火のような
一瞬だったのでしょうか?

2010年05月13日 19時19分

三重県紀和町紀州鉱山 惣房駅613号の雄姿

小さな機関車もこの角度で撮影すれば
「ご立派」に見えます。

613号は「日本輸送機器」という会社が
昭和37年に製造した機関車です。

軌道の間隔は確か610ミリ。
電圧は600ボルトと記憶しております。

3月1日にUPした
炭鉱鉄道「釧路コールマイン」同様
ここ紀州鉱山でも架線方式の機関車と
バッテリーロコもありましたが
板屋~惣房間の人車は
見た限り全て電気機関車が牽いていました。
参考までに、現在の観光用トロッコは
バッテリーが牽いています。

現在、この鉱山のあった場所に「紀和鉱山資料館」があります。
この鉱山鉄道に関する展示もあるので
興味のある方は一度お出かけください。

2010年05月12日 18時34分

三重県紀和町紀州鉱山 惣房駅

鉱山鉄道人車が惣房駅到着です。

写真では分かりにくいですが、
パンタグラフはトンネル内では低く、
外に出ると高くなっていました。
パンタを揺らしながら“にょきにょき”と
伸びていく様はユーモラスでさえありました。

この鉄道は、ほとんど全線がトンネルで
駅のある部分と他にほんの一部が
地上に顔を出しているのみ。

因みに人車に電灯の類は無く、
トンネルを走っている間は真っ暗。
また車内は極端に狭いこともあり
体を七重八重に折りたたんで小さくし
乗車中はただひたすら『押し黙って我慢』という
状況でした。
トンネルでの唯一の灯りは、
電気機関車のほの暗いヘッドライトだけですが
それも人車内に届くことはありません。
もう一つ、とにかく走行音がデカい!
車内で隣の人との会話ですら
相当に困難だったことを思い出しました。

このままトンネルの中で列車が止まり
「一生出られないのでは?」という
恐怖と戦った数10分間でした。

2010年05月11日 18時24分

三重県紀和町紀州鉱山 人車

紀州鉱山が、住民の方の利便のために
走らせていた列車です。
本数はそんなに多くは無かった記憶です。
*この鉄道、現在は一部区間が復活し
 観光トロッコ列車として乗ることが出来ます。

住民が乗車できた区間は
「板屋」(町の中心であり鉱山の中心)~「惣房」間。
途中に、小口谷(今の「瀞流荘」)、
湯の口温泉(今も同名)の2つの駅がありました。
*観光トロッコは「瀞流荘」~「湯の口温泉」間で
 運転されています。

乗客の方から客車(人車)の大きさを
ご想像ください。
大したスピードではありませんが
小さいことから相対的に早く感じました。

2010年05月10日 18時04分

三重県紀和町紀州鉱山 鉱山鉄道

昭和53年4月27日(木)
名古屋発23:58の急行紀州5号に乗り
翌28日(金)新宮着5:17。
三重交通バスに乗り換え
向かった先は三重県紀和町(現在は熊野市)の
石原産業紀州鉱山(銅鉱山)。

その年の(確か…)5月の閉山が決まっており、
それによって“地元の足”にもなっていた
鉱山鉄道も合わせて廃止されることになり
その取材に向かったのです。

趣味は鉄道でも
仕事で鉄道を取材した例は
あまり多くはありません。
その数少ない一つが
この紀和町の鉱山列車でした。

もともとは「鉱山のマチ」が
『閉山でどう変わる?』という
テーマでリサーチを始めたのですが、
そこに住民も利用する鉱山鉄道があることを知り、
結局『閉山の影響は「産業」にとどまらない』
という企画で取材がGOとなりました。

2010年04月28日 9時21分

井笠鉄道 乗車券

井笠鉄道の乗車券。
何故か笠岡の隣ではなく
2つ目の「大井村」までの
乗車券を記念に購入していました。
「大井村『ゆき』」の『ゆき』は
時代がかった印象でしょうが
本来の日本語としては
「ゆき」が正解だった気がします。
「ゆき」を使っている
大手の鉄道会社もありますし…。

ところで『2等』の文字にはびっくり。
購入当時は何も思っていませんでしたが
昭和46年と言えば
すでに国鉄では2等は無くなっており
一方、井笠鉄道では
印刷をし直すことをしなかったようですね。

裏面の番号は4447。
多分、この切符が印刷されて
4447枚目?

2010年04月27日 9時06分

井笠鉄道 昭和46年廃線。

井笠鉄道廃止時の笠岡駅時刻表です。
笠岡発は1日に19本。
考えてみればローカル私鉄では
なかなかの本数でした。

井笠鉄道はこの写真を撮影した4日後、
昭和46年3月31日に廃止されました。

ただ、井笠鉄道の線路跡は
既廃止区間の神辺~井原間、北川~矢掛間にプラス
全線廃止区間のうち井原~北川間を合わせて
平成11年1月11日(1並びの日)に開業した
井原鉄道の路盤として転用されています。

その井原鉄道には平成11年6月6日に
乗りました。

2010年04月26日 8時58分

井笠鉄道 ホハ10

井笠鉄道の客車「ホハ10」。
ダブルルーフの屋根や
ちらと見えるピン・リンク式連結器が
郷愁を誘います。
※私には朝顔型連結器という言い方が
 しっくりきますが。

今からおよそ40年前にあった風景ですが
これは、「40年も」前なのか
「ほんの40年」前なのか
少々考えてしまいました。
写真の「笠岡」という町は
天然記念物「生きる化石・カブトガニ」の
生息地として当時から知られており
井笠鉄道こそ「生きる化石」になってほしいと
真剣に思っていたことをこのブログを
書きながら思い出しました。



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プロフィール

稲見部長稲見眞一
<自己紹介>
昭和52年4月、中京テレビ放送入社。「ズームイン!!朝!」を始めとした情報番組や「ドラマ」「ドキュメンタリー」等のディレクター・プロデューサーを務めた。鉄研最終回(2010年1月29日放送)では自ら自慢の鉄道写真「俺の一枚」を持って出演。 鉄道歴は小学校5年からスタートしはや半世紀。昭和55年には当時の国鉄・私鉄(ケーブルカーを除く)を完全乗破。平成18年にはケーブルカーも完全乗破。その後も新線が開業するたびに乗りつぶしている筋金入りの“乗り鉄”。好きな鉄道は路面電車。電車に揺られながら窓外に流れる街並みを眺めているのが至福のとき。さてスジを寝かせてゆったり乗り鉄と行きましょう!