平成29年5月28日(日)。日曜日にここ馬路村に来るべく全日程を組んだ今回の旅。その理由は…。
お世話になった宿。ネットで調べた結果では、ここ高知県馬路村魚梁瀬地区で恐らく1軒だけの宿。但しネットで予約する術はなく、久しぶりに電話で予約。旅に出る際、宿の手配がネット経由オンリーになって久しいことに気付く。余談ですが、宿を電話予約したのは2011年、北海道三笠市に蒸気機関車の運転体験に行った時以来のはず。
庭に鯉が泳ぐ。そんな風情が良い。林業でこの魚梁瀬エリアが活況を呈していた時代は、ここを訪れるお偉いさんたちがこの旅館に泊まっていたことでしょう。
森林鉄道の魚梁瀬駅。と言っても昔からこの場所に森林鉄道の駅があったわけではありません。
かつてこのエリアは木材の一大産地で、山と海岸(運び出すための港)は森林鉄道で結ばれていました。しかしその歴史は昭和38年(1963年)に終わり、それを今に伝える施設がここ魚梁瀬にあるのです。
と言ってもともと「魚梁瀬駅」があったところは、今はダム湖に沈んでおり、ここは魚梁瀬地区全体が高台移転した場所に、森林鉄道の往時を伝えるために作られた施設。
ところで写真にある日本遺産とは?
「日本遺産(Japan Heritage)」は(地域の歴史的魅力や特色を通じて我が国の文化・伝統を語るストーリーを「日本遺産(Japan Heritage)」として文化庁が認定するものです。
ストーリーを語る上で欠かせない魅力溢れる有形や無形の様々な文化財群を,地域が主体となって総合的に整備・活用し,国内だけでなく海外へも戦略的に発信していくことにより,地域の活性化を図ることを目的としています。
以上、文化庁のホームページから転載。
森林鉄道は日本遺産です。
でここで何をするかと言えば「運転体験」。
杉板の体験記念乗車券。
日付印もちゃんと杉板に。
2月27日の中京テレビ「キャッチ!」で熊野市の特集をしていました。その中で紀和町のトロッコ列車が今も活躍する様子が流れ、懐かしく思う気持ちから鉱山鉄道として現役時代だった頃の様子を皆さんに見て頂くことにしました。
実はこのブログでも2010年5月10日から紹介しているのですがその時は写真でした。
(ナローのカテゴリーの一番早い時期のタグで出てきます。)
その時の書き出しは、
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昭和53年4月27日(木)
名古屋発23:58の急行紀州5号に乗り
翌28日(金)新宮着5:17。
三重交通バスに乗り換え
向かった先は三重県紀和町(現在は熊野市)の
石原産業紀州鉱山(銅鉱山)。
その年の(確か…)5月の閉山が決まっており、
それによって“地元の足”にもなっていた
鉱山鉄道も合わせて廃止されることになり
その取材に向かったのです。
趣味は鉄道でも
仕事で鉄道を取材した例は
あまり多くはありません。
その数少ない一つが
この紀和町の鉱山列車でした。
もともとは「鉱山のマチ」が
『閉山でどう変わる?』という
テーマでリサーチを始めたのですが、
そこに、住民も利用する鉱山鉄道があることを知り、
最終的に『閉山の影響は「産業」にとどまらない』
という企画で取材がGOとなりました。
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今日は中京テレビ/映像ライブラリーの秘蔵映像です。(音はありません)
平成28年11月6日(日)。
国鉄奥行臼駅舎のある位置から少し手前に来た右側のところに別海村営軌道の自走客車の乗降場があったはずですが、さすがに何も残っていないこともあって、それを思い描くことは出来ません。
さようなら、道東の簡易軌道。
さてここからは現実との戦い。翌7日(月)は通常勤務で朝の出勤時間に間に合わせるべく移動開始です。
今回のルートは
1)釧路空港発20:10のJAL544便で羽田へ移動。
2)品川駅近くのホテルで1泊。
3)明けて7日の早朝の新幹線で帰名。
バス見学会の釧路市博物館への戻りがあと30分早ければ、釧路空港19:05発のADO74便に搭乗出来、それに間に合えば新幹線で名古屋まで戻れるのですがそれはやはりリスクが大きく断念。
で、釧路空港に着いたらADO74便は2時間半遅れ。原因は新千歳空港の雪害で、要は機材の遣り繰りによるものですが、この時点で新千歳空港の様子をネットで調べたら、欠航便を出ている状況でした。
まあ結局、日曜日中には名古屋に戻れなかったということです。
今回の渡道から既に1か月半が経ちました。
こうしてブログの原稿を書きつつ北のナローに改めて思いを馳せています。
最後に今回お世話になった方たちのお名前です。
*釧路市博物館学芸員 石川孝織氏
*釧路製作所 奥山道紀氏
(バス見学会での解説・案内役)
*簡易軌道の研究者/清水一史氏
*簡易軌道の現役時代を撮影していた西村光氏
*浜中町営軌道OB/青田豊氏、井上崎男氏
*別海村営軌道OB/沢田正氏
*浜中町教育委員会の皆さん
*別海町教育委員会の皆さん
*釧路臨港鉄道の会の皆さん
(余談)
釧路に行くと毎回、釧路臨港鉄道の会の方やそのお仲間の方たちと懇親しています。(今回で4回目)
顔馴染みになった方もいれば、今回お初の方や、スケジュールが合わず残念ながらお会いできなかった方もいます。
鉄道だけの旅より人との触れ合いが嬉しい旅。歳のせいかそうした温かみを求めて釧路に出かけているのかもしれません。
最後の見学地、国鉄標津線奥行臼駅。標津線は平成元年(1989年)の廃止ですが、それにしてもそこまでよく生き延びていたという感想を私は持っています。
駅舎は今も残されていて外から中を眺めれば往時を偲ぶことが出来ます。懐かしい板張りの腰掛は昭和の時代は寝床代わり。そうっ、駅ネとかステーションホテルとかいう言葉が現実だった時代はすでに遠い昔です。
もっとも私は奥行臼の様な中間駅で寝たことはありません。
行き交う列車はなくともこの駅は今もそのまま。
恐らくキハ22形が通った道。DMH17のエンジン音、そして蒸気機関車の汽笛が今にも聞こえてきそうな錯覚を覚えました。
それにしてもこれほどまでにそのままこの駅が残されているとは知りませんでした。
よくぞ残してくれているというのが実感。
自走客車。
釧路製作所製。釧路製作所はその名の通り釧路にある主に橋梁のメーカーで、本社には雄別鉄道で使われていた蒸気機関車(8722号)が保存されていることでも知られています。(私も見学したことがあります)
先に書きました釧路市博物館で配布されているペーパークラフトも釧路製作所が作ったもので、本物の走る自走客車から紙の自走客車まで作る日本で唯一のメーカーです。(笑)
昭和46年(1971年)に廃止となった別海村営軌道ですが、自走客車の車内は思っていた以上に当時の姿を留めていました。
※今回はドアを開けて頂き中を見学していますが、別海町の担当者の方が立ち会わないと中を見ることは出来ないようです。
貨車。往時のミルク輸送の一端を垣間見ることが出来ます。
釧路市博物館の「釧路・根室の簡易軌道」展にあったジオラマが、自走客車そしてこの貨車を見たこと、そして1日廃線跡巡りで見てきた情景と重なっていく瞬間でした。
旧別海村営軌道風蓮線奥行臼停留所。
別海町の指定文化財です。「停留所」。簡易軌道の「駅」は「停留所」の方が似合っていそうです。
まずは線路と施設の配置図。国鉄標津線/奥行臼駅前まで線路が延びていますが、私たちがまず見学したのは左側のターンテーブルのある場所。
当時の自走客車と機関車、そしてミルクを運んだ貨車が保存されています。
自走客車という呼び方は道東の簡易軌道ならではでしょうか?一般的には気動車でしょう。
ターンテーブルが残っているとは思ってはいませんでした。これも貴重な遺産です。
機関車はKATO WORKS。やっぱり良いですね。
KATOとSAKAIがあればつまみなしでもお酒が呑める人はきっといるはず。広がりゆくナローの世界。
平日、1日2往復の完全に通学専用のバスの時刻表。このバス停があるのが別海村営軌道「上風蓮」駅のあった場所。
意外と開けた場所だと思ったもののそれは私の北海道のイメージのなせる業。
各所では博物館の学芸員や地元の方がかつての現役時代の写真等を使い説明をしてくれました。
ようするに昭和(現役時代)と平成(廃止後)の定点観測で、平成は写真ではなく生の実景で見比べているのがポイントです。
ここは別海村営軌道の「七号」駅があった場所。
そこにあった植え込みに村営軌道で使われていた線路が残っていました。
以前は用途があったはずですが…。話を聞いていたところ路線の廃止時に譲渡を希望する方に渡されたとのこと。
今そこにあるモノに歴史あり。でも地元の人の話を聞いていないと気付かない。はるばる釧路に出かけて良かった。そして改めて思うことは日本の歴史、北海道の歴史の一端に触れていることの面白さ。