2011年03月22日 20時00分

昭和50年、夏の「尾小屋」(10)DL+客車。

前回の写真とあまり代わり映えしませんが、
背景に485系(481系?)が写っており、
これは、おそらく撮影していた時間からして
国鉄「小松駅」発12:57の4006M特急「北越1号」
新潟発大阪行きと思われます。
「北越」が大阪行きというか金沢以西を走った“時代”を感じさせる
一枚と言うことで今回、UPしてみました。
また、駐車している車にも時代を感じますよね。

さて、写っている車両ですが、まず
右側前の客車が『ホハフ7』(現在は旧「尾小屋駅」に留置)、
後ろが『ホハフ8』(現在は「いしかわ子ども交流センター小松館
(小松児童会館)なかよし鉄道」にて保存)。
左側の機関車は『DC122』(旧「尾小屋駅」に留置)で、
その後ろのカバーのかかった車は
『除雪車』(ロータリー車で現存はしないはず)と思われました。

それにしても「尾小屋」の車両は思いの他、保存されていることに
改めて驚かされます。
因みに先回UPした『キハ1』は、
『ホハフ8』と同じ“なかよし鉄道”にいます。
今年も3月16日(水)から水・土・日・祝の予定で運転がされる模様です。
なお“なかよし鉄道”については、「いしかわ子ども交流センター小松館
(小松児童会館)」のHP等をご参照下さい。

2011年03月22日 9時00分

昭和50年、夏の「尾小屋」(9)『キハ1』。

当時の事を思い出そうと必死になっていますが、さほど記憶が蘇りません。
乏しいというかあまりにも細すぎる記憶の糸を辿りつつ、
紡ぎつつこのブログを書いています。

写真は私が「新小松」~「尾小屋」間を往復乗車した
『キハ1』の「新小松」停車中です。
延長16.9キロを50分程で走っていましたから表定速度は約20キロ。
この速度は、電化ナローの三岐鉄道北勢線の20.4キロにおける
現在の所要時間の1時間程度と比較しても、
決して見劣りすることはなく、
今考えてみれば、驚くべきスピードと言えるのかも?

ところでこの『キハ1』を最初に見た印象は、あまりに小さな車両に
愕然としたということに尽きます。
「尾小屋駅」と「新小松駅」はそれなりに“立派”に見えたものの、
(もっとも途中駅は「軽便」でしたが…)
車両はやはり「軽便」そのものでした。

当時の私はあまりに能天気な学生で、“採算性”などという言葉は
別世界の出来事で、まずは鉄道に「乗れれば良し」ということ以外は
殆ど何の意識も持っていなかったのですが、
それでもこの鉄道だけは流石に“前途”がない!と思いました。
というより、この後昭和52年まで、『地元住民』の足として
生き長らえたこと事態が奇跡であり、驚きでした。

(尾小屋鉄道の話しからはそれますが・・・)
このブログで昨年の9月21日にUPした、名鉄「旧布袋駅」の話題で、
旧布袋駅のHPを製作中のmonさんから12月22日にコメントを頂きました。
その時、HPが出来たら「連絡を下さい」とコメントで返信したところ
一昨日の3月20日、アップロードしたとの連絡をもらました。
360度パノラマの布袋駅が、現役当時の魅力満開で、
monさんの布袋駅への愛情が伝わってくる、心が温かくなるHPです。
よろしければアクセスしてみて下さい。

2011年03月21日 19時58分

昭和50年、夏の「尾小屋」(8)「新小松駅」。

昭和50年8月22日。
この日、「尾小屋」は雨では無かったものの、「新小松駅」に
戻ってくるころからいよいよ降り出してきました。

ここを訪れる前は、国鉄「小松駅」の“裏側”に『ひっそりと佇む駅』の
イメージでしたが、思ったよりは開けた感じで、
考えてみればこの「新小松駅」界隈は、当時、石川県の第2の
“大都市”小松市の中心駅「国鉄小松駅」に隣接しており、
周辺には商店もあったりで、さほどうらぶれた雰囲気では
無かったような記憶です。
また駅そのものの規模もそれなりにあり、この写真を撮った段階までは、
失礼な言い方とは思いますがもっと“軽便”という言葉が似合う「駅」と
思っていました。

ところでこの写真は、「尾小屋」に向かう時ではなく、
「尾小屋」から戻ってきてから撮影したものです。
行く時は乗り換え時間の関係でその時間が無かったからですが、
お昼も食べずに取りあえず撮影していたことが次々回UPする写真から
発覚しています。

2011年03月21日 8時05分

昭和50年、夏の「尾小屋」(7)乗車券。

上の硬券の乗車券が往路「新小松」⇒「尾小屋」、
下の車内乗車券が帰路「尾小屋」⇒「新小松」で使用したものです。

改めて車内乗車券を見ていて、思いのほか駅の数が多いのに気付きました。
16.9キロでその駅数が16ということは、ざっと1キロに1駅あった
計算になります。

地方の路線バス同様、民家があれば「駅」があるといった
状況だったのでしょうか?
何せ、沿線風景もあまり覚えていませんのでそれを確認の
しようがないのが残念です。
とにかくトコトコ一駅ずつに止まりながら、
ノンビリと走っていたことだけは間違いなさそうです。

乗車日の「月」のところがアラビア数字で、
「日」が「漢数字」という組み合わせは私の知る限り、
「尾小屋鉄道」だけで、横長というのも珍しい形状だった
のではないのでしょうか?
また、運賃が漢数字というのも少数派と思われます。

さて、この乗車券は「新小松」~「尾小屋」間で、390円分の
パンチが入っています。
「二00」+「一00」+「九0」で辻褄を合わせているのですが、
確かに、乗車券記載の料金を組み合わせれば全ての運賃の組み合わせが
可能でしょう。
上の『290円』乗車券で「運賃改正」の押印がありますが、
この年の8月7日に同区間では『390円』と値上げされています。

ところが…。交通公社の時刻表では、私の調べた限り、
廃線の時まで『290円』のままでした。三岐鉄道の時も書きましたが、
当時、如何に国鉄至上主義だったかということもあるとは思うものの、
きっと鉄道会社から交通公社に訂正を申し出ることも
あまり無かったのでしょうか?

2011年03月20日 20時31分

昭和50年、夏の「尾小屋」(6)留置線の車両たち。

今回は「尾小屋駅」側線に留置されていた車両たちです。

手前から「ト2」、続いて「ワフ3」「ホハフ2」「ホハフ5」と
4両が並んでいました。

個々の車両については、寺田裕一氏の「尾小屋鉄道」に
詳しい記述があるのでそちらをご参照いただきたいのですが、
何れにしろここに写っている4両は全て現存しないはずです。
(多分、言い切れる)

ところでこの車両たちですが、見た感じ、使われなくなって既に
結構長い時間が過ぎていた雰囲気で、
全車両とも線路上で自立していること自体にある種の“不思議さ”を
覚えた程です。
また、それゆえ、ちょっとでも動かそうものなら
間違いなく『そのまま崩れ落ちてしまいそうだった』と
私が言ったとしても、皆さんから多分「そんな大袈裟な・・・」とは
言われないと思います。

古い車両が、側線等にほぼ“放置状態”となっていることは
地方の経営の苦しい鉄道では(今も…)ありそうな風景ですが、
ここ「尾小屋」はあまりにも堂々としていて遠目には「現役」そのもの。
今、改めてこの写真を見ての感想ですが、
こうした“怪しげな”昭和を残している場所があれば、そ
れはそれで一瞬の悲しさはあるかも知れませんが、
そのまま朽ち果てさせてあげたいと思う自分がいます。

2011年03月20日 8時52分

昭和50年、夏の「尾小屋」(5)『C15 5』。

3月7日以来の尾小屋鉄道です。

「尾小屋駅」の側線にいた『C15 5』。
製造銘板には、「富山 立山重工業株式会社 昭和22年11月製造」と
ありましたから戦後間もなく作られたのでしょう。
1両それぞれが個性的だった「尾小屋」の蒸気機関車・
ディーゼル機関車・気動車・客車・貨車たちと活躍した小さいけど
存在感のあるこの『C15 5』。

今は、小松市立「ポッポ汽車展示館」で保存されていますが、
そこのHPを見ると“煙”をはいているものもあって、
何がしか現役時代の雰囲気を醸し出そうと努力されているみたいです。

ところで不思議なことが1点。
私の写真では『C15 5』であることは間違いないのですが、
「ポッポ汽車展示館」HPの写真を見ると『No.5』とあり、
また今回の参考資料で確認したのですが、
要は元々が『5』として現役時代を走り続け、その後『C15 5』となり、
再度『No.5』に戻ったようです。
それにしても、何故『No.5』は『C15 5』になり
『No.5』に戻ったのでしょう?

また、三重県桑名市の「長島スパーランド SLランド」に
貸し出されていた時期もあるようですが、
そもそも「SLランド」の記憶が殆どありません。

2011年03月07日 21時30分

昭和50年、夏の「尾小屋」(4)「尾小屋」な風景。

私がこの訪問時に撮影した写真の中で、一番「尾小屋」らしい風景と
思っているのがこの一枚です。

11:30に「尾小屋駅」に到着した写真左側のホームに停車中の『キハ1』は
折り返し「尾小屋駅」発11:55となります。
※「新小松駅」着12:47。

この折り返しの25分間は、私にとって至福の時間であったことだけは
間違いなさそうです。

こんな小さな車両が1日8往復の“私鉄”尾小屋鉄道。
「新小松」の発時間は
6:50、8:05、10:40、13:30、16:10、17:20、
18:50、20:30.
「尾小屋」発は、5:57、6:49、8:07、9:25、 11:55、
16:12、17:22、18:52、

この発時間と、片道50分の道程を重ね合わせると、
何と途中で交換をしていたことが見て取れます。
ただ、どの駅で交換しているかが時刻表では読み取れませんでした。
何故なら時刻表には“途中駅名”はなく、起終点のみの記載でした。
※当時は、大手私鉄でも関東を除けば全駅掲載でない鉄道会社が
あった位ですから当たり前と言えば当たり前でした。

(お詫び)
3月4日にUPした、「サプリメント」の自動販売機ですが、
『あそびにん』さんから「無くなっていました」との
コメントを頂きました。
早速本日、名古屋駅に出向き確認したところ
設置されていた場所に、自動販売機が置かれていた痕跡は
確かに残っていましたが、本体は影も形もありませんでした。
撮影したのは昨年の11月6日で、それ以降、この自動販売機が
現時点でもあるかどうかの確認を怠っていました。

どうやら期間限定、マーケティングのための設置だったようです。

ここに、お詫びするとともに訂正いたします。

今後、このようなことが起きないよう留意します。
申し訳ありませんでした。

2011年03月07日 9時01分

昭和50年、夏の「尾小屋」(3)「尾小屋駅」の駅名看板。

「尾小屋駅」に到着し、駅柱に取り付けられた『をごや』の
駅名ホーロー看板を見つけた時、私は、
何て“時代がかった”仮名表示か!とでも感じたのでしょう。
そうでなければこうして写真が残っているわけがありません…。

開通した大正9年から私が訪れたこの昭和50年、
そしてそれから廃線となった昭和52年3月19日まで、
「をごや」を見つめてきたひょっとしたら数少ない
生き証人だったのかもしれません。

(一枚の写真)
昭和50年当時の私の写真事情ですが、現代のデジカメ時代とは
明らかに違い、
目に付いたものは取りあえずシャッターを押すなどという
“蛮行”はあり得ませんでした。
特に学生にとっては、一眼レフは使ってはいたものの
フィルム代、撮影後の現像代、さらにネガの場合にはプリント代など、
その出費の負担は各段に重く、
それゆえ現像まではしてもプリントしていない写真も多く、
1枚の写真の重みは桁違いです。

一方で、それゆえに未整理写真も多く、
撮影した記憶のある写真がなかなか探し出せない?現実があります。
前にも書いたと思いますが、私は「乗り鉄」の乗車券代はある種、
惜しみなく使っていましたが、写真をあまり撮っていない理由が
ここにあります。
それだけに、この写真は、私にとって撮影時に何がしかの“思い”が
あったのは間違いないのでしょう・・・。

2011年03月06日 18時02分

昭和50年、夏の「尾小屋」(2)「尾小屋駅」。

もともとは「尾小屋鉱山」の貨物も運んでいた「尾小屋鉄道」。
鉱山の閉山に伴い貨物を運ぶことが無くなり、乗客も減っていく中、
何故この鉄道が営業を続けてこられたのかは
『謎』といっても良いほどの輸送実績で、
かつ沿線の風景も“需要”があるとは思えない、
呆れるほどの長閑(のどか)さでした。

それでもここ「尾小屋駅」には、規模は小さいもののかっての
隆盛を忍ばせるには十分の風格を感じました。
さて、駅前のさほど広いとは言えない場所で
「縄跳び」をする子供達が印象的でしたが、
今はこうした風景を町で見かけることはすっかり無くなりました。
この時の子供達は今も「尾小屋」に住んでいるのでしょうか?

最近、『乗りつぶし』時に「駅写真」等を撮る際、
出来る限り“人”が写りこまないように留意しています。
“肖像権”という言葉が独り歩きし、その対応のためだったりしていますが、
私が『乗りつぶし』をしていた最盛期の昭和40年代~50年代
では
そのようなことに気を遣うことは殆ど無く、
この写真も、“自然”に撮影した一枚でした。
でもこうして人の写った写真にこそ、当時の時代背景を感じることも多く、
私達は今、少し『残念な時代に生きている』と思わざるを得ません。

最後に、駅舎の話しを少し。
この駅舎は、当時、『川の上にある駅』として知られていました。
駅舎の右側に、橋の欄干が見えているのが分かりますでしょうか?
それが、『川の上にある駅』を物語っています。

2011年03月06日 9時33分

昭和50年、夏の「尾小屋」(1)8月22日。

夏の緑が目にも鮮やかな山懐、架線の無いナローの線路上に
タンク式の蒸気機関車(C15 5)と
特徴ある形態の客車(ホハフ3)がひっそりと佇む風景。
それは当時、時刻表に載っている鉄道では、
全国ただ一か所、ここ石川県の「尾小屋鉄道」でしか見られないものでした。

昭和50年8月22日。
この日は、朝一番で福井鉄道の福武線に乗り、
武生駅から4005M特急「北越2号」大阪発新潟行きに乗車。
国鉄「小松駅」に到着したのが10:28。
直ぐに尾小屋鉄道の「新小松駅」に向かい、
10:40発の尾小屋行きにギリギリ間に合い、
ここ尾小屋鉄道「尾小屋駅」に到着したのは11:30でした。

なお、交通公社の時刻表では「尾小屋駅」着11:29と
掲載されていましたが、
何故か「尾小屋駅」に掲出の(到着)時刻表では“11:30”とあり、
他の列車が全て同一であっただけに不思議でした。

ところで、当時、私は鉄道に乗ることだけで精一杯で、
なおかつ今のように「鉄道」の情報が溢れているわけでもなく、
『時刻表に載っている鉄道』の一つとして、
そしてそれが井笠鉄道廃線後、日本で“最後”の非電化ナローぐらいの
情報しか持ち合わせないままこの場に立っていました。

(私がこのタイミングで「尾小屋」を訪れた理由)
昭和50年8月23日~24日にかけ、「夕焼け祭り」という
オールナイトの音楽祭が石川県の山中温泉で開かれ、
そこに行くべく私は名古屋をちょっと早めに出発し、
北陸のローカル私鉄を乗り歩いていました。

(今回の主な参考資料)
1)ネコ・パブリッシング「尾小屋鉄道」著者/寺田裕一
2)「尾小屋鉄道ホームページ」
3)日本交通公社「時刻表」
4)その他、「鉄」仲間の助言など



ADVERTISEMENT

電子書籍「稲見駅長の鉄道だよ人生は!!」
稲見駅長の鉄道だよ人生は!! ―各駅停写の旅―

カレンダー

2021年2月
« 7月    
 123456
78910111213
14151617181920
21222324252627
28  

プロフィール

稲見部長稲見眞一
<自己紹介>
昭和52年4月、中京テレビ放送入社。「ズームイン!!朝!」を始めとした情報番組や「ドラマ」「ドキュメンタリー」等のディレクター・プロデューサーを務めた。鉄研最終回(2010年1月29日放送)では自ら自慢の鉄道写真「俺の一枚」を持って出演。 鉄道歴は小学校5年からスタートしはや半世紀。昭和55年には当時の国鉄・私鉄(ケーブルカーを除く)を完全乗破。平成18年にはケーブルカーも完全乗破。その後も新線が開業するたびに乗りつぶしている筋金入りの“乗り鉄”。好きな鉄道は路面電車。電車に揺られながら窓外に流れる街並みを眺めているのが至福のとき。さてスジを寝かせてゆったり乗り鉄と行きましょう!