中京テレビ

2011年05月07日 21時32分

熊本電鉄(8)「御代志駅」のバス連絡。

熊本電鉄の終点「御代志駅」に発着するバスを見ていて、
『フィーダーバス』という言葉を思い出しました。
●『フィーダーバス』とは?
 *鉄道に接続し、駅からその鉄道の支線のように運行されるバスのこと。
 *通常は、鉄道のダイヤに合わせて運転されている。
以上は、私の解説ですが、多分、合っているはずです。  

ところで『フィーダーバス』(鉄道とバスの連絡・連携)と言えば、
まずは富山ライトレール(ポートラム)の「岩瀬浜」の
フィーダーバスを思い浮かべますし、
そうした事例は、もともとヨーロッパでよく見かけたものですが、
最近は日本でも、徐々にですが増えている気がします。
この「御代志駅」のバスへの乗り継ぎもそれに近いものを感じました。

写真左端に小さく写っているバスは、
ホームとは反対側に発着しましていましたが、
私が乗ってきたこの電車が着いて直ぐに、
小型の路線バスがホームに横付けするように到着し、
何と、乗降客は、地面に降りることなく、ホームから直接、
バスを利用していました。
「成程、フィーダーバス!」と思い、直ぐにカメラを取り出したのですが、
残念。間に合いませんでした。

この「御代志駅」では、「御代志」発着のバスもあるのですが、
ここを通過点としているバス路線もあります。
中には熊本市の都心部に直通する路線もあり、
どこまでの平行路線かはバス停の名前と電車の路線の位置関係が不案内のため
一概に言い切れませんが、“利便性”では、熊本電鉄を上回っているのではと
感じる部分もありました。

2011年05月07日 8時46分

熊本電鉄(7)「北熊本車庫」今昔。

上段の写真は、昭和53年1月29日、
「北熊本駅」ホームから撮影した「北熊本車庫」です。
下段は平成23年3月25日、
電車内から撮影した「北熊本駅」と「北熊本車庫」です。

昭和の電車で正面に鎮座ましましているのは「モハ71号」で、
単に通りすがりで撮影した、ある種、スナップ写真とも言えるものですが、
この電車の詳細は、今回の熊本電鉄シリーズの最後に紹介します。
下段写真の平成の「北熊本車庫」は、昼間とあって…、と続ける前に…。

そう言えば、平成23年3月25日の私の行動をまだ書いていませんでした。
●「上熊本」発9:50~「北熊本」着9:59
●「北熊本」発10:31~「御代志」着10:51
●「御代志」発11:11~「藤崎宮前」着11:37

話しを元に戻して、昭和の車庫の“建物の中”の車両は、
左側は、正面の顔からモハ71と同形式と思われますが、
右側は、屋根の形状等から元小田急のモハ301形と推察しています。

一方、平成になりますと、右手前の側線に入っているのは
元東京都営の「6101+6108」。
正面の「上熊本」との区間運転をしている『青ガエル/5102』の右隣には
同じく「6211+6218」。
正面窓周りが黄色に塗られているかいないかの違いがここで分かります。
更に右側がもう一両の『青ガエル/5101』。
その右側には、隙間からチラッと元南海22000系の「201+202」が
見えます。

下段写真は、「御代志」からの戻りの電車から撮影しており、
ダイヤ通りに運転されていたとすれば、「北熊本」の入線は、
1)「上熊本」発、2)「藤崎宮前」発、3)「御代志」発の順番と
思われます。あまり大事なことでは無いかも知れませんが…。

2011年05月06日 23時50分

熊本電鉄(6)「北熊本駅」の柱。

「北熊本駅」の駅舎をホーム側から眺めてみました。
さて、この写真は昭和でしょうか?平成でしょうか?
多分、どちらも正解ではないでしょうか?
まるでここだけ時間が止まっているようです。

正解は言うまでもなく“平成”で、駅舎の左隅にある「駅名看板」の下にある
『時刻表』が明らかに平成のものだからです。
但し、この写真でその判別は難しいと思います。
(だったら書くべきではないですね・・・)

ところで皆さんはどんな時にカメラのシャッターを押しますか?
私の場合、「気が向いた時」というしかないのですが、
デジカメに変わってからは、メモ代わりに押すことも多くなりました。
(前にも一度この話しは書いていますが…)
この写真の場合、何の変哲もない駅舎の写真なのですが、
「うぐいす色」(少し違うかも知れませんがご容赦を)に塗られた
柱が美しいと思い、シャッターを押しました。
“記録写真”的なモノではなく“記憶写真”と言う感覚です。
ちょっと目に付いた様々なシーンを取り敢えず「後先」考えずに撮れるのは
デジカメの良さです。また、最近のデジカメは画質も格段にUPし、
私が普段使用している“典型的”な『コンデジ』でも、
先に書いた『時刻表』の数字までは読み取れませんが、
それが『時刻表』であることは分かります。

“記憶写真”に話しを戻しますが、柱の色は塗り直されてから
「幾年が経ったのだろう」と感じさせるものの、
「塗り直される前は如何にあったであろう」とか、
そもそも「開業時はどうであっただろう」と思いを馳せるのも、
こうした写真を撮る楽しみに…、私はしています。

2011年05月06日 8時26分

熊本電鉄(5)「北熊本駅」名物“離合集散”新旧比較。

熊本電鉄「北熊本駅」名物、電車の離合集散“新旧対比”です。
ここのポイントは、跨線橋ではなく、線路を横断しての乗換!

そういえばこのような風景、どこかで見たことが…。
そうっ、昨年の5月26日にUPした一畑電車の「川跡駅」ですね。

「松江しんじ湖温泉」「電鉄出雲市」「出雲大社前」から
集まってくる電車が、ここ「北熊本駅」では
「藤崎宮前」「御代志」「上熊本」となります。

余計な話しが長くなりました。
ご覧の通り、上段写真が“平成23年”で、下段写真が“昭和53年”です。
停車中の電車を除けば、この30年余り、ここでは時間が止まっています。
もっとも、左側2線の電車が、単行から2両連結に
グレードアップしています。

平成のラインナップは、「藤崎宮」行き⇒「6221」、
「御代志」行き⇒「6111」、「上熊本」行き⇒「5102」。

昭和では、「藤崎宮」行き⇒「103号」、「菊池」行き⇒「102号」、
「北熊本」行き⇒「121号」。

こうやって見ていると、下の写真が“平成”ですと言っても
通用しそうな感じですね。

等と言うことはさておき、こうした乗客の目から見て平面的な
“離合集散”は、以前は国鉄でも私鉄でも分岐駅では見られた光景です。
名鉄で言えば広見線と廃線となった八百津線の分岐駅である
現・明智駅(以前は伏見口駅)でも見られました。
最近は、安全上の理由から跨線橋が整備され、“地方”でも
あまり見かけません。
さて、いつまでこうした光景を見られるのでしょう?
もっとも単なるノスタルジーで済む話ではありませんが・・・。

2011年05月05日 18時02分

熊本電鉄(4)「北熊本駅」の表に出てみれば。

話しが2回飛んで恐縮です。

熊本電鉄の「北熊本駅」の外に出たのは、昭和を含めて今回が初めてです。
何せ昼間は、30分に1回しか電車がやってきません。
「電車を一本遅らせよう」と、腹を決めればその運命に従うだけです。
隣と言うか、駅舎の中と言うか八百屋の「やさい村」でも
結構時間が潰せました。(熊本っぽいモノも売っていました)
駅の中にいてはこういう発見は絶対に出来ません。
これをきっと『旅の醍醐味』と言うのでしょう。
やはり、1回乗っている路線は“乗りつぶし”のために「次」を
急ぐこともなく、心の余裕が生まれます。

昭和53年1月29日の動きをここで纏めておきます。
実は、前日の28日は「阿蘇」に泊まっており、
「阿蘇」発8:09の豊肥本線728Dで、「肥後大津」着8:57、
ここから当時の熊本電鉄の終点、「菊池」に移動し、
「菊池」発9:30~「藤崎宮」着10:30。
その後、熊本市電で「健軍」に向い、
直ぐに折り返して再び熊本電鉄「上熊本」発12:12に乗り、
「北熊本」着12:20。更に「北熊本」発12:23に乗り継ぎ
「藤崎宮」着12:30。そこからまた熊本市電の残りの部分に
乗りに行きました。
●「肥後大津」~「菊池」の移動ですが、私のメモに何も記載がありません。
ということは、多分99%、ヒッチハイクをしたと思われます。
バスもあったはずですが、その手段ではこの時間の乗り継ぎは無理でしょう。

ということで今回が初「北熊本」駅となった訳です。
“乗りつぶし”をやっていると、写真を撮るより、風景を眺めるより、
旅の“風情”を楽しむより、ただひたすらに『修行』のように列車に
揺られる日々でした。
※風景を眺める時間があれば、今乗っている列車(線区)の
『次』の一手を考えるために、いつも「時刻表」と“にらめっこ”でした。
今思えば、愚かしいことですが当時はそれが私の『人生』でした…何てね。
大袈裟ですね。書いていて気恥ずかしい。 

2011年05月04日 8時01分

熊本電鉄(3)健在!青ガエル5000系。

言うまでも無く元東急「5000系」。
ここ熊本でも「5000形」を名乗っており、写真は「5102」です。
熊本電鉄ではもう一両生き残りがいて、
「5101」の番号を付けています。
それにしてもこの“青ガエル”のこの顔が、一両運転対応のため、
反対側では見事に切り取られ、
先々回UPした「上熊本駅」の改札から顔を出している“平面顔”に
なろうとは、東急時代を知る者としては、初めてその実物を見て、
少々衝撃的ではありました。
※「Wikipedia」にこの“平面顔”を「“平面ガエル”の別名あり」と
書いてありましたが、漫画『ど根性ガエル』が無ければ、
別のネーミングになっていたのでしょうか?どうでも良い事ですね。

もっとも、現役の“青ガエル”は日本でもここだけになってしまっただけに、
熊本電鉄オリジナル5000形でも十分、価値があります。

ところで、乗ってみて「そりゃそうだよね」と思ったのが、
天井の扇風機。そうっ!冷房の吹き出し口が無いのです。
元々冷房のない車両でしたが、熊本でも冷房は付けられていませんでした。

今時、別の意味でも貴重な車両ですね。
「そよ風トレイン117」にわざわざ乗る必要はありません。
この電車で「そよ風」に吹かれてみたいと思いました。

参考までに「上熊本」~「北熊本」間の最高速度は45キロです。
「ねっ!そよ風にはピッタリ」でしょ。

●見た限り、菊池線「上熊本」~「北熊本」専用で
使用されているようでしたが、
他の電車もこの区間で使われているのでしょうか?
乗客数の現状から見ると、多分、無さそうですね。

2011年05月03日 18時15分

熊本電鉄(2)昭和53年の「上熊本駅」と「121号」。

昭和53年1月29日、鹿児島市電に乗りに行く前に熊本電鉄と
熊本市電に乗りました。
写真は、その時の「上熊本駅」です。

電車(121号)の止まっているところは多分、現在と同じでしょうが、
左側の貨車が止まっているところは駐車場に変わっています。
※その頃、きっとまだ貨物輸送があったんでしょうね。
熊本電鉄のHPでは、昭和54年に国鉄貨車直通運転取扱廃止とありました。

ところでこの「121号」ですが、「Wikipedia」によれば、
元国鉄クハ6000形でしかも南武鉄道(現・南武線)から
国鉄への引継車とのこと。
自家用車を買い替えた後、自分がそれまで乗っていた車が
中古車として所有者を点々とすることは、
中古車販売業が成立していることからも当然の事ですが、
現時点での所有者が誰であるかとかまして
『スクラップ(廃車)』になった等という情報は通常ありません。
それが鉄道車両の場合は、製造から廃車までの履歴は、
趣味誌や単行本等の書籍、更にインターネットで検索すれば、
まず探し出せない車両は殆どないのでは無いでしょうか?
(簡単に探せないことも多いですが…)

製造数の違いがあまりにも桁違いですし、
鉄道と自動車を比較したところでそもそも意味はないのでしょうが、
1点だけ。それは『鉄道趣味』が鉄道の登場から現時点、
そして未来をもウォッチする「歴史」趣味でもあることが
その“要因”なのではと個人的に思っています。
ということでこの「121号」、熊電には昭和31年に来て昭和60年廃車と
なっています。

一方、駅舎でいえば、建物こそ木造から今の・・・、
今の建物を表現する上手い言葉が見つからないので、
そこはパスして、何れにしろ駅そのものの奥行きが現在と
さほど変わっていないところが面白いですね。

考えてみれば、大きな駅や話題性のある駅を除き、
小駅の「駅舎」の歴史はあまり文献等で見かけないような気がします。

2011年05月03日 9時00分

熊本電鉄(1)平成の「上熊本駅」。

平成23年3月25日(金)、鹿児島で一泊した私は、
鹿児島中央発8:34の「さくら550号」で熊本に向いました。
(熊本着9:23)
そこから熊本発9:35の334M玉名行きに乗り換え、
上熊本駅着9:39。

駅を出ると目の前に、熊本電鉄菊池線の「上熊本駅」があり、
暫くすると徐(おもむろ)にたった1両の電車が到着。
パラパラと乗客が降り、三三五五散っていきました。
その数のあまりの少なさに侘しささえ感じたほどです。
写真は、その際に撮影した上熊本駅と停車中の『5102』です。
なお、この写真は是非、覚えておいてください。次回UPの写真と比べます。

熊本電鉄と言えば、電車の運転系統的には、
藤崎線「藤崎宮前」~「北熊本」間と菊池線「北熊本」~「御代志」間が
直通で、ここ菊池線の「上熊本」と「北熊本」の間が
折り返し運転となっており、支線扱いとなっています。
こうした例は、筑豊本線の「原田」~「桂川」間や、
少々事情は違いますが、紀勢本線の「和歌山」~「和歌山市」間
くらいではないでしょうか?

ところでこの「上熊本駅」、下段写真の前は幹線道路になっており、
なかなかの交通量があります。
また熊本電鉄の「上熊本駅」は、JR上熊本駅の左側に位置しますが、
その反対、右側には少し離れて熊本市電の「上熊本駅前」電停があり、
そちらは旧JR「上熊本駅前」を移築した駅舎もあって趣のある
“ターミナル”の雰囲気です。
一方、熊本電鉄の方は『場末』というか、
ご覧の様にとても人口70万人超の大都市の起点駅に見えません。
※今回、市電の電停の写真は撮影しておらず、UPできません。ご容赦を!

2011年04月22日 8時00分

鹿児島交通の思い出(4)車内乗車券に見る「鹿児島交通」。

鹿児島交通の車内乗車券です。
毎度書いていますが、車内乗車券から、当時のネットワークが見て取れます。
国鉄「鹿児島本線」で言えば、熊本方面に向けて
「串木野」・「川内」・「出水」の駅名がありますし、
東には「西鹿児島」を通り越して
「山野線」の「さつま大口(薩摩大口)」や、
川内経由か肥薩線経由か見当もつかない
「宮之城線」の「宮之城」の名も見られます。
そもそも自社の駅が、下段に中途半端な感じで3ブロックに
あるのは不思議な印象です。
一方で、国鉄「指宿枕崎線」の駅名は見当たらないので、
まったく乗り継ぐ乗客がいなかったのか、想定していなかったのか、
無視したのかは、今や謎と言っても良いでしょう。

ところで当時、1日3往復の列車が西鹿児島に乗り入れていた。
●加世田発5:55、西鹿児島着7:24
●枕崎発10:24、西鹿児島着12:31
●枕崎発15:59、西鹿児島着18:12
●西鹿児島発8:04、枕崎着10:14
●西鹿児島発13:25、枕崎着15:31
●西鹿児島発19:13、加世田着20:58

これをみて分かるように、またこの乗車券の発行が
『加世田車掌区乗務員』とあることから「加世田駅」が、
この鹿児島交通の中心的な役割を果たす駅ということが伺い知れますが、
私の乗った列車の加世田駅の停車時間は短く、
この駅では一枚の写真を撮ることもなく、
ただその風景を見ただけで通り過ぎました。

車庫に並ぶ車両を確認することも無く、今思えば、
「ここで途中下車していれば…」などとなるのですが、
枕崎で乗り継ぎ予定の国鉄「指宿枕崎線」の列車は、
私の乗った3736D枕崎発7:54の次は
何と13:49発の746Dまでなく、
“乗り鉄”はひたすら次から次へと急ぐ旅でした。

2011年04月21日 18時10分

鹿児島交通の思い出(3)枕崎駅は「鹿児島交通」の駅だった?

上段写真は、“鹿児島交通”の「枕崎駅」前の風景です。
●ズバリ「枕崎駅」の写真は見つかりませんでした。
●「国鉄バス乗り場」がポイントかな?

あえて“鹿児島交通”と書いたのは、
『南薩鉄道』が枕崎に到達したのが昭和6年で、
国鉄「指宿線」が枕崎に到達して「指宿枕崎線」に改称したのが昭和38年。
実に30年以上に渡って「枕崎」は、『南薩鉄道』の駅で、
国鉄の乗り入れ後もここ「枕崎駅」は南薩鉄道~鹿児島交通が管理し、
そのため入場券は、鹿児島交通の発行したものでした。
(多分、間違いない!)

駅前にある“歓迎”の看板には
「ようこそいらっしゃいました 枕崎は日本一のカツオの港です」とあり、
当時、確か学校の地理の学習で
「鰹節(かつおぶし)」生産“日本一”と習った記憶があります。
もっとも「カツオ」の“日本一”は静岡県の焼津であったり、
確か高知県(土佐)も何かの“日本一”を自称していたと思います。
何れにしろ、枕崎が日本で有数の「カツオ」の水揚げ港であったことだけは
間違いありません。

さて昭和49年当時、写真の通り、普通入場券の料金は
「20円」となっており、
確か国鉄では既に「30円」の時代のはずで、
国鉄のホームにも入れる“一寸お得な”入場券だったんですね。
ただ、当時はそんな事は全く気にしていませんでしたし、
そもそも「枕崎駅」が国鉄ではなく
『鹿児島交通の管理駅だったんだ!』とは、
このブログを書く段になって知った位です。

●「私は知ったかぶりをしない謙虚な人間です。」と、“自画自賛”。
と、書くと、『普通、それ位は“入場券”を買った時にわかるだろう』と
言われそうですね。皆さんの仰るとおりです。



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プロフィール

稲見部長稲見眞一
<自己紹介>
昭和52年4月、中京テレビ放送入社。「ズームイン!!朝!」を始めとした情報番組や「ドラマ」「ドキュメンタリー」等のディレクター・プロデューサーを務めた。鉄研最終回(2010年1月29日放送)では自ら自慢の鉄道写真「俺の一枚」を持って出演。 鉄道歴は小学校5年からスタートしはや半世紀。昭和55年には当時の国鉄・私鉄(ケーブルカーを除く)を完全乗破。平成18年にはケーブルカーも完全乗破。その後も新線が開業するたびに乗りつぶしている筋金入りの“乗り鉄”。好きな鉄道は路面電車。電車に揺られながら窓外に流れる街並みを眺めているのが至福のとき。さてスジを寝かせてゆったり乗り鉄と行きましょう!