2010年08月03日 9時00分

昭和45年の広島・呉線 C59162

昨日の夕方UPしたのと同じ場所ですが
こちらはC59162のバック運転です。

上り普客922レ「広島」発15:53
「広」着17:06でした。
※撮影ポイントの最寄り駅「吉浦駅」は16:41発。

日本を代表する大型蒸気が定期でバック運転するのは
「広」にターンテーブルが無かったのが
その理由と記憶しています。

そもそも、「広」~「広島」間は33.2キロしかなく
C59やC62が働くほどではなかったと思いますが
この蒸気が働くことのできる場所が他に無かったからと
いうことでしょう。

それにしても、どうやって進行方向の安全確認を
していたのでしょうか?
機関士さん、機関助士さんの負担は
如何許り(いかばかり)であっただろうと思う次第です。
※その前に運転そのものも難しかったでしょうね。

2010年08月02日 18時24分

昭和45年の広島・呉線 C59164

朝UPしたC59164の走行写真です。
※C59164…「糸崎機関区」のカマ。
撮影した場所の選定が今一歩で
電線がうるさいのはご容赦ください。

場所は呉線吉浦~川原石間。
上り924レ普客です。
「広島」を16:32に出て「広」到着が17:41でした。
当時の呉線は、大型蒸気の最後の砦といわれ
C59、C62の牽く客レが雁行し、
鉄道マニアが全国から押し寄せていました。

特に、「広」~「広島」間は通勤・通学列車も
多数運転され、効率がいい線でした。

現在の呉線は電化されたものの、駅数が多くなっているので
一概に比較は出来ませんが、
普通列車同士であれば、蒸気牽引の客レは
所要時間で相当に頑張っていたと言えます。

(参考)
C59164は、梅小路蒸気機関車館で保存されています。

2010年08月02日 9時01分

昭和45年の広島 C59164

この写真を撮影したのは昭和45年3月31日。
場所は広島機関区です。

その頃の国鉄は、『鉄道マニア』におおらかなところがあり
入構許可を得るためにちゃんと事務所にあいさつに行けば
一部の例外はもちろんありましたが
機関区内で撮影をさせてくれました。
※その頃、「鉄」「鉄オタ」という言葉はなく
 まして「撮り鉄」「葬式鉄」という言葉も存在しなかった。
 ジャンル分けも「模型派」とそれ以外くらいだったのでは。

ところで最近私は、今朝の写真もそうですが
フィルム写真のデジタル化を始めました。
本当に一歩ずつで遅々として進まないものの
このブログがあるので、ストップはしなくなりました。

で、この写真ですが、私にとって初めて使用した
リバーサル(ポジ)フィルムの栄えある1枚目。
そもそもこんなUPサイズだったのは意外でした。

2010年07月24日 7時09分

鉄道の見える部屋Ⅴ ホテル・アルファーワン出雲

このブログで6月4日から掲載した
「門司港レトロ観光線」に乗った後、
同じく5月24日から掲載した「一畑電車」に乗るべく
5月15日に宿泊したのが、山陰本線「出雲市」駅の
真ん前にある「ホテル・アルファーワン出雲」でした。
※撮影時間は5月16日の午前7時頃です。

部屋は4階だったと記憶しています。

写真自体は、「だから何なのだ」というレベルですが
高層マンションの手前の
恐ろしく立派な高架を単行のディーゼルが
ゆったりと走り去るそのアンバランスな風景を見るにつけ
私はしばし公共交通の在り方を考えるにつけ
「複雑な思いが胸を去来」しました。

ちょっと話しは飛びますが、5月15日の私の行動。
1)門司港レトロ観光線乗車。
2)新幹線で広島に移動。
3)広島電鉄宇品線(広島港まで)に乗車。
  ※以前、乗っているのですが何故か乗車記録メモを紛失。
   折角なので再チャレンジしました。
4)広島~出雲市は高速バス「スーパーみこと号」で移動。
こんなパターンでの移動は稀にしかありませんが
家族からは「理解できない」と言われています。

2010年06月29日 18時34分

山陽本線 上郡駅

山陽本線上郡駅でこんな看板を見つけました。
6月19日に若桜鉄道に向かう途中のことでした。

『JR上郡駅利用促進協議会』が立てたもので
『「姫路⇔上郡⇔岡山」駅間の直通ダイヤを
復活しましょう』と書いてあります。

上郡⇔岡山間は以前から直通ですが
姫路⇔上郡間の今は、日中は赤穂線からの
姫路方面行きと相生での接続となっており、
乗換えを強いられ確かに不便でしょう。

昭和50年代、播州赤穂と姫路方面を結ぶ列車も
上郡(岡山)と姫路方面を結ぶ列車も両方とも直通で、
乗り替えは不要だったと記憶しています。
今のJR西日本の経営方針では
多分、どちらの直通利用客が多いかを計算し
姫路⇔相生間の運転本数を調整していると思われます。

今の上郡⇔相生間は
国鉄時代より電車の本数は増えていると思われますが
上郡の人にとって姫路に直通しない現実が
きっと耐え難いことなのでしょう。

2010年06月29日 9時09分

若桜鉄道若桜駅

若桜鉄道の締めはこの人形です。

若桜駅の今は使われていない集札口に、
駅員さんの人形が立っています。
※改札口にも駅員さんの人形が立っています。

若桜鉄道の国鉄時代からある駅には
駅員さんだけではなく、
地元のおじさん、おばさん、子供たちの人形達が
ベンチに座ったりして私達を出迎えてくれます。

多分、地元の方が若桜鉄道への愛情を込めて
作ったものを展示していると思われますが
訪れた人の心を『ほっと』させることだけは
間違いありません。

一畑電車の話しをUPした時に、
地元の子供達が『一畑電車』をテーマに
駅のベンチに絵を描いていた話しをしましたが、
今回も地元あっての「鉄道」という気持ちが
ヒシヒシと伝わってきました。
もしも、若桜鉄道を訪れることがあったら
この人形達に一言声をかけていただければと思いました。

2010年06月28日 18時02分

旧・国鉄若桜駅

若桜鉄道、旧の国鉄若桜線は
昭和53年10月16日に
335D郡家発10:15、
若桜着10:50で乗破しました。

写真は、その時に写した駅舎ですが、
基本的に今の駅舎と変わっていません。
違いを捜せば、今は出入り口の三角屋根の所に
大きな時計があり、写真右端の部分に
電話ボックスがあります。
あと、屋根などが塗り直されてきれいに
なったことでしょうか。

私は今回の再訪時に、当時の記憶が全く無かったため、
この写真を探し出して、
今の写真と見比べてみました。

樽見鉄道の樽見駅のように、久しぶりの訪問時に
ガラッと変わっていたりすると
「あれっ」と感じることもあるのでしょうが
今回はその変貌を実感することは無かったです。

2010年06月07日 9時08分

門司港レトロ観光線 ボランティアスタッフ

門司港レトロ観光線(やまぎんレトロライン)には
想像以上に多くの人が関わっていました。
その大半が地元を中心としたボランティアだそうです。

まず、途中駅を含め各駅に数人の『駅員』がいたり
車内も各車両に1名ずつの案内兼車掌(扉の開閉も担当)の
女性がおり、その他にも1名の男性車掌がいました。

正確に数えた訳ではありませんが、多分、
運転士を入れて20名以上の人がいたかと思います。

1編成の最大定員は立ち席をいれて100名で
多くの人が往復していたことを考えると
全列車満席の場合の1日の収入は次の計算式となります。
(往復500円×100名×14往復=70万円。)
春から秋の季節運転で、しかも土休日運転。
『門司港レトロ』全体への貢献も勘案する必要はありますが
決して安閑としていられる状況ではないことは分かります。

それでもこの鉄道が成り立っている大きな理由が、
スタッフの大半がボランティアであるということだと
思われます。

今のところ順調に推移しているようですが
『特定目的鉄道事業者』は“継続性”は問われないようなので
突然、見限られる事態が到来する可能性はあり得ます。

私はこの小さな機関車とトラの組み合わせが、
地元ボランティアとの協働でいつまでも長生きしてほしいと
切に願わずにはいられませんでした。

2010年06月06日 17時53分

門司港レトロ観光線 地ビールを楽しむ

オハフ33488の座席に座り
関門海峡を行き交う大小様々な船を見ながら
カフェで買った地ビールでノドを潤す。

ゆったりとした時間だけが静かに過ぎていきます。

クーっ、男のロマンですよね。

オハフは復元されたとは言っても
何点かは異なる部分があります。
カフェコーナーの設置もそうですが
ボックスシートの真ん中には写真でもわかるように
固定テーブルが置かれ
これは、一般の利用客には人気ですが
多分「鉄」にはさぞかし不人気のことと思います。

また、トイレ・洗面は使用できませんし、
以前は当然のようにあった灰皿もありません。

ともあれ、この写真をみていると心が「レトロ」モードで
一気に爆発しそうです。

2010年06月06日 9時00分

門司港レトロ観光線 オハフ33

関門海峡レトロ観光線「関門海峡めかり」駅に保存の客車は
『オハフ33 488』です。
昨年この地に来たのですが、その後大改修され
今年の3月に製造時の美しさを取り戻しました。

この写真で一番奥、出入り口の左上に2枚の銘板があります。
※写真では分からないと思いますが…。
その内の一枚には「鉄道省 小倉工場 昭和23年」とあり
この車両が昭和23年に製造は分かるのですが
『日本車輌』製なのに『鉄道省小倉工場』と
書いてあるのは何故?

もう一枚には
「更新修繕 門司港レトロ室 平成22年」とあり、
こちらは多分、
北九州市産業経済局門司港レトロ室が
改修工事を発注したためとと思われます。

また、分かりづらいですが車内の一番奥はカフェになっていて
コーヒーやビールを販売しており
昔の客車のシートに座り、関門海峡の景色を楽しみながら
ゆったりとした気分でそれを味わうことができます。
(注)何も買わなくても車内設備は使用可。

こうした背中が直立のボックスシートは
昨今見かけなくなりましたが
昭和50年代まではこれがまだ現役でした。

空いた夜行ならこのシートに横になり、
混んでくると直立不動で座るか
誰かが床に新聞紙を敷いてそれに体を横たえるという
“上下分離方式”を取り入れたりしていました。
※今回はレトロ観光線の話しなので
 どうしてもこの“オチ”を書きたかった。

それにしても、こんな客車に2~3連泊しながら
乗りつぶしをしていたとは昔日の感ありです。
(さすがに荷棚をハンモックにした経験はありません)



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プロフィール

稲見部長稲見眞一
<自己紹介>
昭和52年4月、中京テレビ放送入社。「ズームイン!!朝!」を始めとした情報番組や「ドラマ」「ドキュメンタリー」等のディレクター・プロデューサーを務めた。鉄研最終回(2010年1月29日放送)では自ら自慢の鉄道写真「俺の一枚」を持って出演。 鉄道歴は小学校5年からスタートしはや半世紀。昭和55年には当時の国鉄・私鉄(ケーブルカーを除く)を完全乗破。平成18年にはケーブルカーも完全乗破。その後も新線が開業するたびに乗りつぶしている筋金入りの“乗り鉄”。好きな鉄道は路面電車。電車に揺られながら窓外に流れる街並みを眺めているのが至福のとき。さてスジを寝かせてゆったり乗り鉄と行きましょう!