2011年05月18日 18時12分

熊本市電(9)再訪を期して。

この写真は、平成23年3月25日、熊本を去る直前、
「熊本交通センター」から撮影したものです。
昭和の時代からは、その街並みや走っている車が変わっているのでしょうが、
変わっていないのは「吊架線」のある風景位でしょう。
最近は『センターポール方式』が“景観”のみならず“防災上”の観点も含めて
進められていますが、その利点は数多(あまた)あるものの、
私の様な年配者からすれば、この写真の様な風景の方が“馴染がある”と
言えそうです。

ただ一方で、この車道の幅での『センターポール』化は
難しいのだろうとも思い、逆にこの風景(車道は1車線)こそが
“市電”を都市路面交通の主役から追いやったとも言えます。

ところで…。
昭和から変わらないのは「吊架線」のある風景と書きましたが、
実はもう一つ変わっていないことがあります。
それは『ほっかほっか亭』ラッピングの「1203号」です。
今回UPした昭和の「熊本市電」の中に、この「1203号」が
写っていました。
もっとも変わっているといえばラッピングが変わっており、
当時は『SONY』でした。
正解は先回の「上熊本駅前」停車中の電車で、その写真サイズでは
「1203号」と確認することは出来ないと思われ、
私はほとんど「いじわるばあさん」状態です。
※「いじわるばあさん」をご存じない方は検索してください。
(ますますもって「いじわるばあさん」)

とまあ、「熊本市電」の最終回が何とも締まらない結末になってしまいました。
要は、この“電車の走る風景”がいつまでも続くような町であれば、
その町は交通弱者に優しい素敵な土地と言う事で…、ご容赦を。

2011年05月18日 9時00分

熊本市電(8)「新水前寺駅前」電停は移設工事中。

写真は電車内から撮影した移設工事中の「新水前寺駅前」電停です。
(現在の「新水前寺駅前」電停は、工事中の場所より手前にある)

この電停名は、熊本市の「市電移動円滑化整備計画」に基づき、
この3月1日、「水前寺駅通」から改称されたのですが、
その3月1日に行われた熊本市電の“整備”内容は既に書いている
系統名の変更のほか、運行系統の色分け、電停名を利用者に
分かりやすくするための改称、電停のナンバリング等々となっています。

この改称なった「新水前寺駅前」電停は、現在の場所から、
奥にある高架橋に近づく訳ですが、この高架橋はJR九州「豊肥本線」で、
この写真の左側にその「新水前寺駅」があり、最終的には、
高架線の手前に歩道橋が設置され、それとこの電停が階段で繋がります。
またその歩道橋は、そのままJR「新水前寺駅」に繋がる計画で、
市電とJRの乗り継ぎは正に『直結』と言える状況となります。

電停の完成はもう間近と思われましたが、最終的に歩道橋で
市電の電停とJRの駅が直結するのは今年の7月頃のようです。
因みに電停と駅舎の距離ですが、現在の150メートルが
50メートルまで短縮されるとの事で、
熊本市東部から豊肥本線を利用してきて熊本市の中心部に行く利便性が
格段に向上することは間違いなく、都市交通の基幹としての路面電車の役割が
遺憾なく発揮されそうです。
電車の低床化、大型化も含め熊本市は素晴らしい町ですね。
(都市の公共交通の観点であり、「鉄」の感想ではありません・・・)

2011年05月17日 18時06分

熊本市電(7)「田崎橋」点景。

昭和53年1月29日、熊本市電「田崎橋」電停。
停車中の電車は「1207号」です。そうっ!これが奇跡の再会。
この写真の約2時間半前、「健軍町」で出会った電車だったのです。
実は今回、このブログを書くために過去の写真を発掘中に発見しました。
当然、当時は気付いていません。自分が乗った電車にも普段、
あまり注意を払わない私ですが、さすがにこれからは、
多少は気にしようと決意をせざるを得ませんでした。

話しは電車に戻し、「1207号」の車齢は私より少し若い程度で
既に50歳を越えていますが、この電車というか「1200型」は、
この昭和53年から冷房化改造が始まり、日本発の「冷房付き路面電車」として
話題になりました。もっともこの写真を撮影した時点では
「1207号」は冷房化されておらず、暫くこの姿で走っていたはずです。

またこの電車は、私が「熊本市電」を完乗した記念すべき電車であるということも
合わせて報告しておきます。
(だから何なんだということはさておき・・・)

ところで書いていて思い出したのが、乗車時、
「水道町」から乗った電車の乗客は、「熊本駅前」で殆ど下車し、
この「田崎橋」までの乗客が極めて少なかったこと。
写真を改めて見ても道路の真ん中に『ポツン』と止まっているだけで、
人影がありません。当時は、写真を撮影するときにそれほど
“人の写り込み”を気にした時代ではないので、
本当に人がいなかったと思われます。

今はいかが相成っているのでしょう?
それよりも、サイドリザベーション化なった「田崎橋」までこの際、
行けば良かったと今更ながら後悔しております。
優先順位の付け方なのですが、そもそも今回の「熊本市電」訪問も実のところ
結構思い付きだったりして、これでは『都市交通の在り方』等と
えらそうに書く資格は無いですね。

2011年05月17日 8時00分

熊本市電(6)「上熊本」電停はいい感じ。

路面電車の終点というのは、幾つかのパターンがあります。
当時、私が知っている市電の終点の風景は、やはり名古屋市電の
イメージが強く、道路の真ん中に、ポツンとあるというものでした。

そのためこの電停に上屋のある風景は私にはとても新鮮に映り、
まるで地方の小私鉄のターミナルのような感想を持ちました。
それはそれとして、電車を待っている人たちの服装(特に女性)に
時代を感じさせます。電車だけで時代を感じることもありますが、
やはりその時代時代を生きている“人”のいる日常の光景こそ
『時代を写している』といっても良いのでしょう。
もっともこの写真は『肖像権』を気にしなくてもいいから
UP出来た訳ですが・・・。

この写真で時代を感じさせるものがもう一つあります。
小さな画面でご覧の方は分かりにくいでしょうが、
電車の左奥にトラックが止まっており、その更に奥にある建屋には
荷物が山積みされ、おそらく「上熊本駅」から貨物列車で出荷されるか
到着したものと思われます。

現在、こうした小口扱いと思われる貨物が駅から消えて久しくなりますが、
現代の“効率”論から考えると当時は『良き時代』だったのでしょう。

2011年05月16日 18時00分

熊本市電(5)「健軍町」電停にて。

昭和53年の「健軍町」です。
電車は左が今は無き「1053号」で、右側が今も現役の「1207号」です。
この「1207号」は後ほど奇跡の再会となります。

当時の『2系統』(今の“A系統”)は、今と同様、頻繁に運転されており、
平日7時~19時は“5~6分間隔”、
日祝の同時間帯で“6~7分間隔”となっていました。
なお、当時は今の『土曜ダイヤ』は存在しておらず、それも当然で、
『週休2日制』は昭和が50年代に入っても普及途上で、
「土曜」は「平日」であり、今の時代とは隔世の感があります。

一方、『3系統』(今の“B系統”)の「健軍町」発は昼間で
1時間に2~3本しかなく、今の1時間に5本程度とは大違いで、
ひょっとすると「交通局前」折り返しが結構あったのではなかったかと、
これを書きながら思っていますが確証はありません・・・。
※ただ折り返しがなければ、「上熊本駅前」~「辛島町」間は不便すぎる。

ところで運賃についても一言。当時は今の150円均一運賃ではなく、
整理券乗車による区間制運賃でした。運賃は『対キロ』となっており、
整理券の番号は“1~16”までとなっていました。
また、最低運賃が80円なのは分かっているのですが最高運賃がいくらなのかは
手元資料では不明です。
※平成19年の「全線150円均一運賃」実施直前の区間制運賃については、
HPで検索すれば出てくるのですが、流石にこのころの運賃は
捜しきれませんでした。

2011年05月16日 9時05分

熊本市電(4)撮影の定番、「熊本城」と「熊本市電」。

今回、熊本市電を訪問したのは3月25日で、「桜」の時期には少し早く、
この写真の“狙い”の“意図”だけご理解下さい。

要は「熊本市電」の“撮り鉄”の定番構図として、
私なりに「コンデジ」で挑戦した一枚です。
写っている電車は先回と同じ「9704号」(パト電車・ゆっぴー号)です。
撮影順としては、まずはこの写真を「通町筋」電停の
「熊本城・市役所前」側で撮影し、
「9704号」が「通町筋」電停で乗降扱いする間に一寸移動。
そして同じ「通町筋」電停の「水道町」寄りのところで
先回の写真を撮影した次第です。
先回の写真は撮ろうとは思っていなかったのですが、
「0800型」が近づいて来るのが見えたので、
日陰は承知で「超低床車」の2ショットを撮影しました。

何れも劣らぬ「撮影時期」も「撮影時間」も「天候」も何も気にしない
“乗り鉄”ならでは写真と言えますが、もしも皆様が
「熊本市電」に乗ったり、撮影されたりするときの参考になれば幸いです。

もう少し「水道町」寄りでも先の2ショットは撮影できますが、
「通町筋」「水道町」は、熊本市の一番の繁華街に位置し、
電車の乗降客も極めて多く、また道路の交通量も多いので、
この界隈の撮影時には、そうした写り込みにご注意下さい。

等と言いつつ、実は昭和53年には、「通町筋」で
乗降していないこともあり、この「熊本城」と「市電」という
写真はありません。自分で言うのも何ですが、『流石、乗り鉄』。
「もう、くどい」と言われそうですが、この写真は、一度乗っている
路線ゆえの“ゆとりの産物”と言えます。

2011年05月15日 18時51分

熊本市電(3)「超低床電車」の揃い踏み。

こちらは現在の熊本市電の主役達です。
左が「9700型(9704号)」で、
右側が「0800型(0802号)」です。
●「通町筋」~「水道町」間で撮影。
●熊本市電の形式名ですが、熊本市交通局のHPにおける「車両」の紹介が
『型』を使っているのでこの『ブログ』でもそれに合わせています。

9700型は『言わずもがな』ではありますが、
平成9年に日本で最初に導入された“超低床”電車です。
また平成10年の「ローレル賞」にも輝いた日本の路面電車史上に
残る電車といっても過言ではないでしょう。

一方、「0800型」は平成21年に運行を開始した熊本市電の最新鋭車両で、実際に乗ってみましたが中々の乗り心地で、
何より2連接の大型車両がこうして行き交うほど乗客が多く、
昭和53年当時と比べ、市電が「熊本駅」~「都心部」~「郊外
(健軍町方面)」を結ぶ基幹交通として認知され、
そして市民の足として実際に活用されていると実感しました。

ところで現在の“A系統”(「田崎橋」~「健軍町」)、
“B系統”(「上熊本駅前」~「健軍町」)という系統名が
如何かという議論はさておき、今年3月までの系統は
「2系統」「3系統」で、そもそも「1系統」廃止後も、
そのままの系統番号を使ってきたことが今回の改称に繋がっているなら、
『分かりやすさ』という面では、「1系統」欠番の系統は流石に
“よろしくない”ということでしょう。
まあ慣れの問題でしょうが、市民(利用者)に混乱は見られず、
一方、観光客はそもそもの系統名などには影響を受けないので、
まずは順調に「系統名」の変更が行われたようです。
系統数が多いと、きっとこうはなっていないのでしょうね。

2011年05月15日 8時30分

熊本市電(2)昭和53年の熊本駅前。

昭和53年の「熊本駅」と熊本市電「1351号」です。
「1351号」は当時、ラッピング電車でしたが、今は?

(昭和53年1月29日の足跡)

1)「水道町」発10:44~「健軍町」着11:05
 ◆『2号系統』(今の『A系統』)に乗車。
 *水前寺線(「水道町」~「水前寺公園」)
 *健軍線(「水前寺公園」~「健軍町」)

2)「健軍町」発11:15~「上熊本駅前」着11:54
 ◆『3号系統』(今の『B系統』)に乗車。
 *幹線(の内、「水道町」~「辛島町」)
 *上熊本線(「辛島町」~「上熊本駅前」)

3)「水道町」発13:12~「田崎橋」着13:34
 ◆『2号系統』(今の『A系統』)に乗車。
 *幹線(の内、「辛島町」~「田崎橋」)

●「田崎橋」から熊本駅へは徒歩で戻り。

ということで、2路線を途中「熊本電鉄」の“菊池線”乗車を
挟んでいますが、単に「熊本市電」だけなら2時間もあれば
十分全線踏破できる規模でした。

記憶間違いでなければ、私が乗車した当時の「熊本市電」は“風前の灯”で、
『廃止』か『存続』かで、町が随分揺れていたのでは?
最終的に、どういう経緯で存続が決まったかまでは知り得ませんが、
当時、実際に乗った時のことを思い出そうとしているのですが、
何せうろ覚えで…。ただ「バス交通網」は充実していたような気が…。
市電は、市内交通の“主役”“基軸”どころか“崖っぷち”で
喘いでいました。

今回の写真は、そのように意識して撮影したわけではありませんが、
熊本県(熊本市)の中央駅の前を行く姿ながら、
『都市交通』の主役どころか『取って付けた』感すらあります。
でも、どうしてそんな感想を持ってしまったのかという
合理的な説明が出来ない私がいます。

2011年05月14日 21時22分

熊本市電(1)平成の熊本駅。

平成23年3月25日、昭和53年1月29日以来、
33年振りに「熊本駅」に降り立ちました。
●昭和53年の「熊本駅」は次回UPします。

熊本駅も随分変わったという印象を持ちましたが、
熊本市役所のHPによれば『平成3年』に“改築”とありましたから、
以前の駅舎をベースにしているということでしょうか?

一方、熊本市電の電停は大きく様変わりしています。
熊本県庁のHPを参考にこの項を書いていますが、
「熊本駅前」~「田崎橋」間は、昨年の4月26日から
市電を車道の中央部から西側の歩道に寄せて走行させる
『サイドリザベーション』が行われており、それに合わせて電停周りも
新しくなっており、どうせなら平成21年に登場した『0800型』とまでは
言わないものの、『9700型』が来るまで“待てば良かった”等と
思っています。
ところで写っている電車ですが、車体側面しか見えていないため
「車体番号」が特定できないのですが、窓枠の形状から
『1090型』『1200型』『1350型』の1両ずつの写真を
「Wikipedia」で探してみました。
その結果、熊本市電標準色で車体側面に『番号』が無いものでは
『1201』があったのですが、窓上の緑色の帯の位置が
若干異なる印象があり、一方で中扉の戸袋窓の形状は
『1090型』とは言い難く、さあ正解は?といった所です。

とは言うものの(唐突ですが)、今回、熊本市電で乗ったのは、
「辛島町」~「水前寺公園」間のみで、その区間も特に目的が
あったわけではありません。
名古屋を出た時は、鹿児島で1泊したあと、熊本電鉄・熊本市電を楽しみ、
そのまま出来れば「みずほ」に乗車して帰るつもりでした。
ところが…。何故か突然もう1泊して島原鉄道と長崎電軌に乗りたくなり、
結局、熊本市電は随分消化不良のまま、近い将来の『再来』を期し、
ほんの1時間半程度の再会でした。

2011年05月14日 9時05分

乗換券に見る名古屋市電(3)昭和18年頃。

これまで名古屋市電について書いていて、路線名・電停名について
やや不親切であると気付きました。
1961年(昭和36年)12月1日時点での路線図が
「Wikipedia」の『名古屋市電』の「路線・停留所一覧」の
「1961年12月当時」の項に出ていますので
それを参考にしていただくと分かりやすいと思います。

さて、今朝の写真は昭和18年の『乗換券』です。

まずは券面デザインが一新されました。
これまでの2回では触れませんでしたが、名古屋市電の『乗換券』は、
地図上の東西方向と、券面上の上下左右関係が、
「北」が「上」にあるという常識から90度ずれています。(東が上)
そのため、今回紹介した『乗換券』にも方位を示す“方位記号”が存在します。
そして、その置き位置が今回は左側となっています。
ところで方位のズレは、名古屋市電の路線網が南北方向に広がって
いたのが原因と思われますが、『乗換券』の券面デザインを
“縦”にする発想は、当時無かったということでしょう。

また『バス路線』が券面から消えたので、バスとの乗り継ぎは
無くなったのでしょう。
次に乗換回数が3回から2回に減っています。
こう言える理由ですが、右端の文字が「第一回乗換券」
(切り取り無効)となっており、これから見て取れるのは、
1回目の“乗り換え時”にまずはこのブロックを運転士さん、
車掌さんが切り取って乗客に戻し、次の“乗り換え時” に左側の
ブロックを渡していたのでは思えるからです。

さて今回も時代考証です。
●路線図の一番上にある「東大ゾネ」~「桜山」の実線です。
昭和18年5月1日にこの区間に「トロリーバス」が開業しています。
それが市電との『乗換』対象と思われました。
●「見本」の印の下で見難いですが市電の電停で「千種」とある
ところの路線と、「市役所」~「大津」間は昭和18年12月1日に
廃止になったにも係わらず、この券面にはその電停名が存在しています。
■このため、この『乗換券』は、昭和18年5月1日以降、
12月1日まで使用されていたと推理できるわけです。

今回の「名古屋市電」の『乗換券』話しは、私の知識不足から
生じたものですが、いろいろと調べるのは結構楽しかったです。
最後に貴重なコレクションのご提供とアドバイスを頂いた
「名古屋レール・アーカイブス」のTさんにこの場を借りて御礼申し上げます。



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プロフィール

稲見部長稲見眞一
<自己紹介>
昭和52年4月、中京テレビ放送入社。「ズームイン!!朝!」を始めとした情報番組や「ドラマ」「ドキュメンタリー」等のディレクター・プロデューサーを務めた。鉄研最終回(2010年1月29日放送)では自ら自慢の鉄道写真「俺の一枚」を持って出演。 鉄道歴は小学校5年からスタートしはや半世紀。昭和55年には当時の国鉄・私鉄(ケーブルカーを除く)を完全乗破。平成18年にはケーブルカーも完全乗破。その後も新線が開業するたびに乗りつぶしている筋金入りの“乗り鉄”。好きな鉄道は路面電車。電車に揺られながら窓外に流れる街並みを眺めているのが至福のとき。さてスジを寝かせてゆったり乗り鉄と行きましょう!