2011年05月13日 18時07分

乗換券に見る名古屋市電(2)昭和16年頃。

昭和16年の「乗換券」です。
この頃になると路線網が一気に拡大した感がありますが、
名古屋市が買収した路線も多く、市バスの路線(細い線)も
表示されていることから、市電~バスの乗り継ぎ制度があったと推察されます。
また券面の情報量が一気に増えたのに伴い、
様式はガラッと変わりほぼ全面が路線図となっています。
発行日は『7月3日』で間違いないのですが、以前あった年号は消えています。
また、これまでの「乗り換えた時間」表記から
「乗り換えの有効時間」表記へと、そもそもこの『乗換券』の
考え方も変わっています。
ただ、右端の上下にある「Ⅱ」「Ⅲ」から、3回『乗換』制度に
変更は無かったようです。

今回、『乗換券』の裏にある「広告」も1枚UPしました。
写真の最上段にある「第15回戦時産業安全週間」という文字が、
否(いや)が応でも時代を感じさせますが、こうした“啓発”だけではなく、
デパートや銀行、鉄道会社、薬、人材募集等々、広告主も広告内容も
多種多様で、本当に多岐に渡っており、いつの時代も
『目につく場所に広告あり』と感心してしまいました。
(参考までに、鹿児島市電の『乗換券』の裏面は、利用上の注意点が
書かれており、広告はありませんでした)
『交通広告』という「広告」のジャンルがありますが、
『乗換券』の利用はある意味、先進的だったのかも知れませんね。

ところでこの「乗換券」が何故『昭和16年』と特定出来るか
ということですが、路線図があまりにも小さいので、『話し』として
読んでもらいたいのですが、
●「東山公園」への延長開業…昭和12年2月27日
 ※今の地下鉄「東山線」の「覚王山」~「東山公園」間に該当。
●「内田橋」~「東築地(南陽館前)」廃止…昭和15年5月28日
 ※地下鉄「伝馬町駅」から南の方向に存在した。
●「新瑞橋」への延長開業…昭和16年5月16日
 ※地下鉄「桜通線」の「桜山」~「新瑞橋」間に該当。
●一方で、昭和16年12月30日開業の「西稲永」~「稲永新田」間が
路線図に無い。
 ※今の「あおなみ線/稲永駅」の近く。
ざっとこんなところが理由です。

2011年05月13日 9時00分

乗換券に見る名古屋市電(1)昭和6年頃。

今月1日に、「鹿児島市電」の『電車のりかえ乗車券』の話題をUPした際、
私の「名古屋市電に乗換券はなかったはず」という記述について、
“NPO法人名古屋レール・アーカイブス”のTさんから、
「戦前(~昭和20年)は名古屋市電にも『乗換券』があった」という
ご指摘を頂き、今回、Tさんからその実物をお借りすることが出来ました。
その中から、私が“これは”と思った『乗換券』を3回に分けて
紹介させていただきます。
なお、この『乗換券』の話題をUPするにあたり、歴史的な記述については、
Tさん始め戦前の名古屋市電に詳しい方への聞き取り、
並びにトンボブックス「名古屋の市電と街並み」
(日本路面電車同好会名古屋支部編著)を参考にしています。

まずはこの2枚の『乗換券』ですが、路線図の上部にある数字で
年代を特定でき、上段が昭和6年3月3日、
下段が昭和6年3月5日のものです。何れも80年前の歴史の生き証人です。

券面の色の違いは、乗り換えた時刻を表しており、
赤が午前の発行分で、黒が午後の発行だそうです。
路線図の左側に「発線」(「発」は旧字体)と書いたブロックがあり、
これが最初に乗った路線を現しているものと思われ、
一方、路線図の直ぐ右側の「乗換場所」と書かれた一覧があり、
これで乗換停留所を特定しています。
また一番右側の上のところに「2回乗換」、
下のところに「3回乗換」とあるので、当時3回まで乗換が出来たと
推察されます。

また写真が小さいのでわかりにくいですが、この時代、
名古屋市電の路線網が意外な程シンプルなことにも気付かされます。
このことから昭和6年当時、路面電車としての路線はあったものの、
まだ名古屋市電とはなっていない『路線』があったことが伺え、
興味深いものがあります。

2011年05月01日 18時53分

鹿児島市電(12)夕刻の上町線・清水町。

鹿児島市電の最後は、国道10号線を走っていた「上町線」の終点、
昭和53年1月31日の「清水町」界隈です。
●線路の続いていった先、『山』の手前にポツンと電車がいるのが
分かりますでしょうか?そこが「清水町」です。

いくら日本でも西の方にあるとはいっても、さすがに1月。
午後5時過ぎにここ「清水町」で撮影した写真がこの日の最後となり、
「伊敷町」では、写真を撮影できませんでした。

当時、この写真からは見てとれませんが「清水町」も、
国道3号線にあった「伊敷町」も渋滞が酷くて廃止せざるを
得なかったとのことです。
※「伊敷町」周辺は確かに混んでいた気もする・・・。

それにしても廃止路線の沿線に今も住んでいる方たちは、
鹿児島市電の現在をどう思っているのでしょうか?
少々気になっています。

一趣味者の意見で恐縮ですが、公共交通の整備は、
正解のない永遠の課題なのでしょう。

2011年05月01日 8時07分

鹿児島市電(11)昭和53年の「電車のりかえ乗車券」。

昭和53年当時の「電車のりかえ乗車券
(以下、「のりかえ券」と書きます)です。
当時のことを思い出しながら書いていますので、
もしもこれから書いてあることにミス等があればご指摘ください。

まず「のりかえ券」は現金で乗車し、かつ目的の停留所が、
乗車した“系統”では通らない場合に、
2重で運賃を支払わなくてもよいシステムです。
名古屋市電では無かったはずですが、
全国的にはよくあるシステムですね。

右端の数字は、「乗換日付」で、『31日』に乗車したことを示しています。
ささやかかも知れませんが“不正防止”の手段でしょう。
上から、「1系統」からの「のりかえ券」、
「2系統」からの「のりかえ券」、
「3系統」からの「のりかえ券」となっています。

「1系統」では、当たり前ですが『郡元』『高見馬場』『市役所前』が
“乗り換え”のための指定停留所であることが
券面の『降車有効区間』から見てとれます。
以下、各系統別の「のりかえ券」も同じと思ってください。

今もこの「のりかえ券」のシステムは残っており、
鹿児島市交通局のHPにその詳細が出ています。それを見る限り、
運用方法は変わっていません。

さて現在のデザインですが・・・、
今回は「のりかえ券」はもらいませんでした。
多分、あまり変わっていないでしょう。

2011年04月29日 18時24分

鹿児島市電(10)昭和53年の路線図。

昭和53年の路線図です。電車内に掲示してあった物のため、
ピントが甘く、少しぶれているのはお許しください。
青色の線が「1系統」、黄色の線が「2系統」、赤色の線が「3系統」です。

ここで昭和53年1月31日の足跡です。
1)1系統「谷山」発16:14~「鹿児島駅前」着16:54
●谷山線「谷山」~「武之橋」、第一期線「武之橋」~「鹿児島駅前」。
●鹿児島駅前から清水町まで歩いて移動。

2)2系統「清水町」発17:19~「郡元」着17:55
●上町線「清水町」~「市役所前」、
 第二期線「高見馬場」~「西鹿児島駅前」(ここから唐湊線)~「郡元」。
●郡元発18:00の「1系統」に乗り継ぎ、高見馬場着18:16。

3)3系統「高見馬場」発18:24~「伊敷町」着18:47
●新規乗車区間は伊敷線「加治屋町」~「伊敷町」。
以上で、当時の鹿児島市電を完乗しました。たった4本の電車の旅でした。

その後、上町線(市役所前~清水町)・伊敷線(加治屋町~伊敷町)は
昭和60年に廃止になり、
「2系統」の起点(終点)は清水町から鹿児島駅前に移り、
「3系統」は無くなってしまいましたが、
その当時、市電の衰退は“当然”の様に考えられていた時代で、
今の鹿児島市電の『隆盛』は想像だにできませんでした。
というか、昭和60年当時、これ以上、短くならないでほしいと
切に願ったものです。

最近の鹿児島市交通局の「電車事業」収支は、ほぼ毎年黒字の堅調ぶりで、
電車のスピードも速く、自動車交通との分離もあって
定時性も確保されており、話しは飛躍しますが、
これが何故岐阜で出来なかったのかと思ってしまいます。

2011年04月29日 8時00分

鹿児島市電(9)「鹿児島駅前」停留所の今昔(2)。

平成の時代も、昭和の時代も変わらぬ「鹿児島駅前」停留所の
ダブルクロッシングです。

違いは、軌道敷きが現代は緑化されており、以前が敷石かであったこと。
そしてクロスの位置が、上の写真で言えば、
昭和の時代から少し次停留所方面に移動していると思われます。

『軌道敷緑化』と『センターポール』は
「鹿児島市電」の専売特許と言いたくなるほどですが、
その素晴らしさは私が改めて言うまでもなく、皆様、ご承知の通りですね。
特に、街中だけではなく、このほぼ「専用線」とも言えるこの場所における、
“緑の中のクロッシング”の造形美には惚れ惚れとしてしまいました。

ここで初告白ですが、私が小学生低学年の頃、
日常的に乗っていた名古屋市電や名鉄の「新名古屋」~「鳴海」間で、ダブルクロッシングを見かけた記憶がなく、
少し大きくなってその存在を初めて知った時、何故かそれは私の中で
『大鉄道』(国私鉄を問わず)の象徴の様に感じ、
それを持つ鉄道に“憧れ”を抱くほどでした。
(大袈裟ではなく、本当です)

更に年を重ね「鉄道」に本格的に興味を持ち始めた
高校生位だったでしょうか、
多分、皆様の中にもいるのではと思うのですが、『仮想鉄道』を作って、
ダイヤを考えたり全駅の配線図を作ったりしていました。
そしてそこには必ず『ダブルクロッシング』がありました。
ただ、その時使っていたノートは今、手元にありません。
もっともあったとしても家族には絶対に見せられません。

話しを戻して、“クロス”の位置が移動したかも?ですが、
下段写真の「815号(現、9511号)」の左側にある『建屋』と
同一と思われる建物が、上段写真の「1013号」の左側に見えるからです。
※この建物は、ひょっとしたら「塔」はないものの
「操車を行う信号扱い所」のような気もしています。

2011年04月27日 18時14分

鹿児島市電(8)「鹿児島駅前」停留所の今昔。

「鹿児島駅前」停留所の今昔です。
上段が現在のモノで、3線4面の堂々たるターミナルです。
下段が昭和53年の姿で、規模は現在より小さく、2線2面。
屋根のない吹きさらしですが、鹿児島のシンボル、
「桜島」を背景に写真を撮影でき、乗客サービスの面を除けば、
こちらの方が、『鹿児島』らしいとも言えます。

ところで現在の「鹿児島駅前」停留所ですが、
「1系統」(鹿児島駅前~交通局前~谷山)と
「2系統」(鹿児島駅前~鹿児島中央駅前~郡元)の
2系統が折り返すのですが、何せ両系統とも本数が多く、
構内は常時満線状態。そのため折り返し電車の出発を待つため、
停留所の手前で数分程度待たされることは日常茶飯事のようです。(運転士さんに聞きました)
実は私の乗っていた電車もそうでしたが、1台前の電車もしばし待たされ、
徐(おもむろ)にクロッシングを渡って行きました。
まあ、気の短い人は停留所を前に、イラつくかもしれませんが、
鹿児島の人はきっと大らかなのでしょう。
「私は…、」と言うと、停留所への入線前、
運転士さんが進行方向左側の線路際に設置された
「信号ボックス」の様なもののスイッチを、手を伸ばして操作しており、
それが気になって、「もう少し止まっててほしい」等と
不謹慎なことを思っていました。
多分、入線する線路の選択を手動で行っていたのではと推察しています。
●運転士兼信号操作係?と言った感じ・・・。
 どこのホームに電車を入れるかは特に決まっていない様でした。

ところで下段写真の「613号」は、昭和37年『帝国車両工業』製で、
今も鹿児島の街を走っています。もうすぐ50歳を迎えますが、
これだけの齢を重ねても現役でいられるのは“鉄道”ならではの強みですね。

2011年04月27日 9時00分

鹿児島市電(7)2つの操車塔。

昨年の11月13日に函館市電の「操車塔」の話しをUPしたのですが、
その時、「あそびにん」さんから「高見馬場」と、
もう一つ「郡元」にも“らしき”ものがあるとのコメントを頂いていました。

そこで今回、それを確かめに行ってきました
左側が「高見馬場」で、右側が「郡元」です。

「操車塔」と言えば、左側の「高見馬場」のタイプ、
つまり細い足の様な柱の上に操車作業を行う建屋が乗っかっている
イメージだったのですが、「郡元」のような形態のものを私は初めて見ました。
(「気付きました」が正しいかな?一度来ている訳ですし…)

正直言って、「郡元」のモノは、場所が場所なだけに「操車塔」で
間違いないと思っていますが、あまりにも“常識”と
かけ離れた形態をしており、絶対的な『自信は無い』と
ここに弁明しておきます。
理由は、何せ作業を行う場所の目線が、他の「操車塔」に比べ低いのです。
因みにネットで『「郡元」「操車塔」』で検索したのですが、
かんばしい結果は出ませんでした。
ただ、ここが今も昔も一大ジャンクションであることは間違いなく、
昭和の時代、この地に「操車塔」が無かったということは考えられません。
また、交差点にこのような建物があること自体、
それが「操車塔」である証しとも言えます。
(他の用途を思いつかない…)
よって、前言を撤回し、この2階建ての建物は「操車塔」であるというのが
私の結論です。(「回りくどい」とお叱りを受けそうですね)

2011年04月26日 18時01分

鹿児島市電(6)リトルダンサー物語。

上段の写真は、鹿児島市電の最新鋭機「7004号(ユートラムⅡ)。
平成20年に導入でメーカーは“アルナ車両”。
リトルダンサーのタイプA5です。

下段の写真は、「1012号(ユートラム)」で、平成13年導入。
メーカーは“アルナ工機”で、同じくリトルダンサーのタイプA3ですが、
こちらは日本で初めての「リトルダンサー」としても知られていますね。
当時、客室部分のフローティング構造には驚かされたとともに、
日本でもこうした『段差がリトル』な車両が作れる!のかと驚いたものです。

この2形式は、同じ『アルナ』の製品ですが、
平成14年に“アルナ工機”は“アルナ車両”となっています。
そのため余談ですが、『1000形』の
「1011号」~「1013号」までが
“アルナ工機”で、それ以降の「1019号」までが“アルナ車両”と、
同一形式の車両で、同一製造会社にも係わらず
メーカー名が異なると言う珍しい事態が発生しています。
これも時代の流れと言うか、短い期間とは言え時代の変遷を感じます。
この車両たちというか、特に『1000形』には今回、
敬意を評して乗りたかったのですが、何故か縁が無く、
一瞬、「来るまで待とうか?」と思ったものの、
この日の早起きが祟り、疲れきっていたため断念し、
早々にホテルに向かいました。
(夕食は「回転寿司」。地元の『旬』で“プチ贅沢”)

2011年04月26日 8時58分

鹿児島市電(5)分岐器(転轍機)は地上にあった!

上段の写真の分岐器は「郡元」停留所のモノ。
下段の写真の分岐器は「高見馬場」停留所のモノです。
路面区間の電車で、分岐器の転轍機が
地上に設置されている例を私は初めて見ました。

「郡元」の停留所で降り、目の前を行き交う電車たちの写真を撮ろうとして、
「えっ!!転轍機が露出している!」と、思わず何もないところで
躓(つまず)きかけました。

で、下段の写真になるのですが、その後、「高見馬場」に移動し、
そこでも転轍機を確認したところ、「やっぱり地上だ!」と驚きました。
とはいうものの、稼動部分には鋳鉄製と思しきカバーがかけられ、
前後には敷石もあって、乗客がその上を歩いても大丈夫の様には
なっていました。

路面電車とは言え、車と分離されて走る区間が多く、
また道路幅にも余裕のある鹿児島市電ならではなのかもしれません。
もしも昭和53年当時もそうであったならば、当時は、“乗る”ことが全てで、
ここまで気が回らず、そもそも路面電車の転轍器が地上にあるなどと言う
『常識外れ???』に気を向けることはありませんでした。

いやぁ、一度乗った路線も、もう一度乗って見ると
新しい発見が一杯で面白いですね。もっとも乗るだけではなく、
降りることも肝要ですね。



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プロフィール

稲見部長稲見眞一
<自己紹介>
昭和52年4月、中京テレビ放送入社。「ズームイン!!朝!」を始めとした情報番組や「ドラマ」「ドキュメンタリー」等のディレクター・プロデューサーを務めた。鉄研最終回(2010年1月29日放送)では自ら自慢の鉄道写真「俺の一枚」を持って出演。 鉄道歴は小学校5年からスタートしはや半世紀。昭和55年には当時の国鉄・私鉄(ケーブルカーを除く)を完全乗破。平成18年にはケーブルカーも完全乗破。その後も新線が開業するたびに乗りつぶしている筋金入りの“乗り鉄”。好きな鉄道は路面電車。電車に揺られながら窓外に流れる街並みを眺めているのが至福のとき。さてスジを寝かせてゆったり乗り鉄と行きましょう!