2011年02月06日 20時01分

今年も豊橋鉄道の「おでんしゃ」。

最初にお詫びです。昨年も3月2日からこのブログで
「おでんしゃ」の事を書いていますが今年も書きます。お許し下さい。

昨日(2月5日)、今年も「日本路面電車同好会名古屋支部」主催の
特発「おでんしゃ」に乗ってきました。

豊橋鉄道東田本線「駅前」発16:08、
写真の「運動公園前」折り返し「駅前」着17:21のダイヤで、
電車は昨年と同じ「3203号」。
(余談)
夏の「ビール電車」も、塗り分けは異なりますが
同じ「3203号」です。電車の“衣替え”と言ったところでしょうか?
比較する写真は昨年8月22日のこのブログをご参照ください。

参加者は30名。
「日本路面電車同好会」を中心に、
私のような「名古屋レール・アーカイブス」の会員、
「鉄道友の会」の会員の方など『鉄道の輪(和?)』が
広がってできた仲間が大集合で楽しすぎるひと時でした。

(ご注意)
電車の左に、「おでん」の提灯がぶら下がっていますが、
これは本来、車内にあるものなので、許可を得た上で
参加者の記念撮影用に外に吊りげたものです。
間違ってもこのまま走っているわけではありません。

2010年11月20日 18時08分

昭和47年の名古屋市電「花電車」。

市電の晴れ姿と言えばやはり「花電車」!!!

昭和47年10月15日の名古屋市電の「花電車」です。
撮影したのは『市立大学病院』(旧・桜山町)。
※南側の歩道橋上から桜山交差点方向を撮影。
 縦方向に走る市電を撮影するには
 歩道橋が結構便利だった。

いきなり余談ですが、私はこの停留所名が
「桜山町」から「市立大学病院」に変更になった時、
本当にガッカリしました。
確かに、ランドマークの名前(名古屋市立大学病院)を
停留所に付ける事自体は、
利用者に便宜を図る意味合いはあるのでしょうが、
あまりにも味気ないと感じていたからです。
その後、地下鉄桜通線が開業し「桜山」の名前が復活した時は
やっぱり“これでなくっちゃ”とさえ思ったほどです。

さて、この写真を撮影した昭和47年の「花電車」は
名古屋の表舞台(名古屋駅前)から消え、
それでも最後の踏ん張りを見せていたといった所でしょうか?
特に3両の電車が雁行する姿は、花電車以外では、
既になかなか見られなくなってきた時代でした。
※この時の「花電車」のスポンサーは
 撮影した写真から「日立」「三菱電機」「大須ういろ」の
 3社までは確認できました。
 電車の両サイドが同じスポンサーだったか
 それとも異なっていたかまでは判別できませんでした。

この3両の「花電車」は、当時の運行表がないため
定かではありませんが、多分、このまま南下し、
「昭和町」で折り返して「熱田神宮前」方面に向かい…、
といった風に走っていたと記憶しています。
※「花電車」の主要停留所の通過時刻は
 “新聞”に掲載されていた。
 その“新聞”を『スクラップしておけば良かった』と
 今、つくづくと感じている。
※市電の「熱田神宮前」停留所と同じ場所にあった
 市バスの停留所名は当時も「神宮東門」だったはず。何故?

●写真左側の電車は、「51」号系統(市立大学病院⇒船方)。

2010年11月20日 8時45分

昭和47年2月29日の名古屋市電。

昨夕と同じく、昭和47年2月29日の名古屋市電、
「鶴舞公園」電停です。

改めて写真を見てガッカリしたことが一つ。
この当時、この電停では安全地帯に辿り着くのに
歩道橋しか選択肢が無かったんですね。
高齢者や乳幼児を連れた方、障害のある方には
さぞかし優しくない状況だったでしょう。
当時(今もそうですが)が、如何に車優先の社会であったかが
見て取れます。
●一方で当時、私はこのように道路を横断せず
 立体交差で、歩道橋から直接安全地帯に下りるスタイルは
 もの凄く新しく、先進的でかつ安全であるとさえ
 思っていました。 
 確かにこの写真には“大都会”の香りが漂っています。
 (私だけ?そう思っているのは…)

昨今の市電(=路面電車)は
低床化などバリアフリー化が進み、
弱者に利用しやすい移動手段として、特に欧米で評価され、
日本でもその方向で進歩しつつありますが、
この時代はそのような事に思い至ることはまだまだあり得ず、
何しろ、市電に乗る際の段差に難渋する
お年寄りの姿を見ることは日常茶飯事でした。
(これは低床化されていない市電では今も見られますが…)

それはさておき、右側の1台目は1601号の
『34』号系統(東新町⇒堀田駅前)。
2台目は殆ど姿形は見えませんが
1433号の『35』号系統(東新町⇒港東通)。
左側の車両は1437号で「臨時」。
※最終日とあっての「臨時」だったと思われます。

2010年11月19日 18時16分

名古屋駅前から市電が消えた日。

昭和47年(1972年)2月29日火曜日、
この日を最後に、ついに名古屋駅前から市電が消えました。
●写真は、正にその日の名古屋駅前で撮影。

函館市電の話しを書いている時に、
「そう言えば函館の市電も随分短くなったもんだなあ」
「全線乗るのに半日がかりだったのが、1時間半あれば十分」
などなど感傷に浸りつつ
全廃された名古屋市電のことをつらつらと考えていました。

昭和47年2月29日に廃止になったのは
1)浄心~名古屋駅前~鶴舞公園
2)稲葉地~笹島
3)東新町~堀田駅前

写真は、名鉄百貨店の屋上から、
電車とその電車の左側にある「青年の像」との2ショットを
狙ったものです。
※名古屋(名古屋駅)のシンボルだった「青年の像」は
 桜通線の工事を行うため、名城公園に移設されました。
 興味のある方は一度お出かけ下さい。
 また、右手に持っている「モノ」で、
 東西南北の方角が分かるようになっていたのも思い出です。
 きっと名古屋駅にはもう戻ってこないんだろうなぁ・・・。

ところで写っている電車ですが、
「おでこ」の方向幕の両サイドの通気口、ドアガラスの真ん中に
桟(さん)が入っていることから1550形。
かつ、「サヨナラ電車」装飾であることから
1555ではなかったかと推察されます。
※トンボブックス「名古屋の市電と街並み」199頁の
 記述を参照しています。

今となっては遠い昔の話しですね。

ところで、この日は火曜日の平日ですが
私は学校をサボって撮影していたわけではなく
当時、高校卒業を控えて授業が無かったかと記憶しています。

2010年11月14日 9時01分

函館市電「十字街」の表示灯。

写真は昨日UPしたトロリーコンタクターの話しの中で書いた
「進行方向を示す表示灯」がこれです。
※この表示灯の“正式名称”は何て言うのでしょうか?
 ご存知の方は教えてください。

この表示灯は、「函館駅前」方面から「谷地頭」
「函館どつく前」方面行きに乗車した場合、
「十字街」に到着する電車の停車位置の左側、
道路を挟んだ歩道上の電柱に取り付けられています。

『系統確認』と書かれたボードの右上の表示灯が
如何にも“左”折の雰囲気がありありですが
この表示が出ているときに電車のパンタグラフが
トロリーコンタクターを叩くと
ポイントが切り替わり、
電車は「谷地頭」方面に回っていくことになります。

参考までに右側の表示灯が何となく「直線」なのが
分かっていただけますでしょうか?
この表示灯がONとなれば「函館どつく前」方面に
進むことになります。

ただそれだけのことを何故今回書いたのか?

その理由は『系統確認』と書かれたボードの
右側には、上下2段に同じ表示があります。
ところが私が見ていたのが短い時間だったので
単に私の思い込みかも知れませんが
下段の2つの表示灯は点灯しませんでした。

このブログをお読みの方でこの辺りの事情に詳しい方、
是非、コメントへの書き込みをお願いします。

2010年11月13日 17時58分

「操車塔」から「トロリーコンタクター」へ。

「操車塔」に取って代わったのが「トロリーコンタクター」と
言ってもあながち間違いではないはず。
今や全国、どこの路面電車でも見られます。
●写真は函館市電の「十字街」停留所にあるもの。
 「函館駅前」方面から「谷地頭」「函館どつく前」方面への
 分岐に使用されています。

ここの“トロコン”(以下、略させてください)の扱いですが、
電車は「十字街」到着時、左側のトロコンの更に左側に停車し、
乗降が終わると左側のトロコンをまずたたきます。
その上で、歩道上の電柱に設置された
進行方向を示す表示灯を確認し、
例えば「谷地頭」行きならば、『左折』表示がでたら
少し前に進んで右側のトロコンをたたきます。
そうすると道路信号のタイミングでポイントが切り替わり
「谷地頭」方面に進行することとなります。
(多分合っているはず)

ただそれだけのことですが、この一連の動作を見ているのは
意外と飽きません。

名古屋駅の様な大駅の複雑な信号とポイントの動きは
それはそれで魅力的ですが、間近に見ることが出来ません。
でもトロコンのシンプルさは目の前の出来事です。

函館でなくても結構ですので、
まだトロコンをちゃんと見たことが無い方は
一度観察してください。
病み付きになること請け合いです。

2010年11月13日 8時28分

「十字街」停留所に今も残る操車塔。

函館市電「十字街」停留所に今も残る『操車塔』です。

「操車塔とは?」と言って説明するのも
釈迦に説法かもしれませんが、市電の信号所にあたるもので、
分岐する路線のある停留所で
到着する電車の系統・行き先を確認しながら
ポイントの切り替えなどをしていました。
昭和の時代、日本中の至る所にあったはずです。
大体は大きな交差点の全方向が見渡せる場所に
この写真の様な「塔」がすっくと立っていました。
※今時「すっくと」という表現は死語ですね。

この「十字街」の操車塔は、昭和14年に建てられ
平成7年まで使われたのち、同年現在地に移動した上で
形態保存しているとの事。
函館市による案内板では「現存する国内最古」とされており、
私は、「国内最古」よりも「現存する」という言葉に
未だ「操車塔」が函館市電以外にもあるということが
驚きでした。それにしてもどこ?

それはそれとして、この写真を撮影している時に
思わぬ事態が…。
というほどのことでは無いかもしれませんが
「鉄」ではない観光客の方たちがこの「操車塔」の写真を
撮っているのです。勿論中高年以上の方たちで
“懐かしいね”“こんなのあったよね”という言葉とともに
でしたが…。確かに「ノスタルジー」の対象なんですね。

ところで「操車塔」で私に馴染みがあったのは
高校通学で毎日乗降していた名古屋市電の「桜山」停留所。
先週、『名古屋レール・アーカイブス』の方たちと
この「操車塔」話しをしていたのですが、
名古屋市内では、「桜山」の他に「今池」「高辻」「沢上」
「笹島」などなど“あったよね”と盛り上がりました。
※高校生の頃は「操車塔」という名称を知りませんでしたが…。

2010年11月12日 18時00分

「函館市電」と言えば、やっぱり『らっくる』号。

函館市電のエースと言えば、今や「9600型」。

アルナ車両製で純国産、日本『初』の2連接型LRVです。
まだ2編成しかないので出会えれば“めっけ物”と
思っていたら、「函館駅前」で遭遇。
とはいうものの、JR函館駅の外形写真を撮影している最中に
気がつき、あわててダッシュで「函館駅前」まで行き
交差点を回っていく「らっくる」号(「湯の川」行き)に
ギリギリで追いつきました。

よってこの写真、このサイズでは多分ばれないと思いますが
手振れを起こしておりトリミングには堪えられません。
※手振れ補正も流石に追いついていない。

ということで私はこの車両に乗っていませんので
車内の様子はわかりませんが、
平成14年に登場した部分低床電車「8101」号は
たった1両しかないにも係わらず今回、何と2度も乗っており
その経験で言いますと、特にベビーカーの乗客には
低床電車は便利な足となっていました。
ただその場合、「8101」号の乗車ドアから乗り降り
することになるため、運賃の収受は、
乗車ドアからの下車後に、運転士さんのいる降車ドアまで
乗客が移動した上で行っていました。
「らっくる」号では、その辺りは改善されたとのことで
多分、スムースに乗降が行われているものと思われます。

函館市電は、市民のみならず“観光客”の足としても
定着しており、高齢の観光客の利用も多く見られたことから
今後、9600型が増備されれば
より利用しやすい交通機関としての
ポジションを確立できると感じました。

頑張れ!!函館市電!

2010年11月12日 8時33分

函館市電で「撮り鉄」に挑戦!

写真の撮影場所は、宝来・谷地頭線の「青柳町」停留所です。
ここからは、「箱館ハイカラ號」の話しから次に移します。

丁度ここが宝来町から来ても、
谷地頭から来ても坂の頂点にあり、
SLなら“峠越え”とか言って、給気運転から
絶気運転への変わり目ということで大騒ぎするのでしょうが、
路面電車では大したことはありません。
(給気とか絶気ってこんな使い方で良かったっけ?)

ただ車両の背景を殆ど空にできる場所は、
路面電車ではあまり多くはないのでは?と、
勝手に思いながら撮影していました。
所詮コンデジで、三脚も使っていないのでこの程度で
お許し下さい。

ところで写真の716号ですが、『函館競輪場』ラッピングの
「りんりん号」です。
正面の愛嬌のある顔は、正直言って“秀逸”と思っています。

競輪場そのものは、市電で行くには
ちょっと不便な場所にありますが
以前、“日本最北”の競輪場と聞きました。

たまたま私が商業テレビ放送の会社に勤務していて
なおかつこの電車を撮影したからですが
各地のラッピング車両、実は全国規模のスポンサーではなく
ローカルのスポンサーが主体となるので地域性が見られ
面白いものが多いのです。
※7月6日にUPした長良川鉄道然り。

この「りんりん号」も、『日本最北の競輪場』の
広告ラッピングだと思うと…、どうです?
少し見方が変わりませんか?

えっ!!変わらない!そりゃそうですよね・・・。

2010年11月11日 18時00分

「箱館ハイカラ號」谷地頭近くにて。

「函館どつく前」を9:54に出た「箱館ハイカラ號」は
「駒場車庫前」着10:35。
少し時間を置いて今度は「駒場車庫前」発11:05、
「谷地頭」着11:44のスジに入ってきます。
※写真は、折り返し「谷地頭」11:53出発直後。
 (「駒場車庫前」行き)
 電車の後方に「谷地頭」停留所が見えている。

その間、私は函館駅前の「WAKO」に開館した
『北海道鉄道博物館』に行ったりしながら
11:40頃、残りの「十字街」~「谷地頭」間を乗り終え
2度目の「函館市電」完乗を果たしました。

この時間になったのは、どうせなら「ハイカラ号」の
走行写真でも撮ろうと思ったからですが、
函館市電の撮影の名所といえば「函館どつく前」方面の
『坂』と『市電』と『海』の取り合わせ。
私は“乗り鉄”のついでということで
「山」をバックにしてみました。(お手軽コースですね)

【ここで書くのも何ですが…】
日本路面電車同好会の方を始め
路面電車マニアの方には「今更」と言われそうですが
「函館どつく前」の「どつく」の「つ」は大文字で
小さい「っ」では無いんですね。
※「1日乗車券」の路線図で“大文字”だと発見しました。
 なお、電車の「行き先表示」はどうみても「小文字」に
 見えますが気のせいでしょうか?
※国土交通省鉄道局監修の「鉄道要覧」では「小文字」です。

それと以前は、「函館ドック前」だったのが
いつ平仮名に変わったんだろうとか…。
※両方とも理由は改めて書くのもなんですが、
 旧「函館ドック」の社名変更によるとのことでした。

まあ、こっちに来て改めて発見することはあるもんですね。

「箱館ハイカラ號」の話しは今回まで。
雪が溶ける来年春、ブリル台車の『39号』は
再び元気に函館の町を闊歩していると思います。
『観光鉄道』の一つの在り方として、このハイカラ号は
まだまだ目の離せない存在です。

さて、函館市電の話しはまだまだ続きます。



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プロフィール

稲見部長稲見眞一
<自己紹介>
昭和52年4月、中京テレビ放送入社。「ズームイン!!朝!」を始めとした情報番組や「ドラマ」「ドキュメンタリー」等のディレクター・プロデューサーを務めた。鉄研最終回(2010年1月29日放送)では自ら自慢の鉄道写真「俺の一枚」を持って出演。 鉄道歴は小学校5年からスタートしはや半世紀。昭和55年には当時の国鉄・私鉄(ケーブルカーを除く)を完全乗破。平成18年にはケーブルカーも完全乗破。その後も新線が開業するたびに乗りつぶしている筋金入りの“乗り鉄”。好きな鉄道は路面電車。電車に揺られながら窓外に流れる街並みを眺めているのが至福のとき。さてスジを寝かせてゆったり乗り鉄と行きましょう!