2011年05月16日 18時00分

熊本市電(5)「健軍町」電停にて。

昭和53年の「健軍町」です。
電車は左が今は無き「1053号」で、右側が今も現役の「1207号」です。
この「1207号」は後ほど奇跡の再会となります。

当時の『2系統』(今の“A系統”)は、今と同様、頻繁に運転されており、
平日7時~19時は“5~6分間隔”、
日祝の同時間帯で“6~7分間隔”となっていました。
なお、当時は今の『土曜ダイヤ』は存在しておらず、それも当然で、
『週休2日制』は昭和が50年代に入っても普及途上で、
「土曜」は「平日」であり、今の時代とは隔世の感があります。

一方、『3系統』(今の“B系統”)の「健軍町」発は昼間で
1時間に2~3本しかなく、今の1時間に5本程度とは大違いで、
ひょっとすると「交通局前」折り返しが結構あったのではなかったかと、
これを書きながら思っていますが確証はありません・・・。
※ただ折り返しがなければ、「上熊本駅前」~「辛島町」間は不便すぎる。

ところで運賃についても一言。当時は今の150円均一運賃ではなく、
整理券乗車による区間制運賃でした。運賃は『対キロ』となっており、
整理券の番号は“1~16”までとなっていました。
また、最低運賃が80円なのは分かっているのですが最高運賃がいくらなのかは
手元資料では不明です。
※平成19年の「全線150円均一運賃」実施直前の区間制運賃については、
HPで検索すれば出てくるのですが、流石にこのころの運賃は
捜しきれませんでした。

2011年05月16日 9時05分

熊本市電(4)撮影の定番、「熊本城」と「熊本市電」。

今回、熊本市電を訪問したのは3月25日で、「桜」の時期には少し早く、
この写真の“狙い”の“意図”だけご理解下さい。

要は「熊本市電」の“撮り鉄”の定番構図として、
私なりに「コンデジ」で挑戦した一枚です。
写っている電車は先回と同じ「9704号」(パト電車・ゆっぴー号)です。
撮影順としては、まずはこの写真を「通町筋」電停の
「熊本城・市役所前」側で撮影し、
「9704号」が「通町筋」電停で乗降扱いする間に一寸移動。
そして同じ「通町筋」電停の「水道町」寄りのところで
先回の写真を撮影した次第です。
先回の写真は撮ろうとは思っていなかったのですが、
「0800型」が近づいて来るのが見えたので、
日陰は承知で「超低床車」の2ショットを撮影しました。

何れも劣らぬ「撮影時期」も「撮影時間」も「天候」も何も気にしない
“乗り鉄”ならでは写真と言えますが、もしも皆様が
「熊本市電」に乗ったり、撮影されたりするときの参考になれば幸いです。

もう少し「水道町」寄りでも先の2ショットは撮影できますが、
「通町筋」「水道町」は、熊本市の一番の繁華街に位置し、
電車の乗降客も極めて多く、また道路の交通量も多いので、
この界隈の撮影時には、そうした写り込みにご注意下さい。

等と言いつつ、実は昭和53年には、「通町筋」で
乗降していないこともあり、この「熊本城」と「市電」という
写真はありません。自分で言うのも何ですが、『流石、乗り鉄』。
「もう、くどい」と言われそうですが、この写真は、一度乗っている
路線ゆえの“ゆとりの産物”と言えます。

2011年05月15日 18時51分

熊本市電(3)「超低床電車」の揃い踏み。

こちらは現在の熊本市電の主役達です。
左が「9700型(9704号)」で、
右側が「0800型(0802号)」です。
●「通町筋」~「水道町」間で撮影。
●熊本市電の形式名ですが、熊本市交通局のHPにおける「車両」の紹介が
『型』を使っているのでこの『ブログ』でもそれに合わせています。

9700型は『言わずもがな』ではありますが、
平成9年に日本で最初に導入された“超低床”電車です。
また平成10年の「ローレル賞」にも輝いた日本の路面電車史上に
残る電車といっても過言ではないでしょう。

一方、「0800型」は平成21年に運行を開始した熊本市電の最新鋭車両で、実際に乗ってみましたが中々の乗り心地で、
何より2連接の大型車両がこうして行き交うほど乗客が多く、
昭和53年当時と比べ、市電が「熊本駅」~「都心部」~「郊外
(健軍町方面)」を結ぶ基幹交通として認知され、
そして市民の足として実際に活用されていると実感しました。

ところで現在の“A系統”(「田崎橋」~「健軍町」)、
“B系統”(「上熊本駅前」~「健軍町」)という系統名が
如何かという議論はさておき、今年3月までの系統は
「2系統」「3系統」で、そもそも「1系統」廃止後も、
そのままの系統番号を使ってきたことが今回の改称に繋がっているなら、
『分かりやすさ』という面では、「1系統」欠番の系統は流石に
“よろしくない”ということでしょう。
まあ慣れの問題でしょうが、市民(利用者)に混乱は見られず、
一方、観光客はそもそもの系統名などには影響を受けないので、
まずは順調に「系統名」の変更が行われたようです。
系統数が多いと、きっとこうはなっていないのでしょうね。

2011年05月15日 8時30分

熊本市電(2)昭和53年の熊本駅前。

昭和53年の「熊本駅」と熊本市電「1351号」です。
「1351号」は当時、ラッピング電車でしたが、今は?

(昭和53年1月29日の足跡)

1)「水道町」発10:44~「健軍町」着11:05
 ◆『2号系統』(今の『A系統』)に乗車。
 *水前寺線(「水道町」~「水前寺公園」)
 *健軍線(「水前寺公園」~「健軍町」)

2)「健軍町」発11:15~「上熊本駅前」着11:54
 ◆『3号系統』(今の『B系統』)に乗車。
 *幹線(の内、「水道町」~「辛島町」)
 *上熊本線(「辛島町」~「上熊本駅前」)

3)「水道町」発13:12~「田崎橋」着13:34
 ◆『2号系統』(今の『A系統』)に乗車。
 *幹線(の内、「辛島町」~「田崎橋」)

●「田崎橋」から熊本駅へは徒歩で戻り。

ということで、2路線を途中「熊本電鉄」の“菊池線”乗車を
挟んでいますが、単に「熊本市電」だけなら2時間もあれば
十分全線踏破できる規模でした。

記憶間違いでなければ、私が乗車した当時の「熊本市電」は“風前の灯”で、
『廃止』か『存続』かで、町が随分揺れていたのでは?
最終的に、どういう経緯で存続が決まったかまでは知り得ませんが、
当時、実際に乗った時のことを思い出そうとしているのですが、
何せうろ覚えで…。ただ「バス交通網」は充実していたような気が…。
市電は、市内交通の“主役”“基軸”どころか“崖っぷち”で
喘いでいました。

今回の写真は、そのように意識して撮影したわけではありませんが、
熊本県(熊本市)の中央駅の前を行く姿ながら、
『都市交通』の主役どころか『取って付けた』感すらあります。
でも、どうしてそんな感想を持ってしまったのかという
合理的な説明が出来ない私がいます。

2011年05月14日 21時22分

熊本市電(1)平成の熊本駅。

平成23年3月25日、昭和53年1月29日以来、
33年振りに「熊本駅」に降り立ちました。
●昭和53年の「熊本駅」は次回UPします。

熊本駅も随分変わったという印象を持ちましたが、
熊本市役所のHPによれば『平成3年』に“改築”とありましたから、
以前の駅舎をベースにしているということでしょうか?

一方、熊本市電の電停は大きく様変わりしています。
熊本県庁のHPを参考にこの項を書いていますが、
「熊本駅前」~「田崎橋」間は、昨年の4月26日から
市電を車道の中央部から西側の歩道に寄せて走行させる
『サイドリザベーション』が行われており、それに合わせて電停周りも
新しくなっており、どうせなら平成21年に登場した『0800型』とまでは
言わないものの、『9700型』が来るまで“待てば良かった”等と
思っています。
ところで写っている電車ですが、車体側面しか見えていないため
「車体番号」が特定できないのですが、窓枠の形状から
『1090型』『1200型』『1350型』の1両ずつの写真を
「Wikipedia」で探してみました。
その結果、熊本市電標準色で車体側面に『番号』が無いものでは
『1201』があったのですが、窓上の緑色の帯の位置が
若干異なる印象があり、一方で中扉の戸袋窓の形状は
『1090型』とは言い難く、さあ正解は?といった所です。

とは言うものの(唐突ですが)、今回、熊本市電で乗ったのは、
「辛島町」~「水前寺公園」間のみで、その区間も特に目的が
あったわけではありません。
名古屋を出た時は、鹿児島で1泊したあと、熊本電鉄・熊本市電を楽しみ、
そのまま出来れば「みずほ」に乗車して帰るつもりでした。
ところが…。何故か突然もう1泊して島原鉄道と長崎電軌に乗りたくなり、
結局、熊本市電は随分消化不良のまま、近い将来の『再来』を期し、
ほんの1時間半程度の再会でした。

2011年05月01日 18時53分

鹿児島市電(12)夕刻の上町線・清水町。

鹿児島市電の最後は、国道10号線を走っていた「上町線」の終点、
昭和53年1月31日の「清水町」界隈です。
●線路の続いていった先、『山』の手前にポツンと電車がいるのが
分かりますでしょうか?そこが「清水町」です。

いくら日本でも西の方にあるとはいっても、さすがに1月。
午後5時過ぎにここ「清水町」で撮影した写真がこの日の最後となり、
「伊敷町」では、写真を撮影できませんでした。

当時、この写真からは見てとれませんが「清水町」も、
国道3号線にあった「伊敷町」も渋滞が酷くて廃止せざるを
得なかったとのことです。
※「伊敷町」周辺は確かに混んでいた気もする・・・。

それにしても廃止路線の沿線に今も住んでいる方たちは、
鹿児島市電の現在をどう思っているのでしょうか?
少々気になっています。

一趣味者の意見で恐縮ですが、公共交通の整備は、
正解のない永遠の課題なのでしょう。

2011年05月01日 8時07分

鹿児島市電(11)昭和53年の「電車のりかえ乗車券」。

昭和53年当時の「電車のりかえ乗車券
(以下、「のりかえ券」と書きます)です。
当時のことを思い出しながら書いていますので、
もしもこれから書いてあることにミス等があればご指摘ください。

まず「のりかえ券」は現金で乗車し、かつ目的の停留所が、
乗車した“系統”では通らない場合に、
2重で運賃を支払わなくてもよいシステムです。
名古屋市電では無かったはずですが、
全国的にはよくあるシステムですね。

右端の数字は、「乗換日付」で、『31日』に乗車したことを示しています。
ささやかかも知れませんが“不正防止”の手段でしょう。
上から、「1系統」からの「のりかえ券」、
「2系統」からの「のりかえ券」、
「3系統」からの「のりかえ券」となっています。

「1系統」では、当たり前ですが『郡元』『高見馬場』『市役所前』が
“乗り換え”のための指定停留所であることが
券面の『降車有効区間』から見てとれます。
以下、各系統別の「のりかえ券」も同じと思ってください。

今もこの「のりかえ券」のシステムは残っており、
鹿児島市交通局のHPにその詳細が出ています。それを見る限り、
運用方法は変わっていません。

さて現在のデザインですが・・・、
今回は「のりかえ券」はもらいませんでした。
多分、あまり変わっていないでしょう。

2011年04月29日 18時24分

鹿児島市電(10)昭和53年の路線図。

昭和53年の路線図です。電車内に掲示してあった物のため、
ピントが甘く、少しぶれているのはお許しください。
青色の線が「1系統」、黄色の線が「2系統」、赤色の線が「3系統」です。

ここで昭和53年1月31日の足跡です。
1)1系統「谷山」発16:14~「鹿児島駅前」着16:54
●谷山線「谷山」~「武之橋」、第一期線「武之橋」~「鹿児島駅前」。
●鹿児島駅前から清水町まで歩いて移動。

2)2系統「清水町」発17:19~「郡元」着17:55
●上町線「清水町」~「市役所前」、
 第二期線「高見馬場」~「西鹿児島駅前」(ここから唐湊線)~「郡元」。
●郡元発18:00の「1系統」に乗り継ぎ、高見馬場着18:16。

3)3系統「高見馬場」発18:24~「伊敷町」着18:47
●新規乗車区間は伊敷線「加治屋町」~「伊敷町」。
以上で、当時の鹿児島市電を完乗しました。たった4本の電車の旅でした。

その後、上町線(市役所前~清水町)・伊敷線(加治屋町~伊敷町)は
昭和60年に廃止になり、
「2系統」の起点(終点)は清水町から鹿児島駅前に移り、
「3系統」は無くなってしまいましたが、
その当時、市電の衰退は“当然”の様に考えられていた時代で、
今の鹿児島市電の『隆盛』は想像だにできませんでした。
というか、昭和60年当時、これ以上、短くならないでほしいと
切に願ったものです。

最近の鹿児島市交通局の「電車事業」収支は、ほぼ毎年黒字の堅調ぶりで、
電車のスピードも速く、自動車交通との分離もあって
定時性も確保されており、話しは飛躍しますが、
これが何故岐阜で出来なかったのかと思ってしまいます。

2011年04月29日 8時00分

鹿児島市電(9)「鹿児島駅前」停留所の今昔(2)。

平成の時代も、昭和の時代も変わらぬ「鹿児島駅前」停留所の
ダブルクロッシングです。

違いは、軌道敷きが現代は緑化されており、以前が敷石かであったこと。
そしてクロスの位置が、上の写真で言えば、
昭和の時代から少し次停留所方面に移動していると思われます。

『軌道敷緑化』と『センターポール』は
「鹿児島市電」の専売特許と言いたくなるほどですが、
その素晴らしさは私が改めて言うまでもなく、皆様、ご承知の通りですね。
特に、街中だけではなく、このほぼ「専用線」とも言えるこの場所における、
“緑の中のクロッシング”の造形美には惚れ惚れとしてしまいました。

ここで初告白ですが、私が小学生低学年の頃、
日常的に乗っていた名古屋市電や名鉄の「新名古屋」~「鳴海」間で、ダブルクロッシングを見かけた記憶がなく、
少し大きくなってその存在を初めて知った時、何故かそれは私の中で
『大鉄道』(国私鉄を問わず)の象徴の様に感じ、
それを持つ鉄道に“憧れ”を抱くほどでした。
(大袈裟ではなく、本当です)

更に年を重ね「鉄道」に本格的に興味を持ち始めた
高校生位だったでしょうか、
多分、皆様の中にもいるのではと思うのですが、『仮想鉄道』を作って、
ダイヤを考えたり全駅の配線図を作ったりしていました。
そしてそこには必ず『ダブルクロッシング』がありました。
ただ、その時使っていたノートは今、手元にありません。
もっともあったとしても家族には絶対に見せられません。

話しを戻して、“クロス”の位置が移動したかも?ですが、
下段写真の「815号(現、9511号)」の左側にある『建屋』と
同一と思われる建物が、上段写真の「1013号」の左側に見えるからです。
※この建物は、ひょっとしたら「塔」はないものの
「操車を行う信号扱い所」のような気もしています。

2011年04月27日 18時14分

鹿児島市電(8)「鹿児島駅前」停留所の今昔。

「鹿児島駅前」停留所の今昔です。
上段が現在のモノで、3線4面の堂々たるターミナルです。
下段が昭和53年の姿で、規模は現在より小さく、2線2面。
屋根のない吹きさらしですが、鹿児島のシンボル、
「桜島」を背景に写真を撮影でき、乗客サービスの面を除けば、
こちらの方が、『鹿児島』らしいとも言えます。

ところで現在の「鹿児島駅前」停留所ですが、
「1系統」(鹿児島駅前~交通局前~谷山)と
「2系統」(鹿児島駅前~鹿児島中央駅前~郡元)の
2系統が折り返すのですが、何せ両系統とも本数が多く、
構内は常時満線状態。そのため折り返し電車の出発を待つため、
停留所の手前で数分程度待たされることは日常茶飯事のようです。(運転士さんに聞きました)
実は私の乗っていた電車もそうでしたが、1台前の電車もしばし待たされ、
徐(おもむろ)にクロッシングを渡って行きました。
まあ、気の短い人は停留所を前に、イラつくかもしれませんが、
鹿児島の人はきっと大らかなのでしょう。
「私は…、」と言うと、停留所への入線前、
運転士さんが進行方向左側の線路際に設置された
「信号ボックス」の様なもののスイッチを、手を伸ばして操作しており、
それが気になって、「もう少し止まっててほしい」等と
不謹慎なことを思っていました。
多分、入線する線路の選択を手動で行っていたのではと推察しています。
●運転士兼信号操作係?と言った感じ・・・。
 どこのホームに電車を入れるかは特に決まっていない様でした。

ところで下段写真の「613号」は、昭和37年『帝国車両工業』製で、
今も鹿児島の街を走っています。もうすぐ50歳を迎えますが、
これだけの齢を重ねても現役でいられるのは“鉄道”ならではの強みですね。



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プロフィール

稲見部長稲見眞一
<自己紹介>
昭和52年4月、中京テレビ放送入社。「ズームイン!!朝!」を始めとした情報番組や「ドラマ」「ドキュメンタリー」等のディレクター・プロデューサーを務めた。鉄研最終回(2010年1月29日放送)では自ら自慢の鉄道写真「俺の一枚」を持って出演。 鉄道歴は小学校5年からスタートしはや半世紀。昭和55年には当時の国鉄・私鉄(ケーブルカーを除く)を完全乗破。平成18年にはケーブルカーも完全乗破。その後も新線が開業するたびに乗りつぶしている筋金入りの“乗り鉄”。好きな鉄道は路面電車。電車に揺られながら窓外に流れる街並みを眺めているのが至福のとき。さてスジを寝かせてゆったり乗り鉄と行きましょう!