9月11日の「瀬戸大橋塔頂体験」。午後に乗船した船からの写真で少し解説。
左側が南備讃瀬戸大橋で右側が北備讃瀬戸大橋。その北備讃瀬戸大橋の右側の橋脚に登りました。
話は戻って宇多津から与島までまずはバスで移動。瀬戸大橋が見え始めたところでワクワク。
どの橋脚に登るかはこの時点では実はまだ良く分かっていない。
これが何かと言えばスマートフォンなどの携帯電話を入れる首からぶら下げるタイプのカバー。登る際には両手を空けておくのが条件で、かつ眼鏡・カメラを含め首から提げられるようにしなければなりません。私はネックストラップにスマホを付け、かつポケットに入れて動いたのですが、そこは時代なのでしょうか、ちゃんとこんなストラップタイプのカバーが希望者に貸し出されていました。
ここから本州四国連絡高速道路の担当者の案内でいよいよ登頂開始です。
鼻面が並ぶ高松駅。
オレンジ色が一瞬台湾新幹線をイメージさせた。
まあそんな気がしただけで、こういうのはあまり現実的に想像しないほうが良さそうです。
駅構内で見かけた「四国の新幹線実現を目指して」の看板。瀬戸大橋は、将来の新幹線開業対応をしていることを知っている方もいるかと思いますが、今もこうして看板が掲げられているのは知りませんでした。
そういえば「四国新幹線」と「四国横断新幹線」と2つの構想があり、瀬戸大橋の新幹線対応は「四国横断新幹線」といことを地元以外の人で知る人は少ないような気がします。さて今後、どうなるのでしょう。
高松発8:57の「南風リレー号」に乗車。名前の付いている列車ですが各駅停車です。
この電車で集合場所の宇多津駅に向かいます。
このツアーは宇多津集合で高松解散と、高松集合で宇多津解散の2コースがあり、私が選んだのは宇多津集合。このコースには高松~宇多津間の乗車券が付いており、普段は見ないタイプだけに一寸得した気分。
平成28年9月11日の旅。
JR四国の『上から下から瀬戸大橋を楽しむ旅「瀬戸内クルーズ&瀬戸大橋塔頂体験」』です。そうっ!瀬戸大橋の橋脚の天辺(てっぺん.頂き)に今日は上がるのです。
スタートは高松駅。
広告を募集する看板。「元気な花を咲かせましょ(ハート)」はなかなか秀逸。こういうのは好きです。
9番線まであるホームに改めてここが四国の玄関口を実感。
特急「いしづち3号」松山行き。8000系電車は当り前ですが名古屋では見かけませんので興味津々。
7000系も撮影してみる。
名古屋駅で近郊電車を撮影することはまずありませんが場所が変われば話は別です。
それにしても昭和50年代はもっと長い編成の列車が走っていたと思うのですが、一方、これほど本数はなかったような気もします。
昭和53年(1978年)4月13日。高松発4:08の客車列車121レに揺られ松山に向かったのをふと思い出す。こういう話は若い人には受けないだろうなあ。
仏生山に出掛けたのは、車庫見学が目的ではありません。
駅から徒歩10分弱のところにある仏生山温泉。6月11日~12日の北海道の旅で同行だった「温泉通」さんから、高松に行くのなら日帰り温泉「仏生山温泉」があるよと聞き、その言葉に従ったのです。夕方とあってか地元のお客さんで一杯。流行っていました。夏場だからでしょうか源泉そのままというぬるめのお湯。これがまたよし。
今回の高松の宿。久しぶりの畳。こうした和室の良い点は荷物を広げられることと部屋が明るいこと。寛げます。日本人だねえ。
でも時代は今や電気なくして旅は出来ない時代。ということでこんな延長コードあり。ありがたいサービスでした。
夕食は宿の近くの居酒屋さんで日替わり定食。私のような1人で旅する者にとってはビールを一杯飲んで丁度良い感じ。但し、地元色はありません。私のようにそれほど郷土料理に拘らない人もいるでしょうからきっと需要はあると思います。
これも旅の思い出。
中京テレビの移転先である旧笹島駅。
貨物駅の跡地利用ということで、名古屋駅の貨物駅から独立して正式に「笹島駅」として開業した頃の図面。
東海道本線と関西本線に挟まれた場所にその威容を誇りました。(図面所蔵:高橋敬子氏)
その名残りとも言える線路が今も愛知大学と新幹線の高架との間にひりと残っています。
この線路は上の図面には記載が無く、一方、Google マップの航空写真ではこの先に転車台らしきものの跡があるのが確認できます。恐らくは貨車をホームからホームに転線させるために使っていたと思われますが、これも廃線跡巡りの妙味と言えそうです。
こちらは東海道本線・中央本線の高架下にある通路。笹島駅の開業当時、自動車ではなくまだまだ荷馬車が主役だった時代の名残りとのこと。
この美しいうろこ状の遺構の存在を知る人は少ないものの、これを見た人は一様に驚きを隠しませんでした。勿論私もその1人です。
1986年(昭和61年)に廃止された笹島駅。11月中旬からこの地に毎日通うようになるので、何かまた発見できたらこのブログで報告したいと思っています。
本社移転もあって、以前使っていたフィルムカメラもお出ましです。
主にニュースの取材用に使っていたもので、これらのカメラでは16ミリのフィルムで100フィート(約30メートル)の長さのポジフィルムを使っており、ASA100のものが主で、時々比較的暗い現場に出る時はASA400のフィルムを使っていました。
1秒24コマで撮影できる時間は3分弱。この2つの機種では音が入らず、隔世の感ありですね。
キャノンスクーピック。扱いやすいカメラで事件・事故の現場等で、機動性を重視して三脚を使わない時はほぼこのカメラを持ち出しました。私が左目を開けているのは、現場で周りの様子を見るために、時々は左目を開けて確認していたことを再現しているものです。
こちらはベルハウエルDR。ズームレンズではなく3本のレンズをくるくる廻して使うタイプ。しかもぜんまい駆動でバッテリー不要です。
また1眼レフではないため、レンズに書いてある1mとかそういう距離を感覚的に合わせて撮影しており、使い始めた頃は何度か「ピンボケ」で使い物にならない映像を撮影していました。(恥)
※正確に言うと、レンズを通してピントを合わせる機能は付いているのですが、それを使うには結構な時間がかかり、現場ではそれをしている余裕もなく、使い方は知っているが殆ど使うことに無い機能で、三脚を使いきっちりした絵を撮る時限定でした。
さて左目でファインダーを覗いていますが、これがDRの流儀。おでこにカメラ本体をつけ、安定させて手ブレを防ぐための手段です。
この2種類のカメラは確か昭和50年代まででその役目を終えており、今回は久しぶりにその感覚を味わいました。
一寸鉄道から離れます。
中京テレビの本社は来月(11月)21日、名古屋駅地区ささしまライブ24に移転します。今の昭和区高峯町の地で過ごす時間もあと僅か。現本社で一番大きいスタジオ/Bスタジオで制作する番組は既に笹島の新社屋で制作されており、Bスタジオは今はこんな感じになっています。何も無い。
僕らはここで生きてきた。
もう使わない壁面(ホリゾント)にはスタッフが描いたチュウキョ~くんがいるだけではなく、スタッフや出演者が思い出を書いています。
恩田アナウンサーのデビューは1990年4月25日放送の「ルックルックこんにちは」のアシスタント。入社して直ぐで、テレビ初登場が全国ネットの生放送でした。いつもの「ルックルックこんにちは」なら日本テレビの女性アナウンサーの担当なのですが、名古屋に来られないということで、だったら「うちの新人アナウンサーでどうですか?」と日本テレビのプロデューサーに提案をしたら一発OK。偶然の産物でした。
その時の台本。私は中京テレビのプロデューサーでした。
こちらはサブ(サブコントロールルーム・副調整室)。この真ん中がディレクターの座る席で、複数台のカメラの映像の切替を始め、映像・音声・照明に関する全てのコントロールを行うところです。
喜びも悲しみも幾歳月。その映画ほどのことは無かったものの、私にとってはこちらも思い出が一杯です。新人ディレクターの頃は本番前から心臓バクバクで、VTR収録であれ生放送であれ、いつも本番はあっと言う間の出来事でした。
こちらはBスタジオではなくAスタジオ(Aサブ)での本番中。1981年(昭和56年)7月2日の日付けがあるので「6時のNEWS」という夕方ワイドニュースの本番中の写真と思われますが、この写真は数年前に技術スタッフの方から貰ったもので、そもそも写された記憶がありませんでした。参考までに私の左側の方が技術の責任者で、カメラの切替を行うスイッチャー。右側の女性はタイムキーパーで時間の管理を行う担当です。更にこの右側に音声さん(出演者やVTR、音楽等の音関係の担当)の居場所です。
このAスタジオもお別れです。