女川に12:49に到着し、出発は14:59。時間的にあまりゆとりを作っていなかったので今回は駅前周辺+女川温泉ゆぽっぽでノンビリしようと最初から予定をしていました。
そのゆぽっぽの靴箱の鍵。秋刀魚です。長良川沿いの施設だったら鮎となるのでしょうか?地元の秋刀魚愛を感じます。(ここは敢えてサンマを漢字で書いています)
施設に入ったところにあった手書きの「石巻日日新聞」。このブログでその記事の内容は書きませんが、メディアに携わるものの矜持(きょうじ)を確実に汲み取ることが出来ます。読者(住民)の方たちに活字での新聞が届けられない中、どんな形であれ住民に情報を届けようとする姿勢と、一方で被災者の方たちがこれをどんな気持ちで読んだかを推し量りながら私はこの新聞を読みました。女川に行くチャンスがあれば、是非ゆぽっぽで温泉に入り、そしてこの新聞を読んで欲しいと思っています。
女川駅に停車中の13:20発小牛田行き。私が乗ってきた列車の折り返しです。駅の周りは復興途上。
駅を出て少し行ったところ。
ここ女川トンネルの入り口まで津波の影響があったとは信じられないことですが、海際からここまで歩くと多少の標高があっても津波が思った以上に陸地を駆け上がって行ったことが良く分かります。
本日(3月17日)、天皇・皇后両陛下が女川町をご訪問され、町民の方たちと触れ合われるご様子をニュースで見ました。後述のシーパルピアを歩かれるお姿には本当に感動し、これをきっかけに女川に多くの人が訪れ、復興が更に進むことを願って止みません。
さて平成25年の9月28日。
浦宿駅から代行バスに乗り女川の町に到着。1時間半ほどの滞在時間の中で、かつては街並みがあった場所を歩きました。
女川町地域医療センターから港方面の俯瞰。
少し内陸側に目を移すとそこには震災遺構として保存することになった「女川交番」。(⇒の場所にあります)
この2月19日に撮影した「女川交番」。その隠れ具合から盛土されたこのエリアを感じることが出来ます。
平成25年に戻って「新」女川駅のある辺り。今は復興工事が進んでおり、町の様子が変わっています。
さて「新」女川駅に戻ります。駅前は整備が進んでおり、3月26日(土)には「女川町復興祭」が開催されるというとこで、当日は多くの人たちで賑わうことでしょう。また多くの人に是非、足を運んで欲しいという思いもあります。
駅舎3階の展望フロアから見た女川の街。プロムナード(遊歩道)が整備され、今見えているのはテナント型の商業施設「シーパルピア女川」(昨年の12月23日にオープン)。様々な店があり、観光バスが到着すると人が行き交って良い感じ。
幟(のぼり)には「START! ONAGAW」「あたらしいスタートが世界一生まれる町へ。」と書かれており、復興への町の意気込みを感じさせます。
女川名物「さんまパン」。さんまの香りはあまりないものの噛んでいると口の中で少しだけ海が広がります。賞味期限が意外と長く、家に持ち帰るつもりで買ったものの、東京に到着する前に私のお腹に納まってしまいました。
野蒜駅で待つこと暫し。
11:21発の上り快速仙台行きが先に到着。
それから下りの11:21発石巻行きが入線です。
野蒜を出て新線区間を走ります。かつての仙石線はちょうどこの写真の辺りを通っていたと思われます。
鳴瀬川橋梁が見えてきました。この成瀬川は、津波で建物ごと流されたご夫妻が、川を逆流する津波に7キロも流されつつ九死に一生を得た場所で、その時JRのこの橋にもぶつかったとのことで、そのお話しをご本人の口から聞きつつ津波の力の強さを感じていました。
もっとも今は穏やかな風景の中に、2001年土木学会デザイン賞を受賞したフィンバック形式(この形をそう言うそうです)の美しい橋がそこにあるだけです。
昨年5月まで石巻との間でキハ110形が役目を果たしていた陸前小野。
平成25年9月28日時点では、復旧工事は進められていたものの、まだまだ先の見えない状況が続いていました。
陸前大塚~鳴瀬川橋梁(陸前小野の手前にある)の間は高台に移設されています。
この写真は陸前大塚を出て少し走った先の地点。
以前は眼下の風景の中に仙石線はあったはずです。
野蒜で下車。ここで後続の11:21発の石巻行きに乗りかえています。その目的は高台移転で駅前の整備をしているとのことでしたのでそれを見る為。
ホームから駅舎に向かう階段から見た野蒜の街方面。かつての状況を知らない私が軽々に語るのは憚られますのでここは実景写真ということで。
現在の野蒜駅。駅前では復興工事が行われています。
かつての野蒜駅(平成25年撮影)。当時は現東松島市の施設「奥松島観光情報センター」と併設されており、今は1階にコンビニが入っているそうです。
信号で一時停止して仙石線に入ります。
ここからは旧宮城電気鉄道が作った路線で電気は東北本線の交流から直流に変わりますが、ハイブリッド気動車は何事も無くそのまま進みます。ただ電化された路線を繋ぐ線路上に架線が無いのは不思議な感じ。
仙石線に入り高城町を目指します。
高城町駅は東日本大震災の被災後、平成23年の5月28日にあおば通と繋がりました。そしてこの先、陸前小野まで開通したのは去年の5月30日でそれほど以前の話しではありません。
平成25年9月28日の高城町駅。
この頃の代行バスは松島海岸~矢本間で運転されていましたが、石巻から仙石線に乗った私は矢本ではなく、列車の仮終点であった陸前小野で乗り換え、また松島海岸まで行かずに手前の高城町で電車に乗り換えています。その時、右側に停車中である電車の先端の真下まで草が生え、所謂終点の駅でもそこまでも荒れることは無かろうと思いつつ、それを刈るよりもまずは不通区間を減らすことに注力するのは当然の帰結と感じていました。
平成23年(2011年)3月11日金曜日。正に5年前の今日、東日本大震災が発生しました。その被害についてであったり復興についてはなかなか語りつくせるものではありませんが、5年という節目に辺り私としては3度目となる被災地訪問をしました。
最初は平成25年(2013年)9月に東松島市~南三陸町~石巻市~女川町~常磐線を訪ね、2度目は平成26年(2014年)5月末に久慈市~宮古市~釜石市~大船渡市と廻りました。平成25年の時はメディアの一員として地元新聞社の協力の下、実際に被害に会われた方達の生の声を聞く機会もあり、東日本大震災を「忘れない」、そして私が見聞きした経験をどう役立てていくかを考えていくことは、個人の趣味のブログとはいえ会社の公式サイトで書いている者としての役割と思っています。今回行けたのは時間の関係で仙石東北ライン~石巻線だけではありますが暫しお付き合い下さい。
平成28年(2016年)2月19日。昨年の5月30日に開通した仙石東北ラインからスタートです。震災の復興事業として東北本線と仙石線を短絡線で結び、仙台と石巻方面の速達化で注目されたこの線ですが、写真のハイブリッド気動車が誕生時に比べ格段の進歩を遂げたことがこの線の実現に大きな後押しとなったと聞いています。
*仙台駅発10:14
*野蒜着10:53
電車に乗って直ぐに目に飛び込んできた「津波警報が発表された場合のお願い」「津波警報発表時に車外に出る場合」。思わず目を凝らして読んでしまいました。今は日本語だけですが、将来的には英語等の他言語での表記もあると良いですね。
10:40頃上りの仙石東北ラインの快速5526Dとすれ違い。
今から6年前の平成22年(2010年)12月6日に「HB-E300系」の『リゾートしらかみ2号』、昨年の6月14日に同じく『リゾートビューふるさと』に乗っているのでハイブリッド気動車に乗る“感覚”は掴んでいつもりでしたが、交流~直流区間という異なる方式の電化区間を直通するのにこの気動車を使うということは、発想の展開という意味で良い選択肢が増えたと感じました。
塩釜駅を出て直ぐに分岐があるのかと思いきや結構走って松島駅まであと一歩という地点で仙石線に入ります。
実にゆっくりと転線。
直ぐに仙石線が近づいてきました。たったこれだけというのは簡単ですが、大きな意味のある新線区間です。