2015年04月26日 21時14分

私的昭和の鉄道/新潟の国鉄(2)赤谷線。

東赤谷

昭和58年(1983年)5月9日。この日は朝一番で弥彦線の「東三条」~「越後長沢」間(昭和60年廃止)に乗り、その後赤谷線を目指しました。(新発田発8:16、東赤谷着8:55)

1978_05_09赤谷線

赤谷線の終点「東赤谷」。昭和59年(1984年)に廃止となったこの線は、鉱山からの貨物輸送のための鉄道で当時の鉄道ファンの間でも1点を除いて地味な存在だったと思います。

1978_05_09赤谷線3その1点とは…。この写真は車内から撮影した東赤谷駅ですが、列車と駅舎の位置関係に注目して下さい。

1978_05_09赤谷線4

車内から見た駅の端っこ。駅員さんがポイント操作をしています。

1978_05_09赤谷線2

実は国鉄駅にあって唯一のスイッチバックの終着駅で、新発田から来た列車は急勾配を登りつめて一旦引き上げ線に入り、そこからバックで平坦な“駅”に入線する形態となっていました。同様形態の駅としては、長野電鉄のかっての湯田中駅が有名でした。

東赤谷発行東赤谷駅は有人駅で、こうして硬券を売っていましたが380円でどこまで乗れたのでしょうか?

一応次の目的地は「新潟」で、この後一昨日にUPした新潟交通に乗車しています。

2015年04月25日 22時37分

私的昭和の鉄道/新潟の国鉄(1)魚沼線。

 

話しが前後しますが、昭和53年(1978円年)5月7日~10日の乗りつぶしの乗車券です。

周遊券ではなく手書きの普通乗車券です。

名古屋~新津乗車券この区間は通常であれば名古屋~長野~信越本線経由~新津で、多分これは普通の硬券乗車券があったと思うのですが、飯山線経由だったので手書きになったのでしょう。

五泉~西小千谷

そして蒲原鉄道に乗車後、一旦新潟に出て越後線経由で柏崎に向かい、そここら来迎寺まで信越本線で戻り、そして魚沼線に乗りに行きました。そのためか経路を特定するに当たり「亀田」(信越本線)、「東柏崎」(越後線)の記載があるのですが、変則的な経路の乗車券の発行は駅員さんのお手数をおかけしているわけですが、今こうして見てみればなかなか楽しくもあります。

1978_05_08~魚沼線

昭和53年(1978年)5月8日、枝線である魚沼線の終点「西小千谷駅」です。(来迎寺発17:06、西小千谷着17:31)

1978_05_08~魚沼線2

この路線は大河である信濃川を挟んでいるとはいえ上越線と並行していたためか、国鉄再建法による第1次特定地方交通線として昭和59年(1984年)に廃止されたのも頷ける状況でした。

2015年04月24日 23時36分

私的昭和の鉄道/新潟の私鉄(2)新潟交通。

新潟市内といえば路面を走っていた新潟交通。2度の区間廃止を行ったものの最終的に平成11年(1999年)に全廃されました。

その新潟交通に乗ったのは蒲原鉄道に乗った翌5月9日。

1978_05_09新潟交通2

新潟市内の終点「県庁前駅」に停車中の電車。この日は県庁前(後に県庁が移転し「白山前」に改称)を11:49に出る電車に乗り「燕」を目指しました。もっともこの電車がその乗った電車かどうかは記憶の外です。(すいません)

1978_05_09新潟交通

駅舎を正面から捉えるとこんな感じ。重厚なその佇まいは美しくさえあります。

1978_05_09新潟交通3

表情に特徴のある顔立ちは愛嬌があります。

1978_05_09新潟交通5

路面区間はそれほど長くは無かったと思いますが、今も残る“電車”の走る単線風景は熊本電鉄くらいでしょうか?

1978_05_09新潟交通6

県庁前~東関屋間が禁煙ですが、軌道区間が禁煙はともかくそれ以外の区間が喫煙というのも驚きでした。

新潟交通新潟交通の車内券。車内乗車券の収集は旅の楽しみの一つでした。

 

2015年04月23日 20時14分

私的昭和の鉄道/新潟の私鉄(1)蒲原鉄道。

新潟県にかってあった蒲原鉄道と言っても、一部の方を除いて多分「どこ?」といった感じでしょう。 1978_05_08蒲原鉄道005 信越本線の「加茂駅」と磐越西線の「五泉駅」を結んでいた典型的なローカル私鉄で、昭和60年(1985年)に「加茂」~「村松」間が廃止され、その後平成11年(1999年)に残っていた「村松」~「五泉」間が廃止されました。 乗りつぶしノート JPEG (84) 私はこの線を昭和53年(1978年)5月7日に乗っており、名古屋から809D急行「きそ4号」に乗車し、長野から飯山線経由で新潟入りし、加茂11:05発の電車で五泉に向かいました。 1978_05_08蒲原鉄道001 加茂駅の風景。場所を確実に特定しているのは改札上にある発車時刻表で確認できるこの駅だけです。1978_05_08蒲原鉄道007 車庫があるので恐らく村松駅。バスが良い感じ。 1978_05_08蒲原鉄道010 多分、五泉駅。 新潟県には2010年3月にこのブログでUPした越後交通といった私好みの私鉄や国鉄でも赤谷線のような存在もあり、乗りつぶしの醍醐味を味わっていました。今や昔の思い出です。

最後は使用した乗車券と記念で買った車内乗車券。

蒲原鉄道

2015年04月22日 20時06分

私的昭和の鉄道/九州(5)筑豊本線と伊万里駅。

1971年(昭和46年)3月22日~27日の間、同級生とともに人生初九州上陸!

M2-3_15

鉄分少な目とはいえそこはそれで気の良い友人はそれなりに付き合ってくれており、実はそれから45年の月日が流れていますが彼とは今も親交があります。

さて3月23日、鹿児島本線折尾駅に夜行の急行「西海2号」から降りたち、その後何故か筑豊本線の若松行きにのり、二島駅で折り返しています。そして二島駅に停車中だったD50205の運転士さんが運転台にあげてくれ記念写真を撮影。(友人の写真もあり)その割りに肝心の編成写真は撮っていません。

M2-3_21

3月24日は宿泊したユースホステルの最寄り駅「虹ノ松原」から525D(博多発伊万里行き)に乗り、伊万里に9:16に到着。そこから10:15に出る松浦線の急行1501D「平戸」への乗換え待ちの間に貨物を撮影。ただ当時は蒸気機関車だから、8620形だからと気負って撮影していたとは思えず、そこにいた列車にカメラを向けていたと思います。

M2-3_22

48647の牽く貨物列車はどうやら長時間停車していたようで何と3枚もの写真が残っています。

M2-3_23

ただ個人的にはこの写真が一番好きです。

ということで私的昭和の鉄道/九州編は何とたった5回で終了。これまでにUPしている写真があるからですが、そもそも写真撮影に熱心ではなく、ちゃんと撮るようになったのは社会人になってからで、しかもデジタルカメラが出てきてからと言っても過言ではありません。

2015年04月21日 20時03分

私的昭和の鉄道/九州(4)北九州の路面電車。

室木線に乗ったのと同じく昭和53年の2月1日です。

1978_02_01西鉄北九州市内線_1

前日の1月31日の22:08に鹿児島本線西鹿児島駅を102レ「かいもん4号」で旅立ち、北九州市の折尾駅に降り立ったのは6:24でした。そこから6:34に西鉄北九州線電車に乗車。途中砂津車庫前で乗り継ぎ、終点の門司についたのは8:12でした。

北九州市内線

その時の乗りつぶし図。

1978_02_01西鉄北九州市内線_2

北九州市の小倉区魚町。

ここから北方線に乗車。

1978_02_01西鉄北九州市内線_4

特徴ある北方線の電車は、当時は結構好きなスタイルでした。

2015年04月20日 21時54分

私的昭和の鉄道/九州(3)支線2題。

5年後の九州。

会社に入ってからの昭和53年(1978年)1月下旬にも九州に乗りつぶしに出かけています。

1978_01_28宮原線(29豊肥本線)_2

1月28日は宮原線(恵良~肥後小国間)に乗っており、久大本線の豊後森を15:37に出た227Dの車内からのんびりした風景を楽しんでいました。

1978_01_28宮原線(29豊肥本線)_3

終着の肥後小国には16:40着。当時、何気なく撮影したはずですが、あまり撮影する構図ではありません。勝手なこじつけかもしれませんが、旅立ちとその終わりを象徴する改札口に思い入れがあったのかもしれません。ここだけではなく、それまでもそしてこれ以降も各地の改札口を撮影した写真が何枚かあります。

1978_01_28宮原線(29豊肥本線)_4撮影順のUPですが、改札写真を撮影してからホームに停車中の気動車を撮っています。ただしその理由は不明。

1978_01_28宮原線(29豊肥本線)_5

駅舎は昭和感が満載です。この後私は阿蘇に向かってバスに乗りました。ところで数年前のことですが、大分県の湯布院温泉から熊本の黒川温泉にレンタカーに向かった時に肥後小国に近い場所を通ったのですが、それだけで何だか懐かしい気分でした。

1978_02_01室木駅

おまけのような写真ですが、こちらも今は無き室木線(鹿児島本線遠賀川~室木)の終点室木駅です。完全な夜景ですが、当時の北九州地区路線網をパズルの様な複雑怪奇さで、それを一つ一つ紐解くように網羅するのは気が遠くなるような作業で、ここ室木駅には2月1日の18:05分過ぎに辿り着きました。

※室木線は全列車が蒸気機関車牽引の客車列車で有名だった路線で鉄道ファンには人気の路線でした。

ところでこの写真、ストロボを使っていますが、当時はちゃんと持ち歩いていたようです。ホームの客車まで光が当たっているので大容量タイプであったことは間違いなさそうです。我ながらあっぱれ。

何故夜景ですか?と聞かないで下さい。当時の私の乗りつぶし基準はとても緩く、急行・特急利用可。しかも夜行列車もOKでした。今は基本、各駅停車としています…。

2015年04月19日 20時40分

私的昭和の鉄道/九州(2)日本最西端の駅、平戸口。

昭和48年(1973年)8月3日、(当時の)日本最西端の駅「平戸口」に到達しました。と言っても駅そのものは2度目の訪問。しかし最初に来た時にはこうした写真を撮っていません。入り口に荷物が積んである風景は昭和ならではですね。

1973_07_31~薩摩大口~鹿屋_12

前日の8月2日、小倉発23:09の「普通列車」の夜行に乗車。佐世保に4:46に到着した後接続の4:58発の626D(佐世保発松浦線経由博多行き)に乗車。6:15に到着しました。当然のことながら寝不足だったので、626Dでも爆睡していたのですが、その時シートに横になり通路側の肘掛に足を乗せていた(丁度ひざ裏が乗っかる感じ)のですが、それでひざから下の血流が止まったみたいで、何と平戸口近くで目が覚めたものの足がしびれて自由が利かず、5分ほど足のマッサージをしていた覚えがあります。トホホな話ですが、恐らく50代以上の方にしかわからないかも知れません。

40年以上前の若かりし頃でしたのでそんな旅もよくしたものです。

1973_07_31~薩摩大口~鹿屋_13

「日本最西端の駅」の碑。この座を沖縄・ゆいレールに奪われる日が来るとは夢にも思いませんでした。

松浦線の平戸口以東は昭和46年(1971年)3月24日に乗っており、佐世保からここまでが初乗りでした。なお昭和46年当時はここ平戸口に降り立った後、九十九島巡りの船で佐世保を目指していました。

1973_07_31~薩摩大口~鹿屋_14

昭和48年(1973年)8月4日、唐津線を佐賀(9:07発)から西唐津(定刻では10:52着)まで乗車した727列車。当時でも古豪であった79601が牽いており、当時のメモには9両の客車を牽いていたわざわざ特記があるものの、なぜか727レの写真はこの一枚しか残っていません。

それにしても今こうして見ても風情がありますし、客車の揺れをまだ体が覚えているような気がします。

2015年04月18日 23時12分

私的昭和の鉄道/九州(1)山野線と宮之城線。

入社当時のことを書いていたら、昭和の時代に私が経験したことを書いてみようと思い立ってしまいました。

ということで今日から折に触れ、私がせっせと全国の鉄道を乗っていた『昭和』の写真をUPしていきます。タイトルは「私(わたくし)的昭和の鉄道」。ただし私は撮り鉄ではなかったこともあり、あまり写真は撮っておらず、バリエーションが少ないのはご容赦頂きたく存じます。またこれまでこのブログに掲載した写真はUPしないつもりですが、もしもダブっていたらごめんなさいです。

手始めは昭和48年(1973年)7月28日から8月8日まで旅をした九州編です。何故これから始めるかの理由ですが、今日UPする写真に写っている蒸気機関車が調べたら今も保存されていることが分かったからです。

1973九州周遊券

懐かしの九州周遊券を使っての旅。当時の周遊券には「途中下車印」を押す欄もありましたが、そこでは足りなくなって券面の端から端まで“印”があるのが『カッコいい』とされ、その数の多さを競っていた時代でした。ところでこの途中下車印は、鉄ちゃんじゃなくてもやっている人は多かったと思います。

その日程の概略。

●7月28日は東京⇒名古屋間を移動し、実家に一泊。

●翌7月29日、いよいよ本格的に出発。名古屋発19:25の熊本行き急行「阿蘇」(当然、直角シートの4人掛け)に小倉まで乗り、そこから何故か普通列車~普通電車を乗り継いで黒崎9:06発の「かいもん1号」に乗車。西鹿児島15:07に到着してそのまま指宿まで向かっています。

19730731宮之城線

7月31日の行動。指宿を基点に南九州をぐるっと回っており、今考えると何故指宿がベースなのか意味不明な行動です。ひょっとすると温泉があったからかも知れませんが真相は闇の中です。

1973_07_31~薩摩大口~鹿屋_1

山野線432Dを栗野(11:33発)から薩摩大口(12:02着)まで乗車。宮之城線933Dが出発する13:30まで駅中を撮影していました。

1973_07_31~薩摩大口~鹿屋_4

この時代のC56111はナンバープレートに形式名が入っていませんが、前後の時代は形式名が入っていました。因みにこの車両は今も宝塚市にて保存されています。

宮之城線の乗車券

宮之城線の車掌さんがくれた乗車券。おおらかな時代です。

1973_07_31~薩摩大口~鹿屋_9

8月1日に大隅線鹿屋駅で撮影した写真です。

C11200も兵庫県龍野市で保存されています。

2015年04月17日 20時48分

カメラマンとしてやりたかった仕事とアンコールワットの関係。

そのその昔の1980年(昭和55年)頃、内戦の真只中のカンボジアに本気で行きたいと思っていました。

今は番組制作会社「オルタスジャパン」の社長であり、当時は日本テレビの「NNNドキュメント」のディレクターであった小田昭太郎氏がその取材準備を進めていたことを知ったことがきっかけだったのですが、ただそういう非常時の国に取材に出向くには私のカメラマンとしての経験値(3年目)もさることながら技量がまったく足らず、それは断念しました。

もっとも私に研ぎ澄まされた映像センスがあり、卓抜した困難を乗り越える力があれば抜擢していただけたかもしれませんが、ただ「やりたい」だけでは進めない道があることも知りました。一方で「伝える」とは何をするかということか、はたまたジャーナリズムとは何かを自分の中で考えるきっかけになったことは間違いありません。

2015_03_14~15 アンコールワット_7 (1024x683)

それから12年の時を経て、落ち着き始めたカンボジアでアンコールワットの修復を、日本の上智大学を中心としたメンバーで取り組むことになり、そこに愛知県岡崎市の石工さんたちも協力するということで、中京テレビではその姿をドキュメンタリーで追いかけました。その取材に向けての準備では、上智大学との打合せもさることながら、直前にカンボジアに入っていたオルタスジャパンのスタッフからも情報をもらったりもしました。プロデューサーであった私自身は、諸般の事情で行くことは叶わなかったのですが、いつかはカンボジア、そしてアンコールワットに行きたいと願っており、それが実現したのがこの3月13日でした。

2015_03_14~15 アンコールワット_18 (576x1024)

1992年当時も取材としては様々なトラブルがあり、何せ日本からの連絡手段がまともに無い国にスタッフを出したプロデューサーとしては、事後報告で驚きの事実を知ることになり、撮影チームだけではなく全ての関係者の無事な帰国にホッと胸をなでおろした覚えがあります。

●1992年8月8日放送「崩れ行くアンコールワット~遺跡修復へのプロローグ~」

今回、日本の修復チームが力を発揮し、世界中から来た観光客で賑わうアンコールワット等の遺跡群を見つつ、「この部分が日本のチームが修復したところです」というガイドさんの説明には万感の思いがありました。

カンボジアは今でこそ平穏なアジアの国となっていますが、この賑わいが長く続くことを祈っています。

アンコールワット_29●写真は3月14日~15日撮影。

今回はブログの右側にある私のプロフィールの中身について書いてみました。新社会人の皆さんがこれからの人生でどんなプロフィールを作っていくのかを期待しています。

それにしても趣味の鉄道のブログを会社公式ウェブサイト内で始めるとはほんの数年前まで思ってもいませんでした。生生流転の世であってもこれだけは想像すらしなかった!こんな人生も世の中にはあるのです。

鉄道から少し離れてしまいましたが明日からまた“現場”に戻ります。



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プロフィール

稲見部長稲見眞一
<自己紹介>
昭和52年4月、中京テレビ放送入社。「ズームイン!!朝!」を始めとした情報番組や「ドラマ」「ドキュメンタリー」等のディレクター・プロデューサーを務めた。鉄研最終回(2010年1月29日放送)では自ら自慢の鉄道写真「俺の一枚」を持って出演。 鉄道歴は小学校5年からスタートしはや半世紀。昭和55年には当時の国鉄・私鉄(ケーブルカーを除く)を完全乗破。平成18年にはケーブルカーも完全乗破。その後も新線が開業するたびに乗りつぶしている筋金入りの“乗り鉄”。好きな鉄道は路面電車。電車に揺られながら窓外に流れる街並みを眺めているのが至福のとき。さてスジを寝かせてゆったり乗り鉄と行きましょう!