2015年04月16日 20時45分

フィルムで撮影すること。そして取材現場と趣味の関係。

DSC_0266

レンズにはオレンジ色のフィルターが付けられています。これはタングステンタイプのフィルムを使っていたためで、難しい話はさておき、要は電球の元では自然な発色となるものの屋外でそのまま撮影すると青っぽくなるので、それを補正するためにこのフィルターをしていました。

その分レンズが暗くなるため、ASA100のフィルムであればASA80で計算して絞りを決めていました。

所謂鉄道写真の世界では、私を含め外光の世界で写真を撮影していた方でタングステンタイプを使っていた方はほとんどいなかったと思います。例外的に(人工的な光源を使う)スタジオカメラマンの方が外でもタングステンタイプを使っていたかもしれませんが…。

DSC_0258

レンズは12ミリ~120ミリのズーム。12ミリは準広角レベルで屋内撮影ではやや引けないレンズでしたが、ただそれを工夫するのがカメラマンの腕(発想力)ということで私にはハードルが高すぎました。(涙)

フィルムは200フィートのモノを使い、1回のフィルム装填で6分弱の撮影が可能でしたが、常にフィルム交換のタイミングを頭に入れて撮影する必要があり、ディレクターの意図を的確に感じ取り、まだ1~2分撮影可能だったとしてもそれをすっぱり諦めことが出来るまでに成長するにはやはり時間がかかりました。

DSC_0269

その後、屋外でもビデオカメラを使うことが一般的になり、一本で20分回すことが出来るようになっただけではなく、上書き録画が可能な上にダークバックも不要となり、夢のような時代がやってきたと感動した覚えがあります。

ところで当時は「鉄道」の取材によく行きましたが、そこで私は個人のカメラで撮影していたでしょうか?

答えはほぼ否です。やはり仕事ですので個人のカメラを持って行ったことはほんの数回程度しか記憶にありません。もっとも持って行ったとしても撮影する時間など殆どなく、1978年に行った大井川鉄道でも車庫でほんの数枚しか撮っていません。また茶畑越しに走る蒸気機関車をテレビ放送用に撮影はしましたが、当然のことながらスチール写真はありません。

カラー(9)_78

カラー(9)_79

これが数少ないうちの2枚です。ただ当時、何としてでも自分(個人)のカメラで撮影しようとは思っていませんでした。今思えばきっと撮影を仕事にしていたからなのでしょう。

2015年04月15日 20時37分

カメラマン2年目、石原産業紀州鉱山鉄道を取材。

1978_04_28石原産業 紀州鉱山

これは1978年4月の取材時にスタッフが撮ってくれていた一枚。カメラはアリフレックスで、主にキチンとした映像を撮るときに使っていました。

※三重県紀和町(今の熊野市)の石原産業紀州鉱山鉄道の取材時。

石原産業紀州鉱山カラー_22

石原産業紀州鉱山モノクロ_9

こういうように当時でもレアな鉄道を取材していました。

DSC_0268

その次のステップで使用したのが通称「ミニエクレール」と呼ばれるカメラ。バッテリーを使用するモーター駆動のカメラにあって、この機種は現場で録音をすることを前提に作られた静かなカメラで、中京テレビだけではなく当時全国で作られたドキュメンタリー作品の多くはこのカメラで撮影されていたはずです。

と言ってもこのカメラのフィルムで録音していたわけではなく、音はオープンリールのポータブルテープレコーダーで別途録音し、音と映像のタイミングを合わせて編集~放送していました。

ところでこのカメラを回すということ=ドキュメンタリーのカメラを担当することであり、当時、思わぬチャンスが回ってきたことで実にハイテンションな日々でした。(一応、仕事は冷静にしていました。但し『つもり』)

DSC_0267

このカメラは右目でファインダーを覗いていますが、ピント合わせをする時を除けば、撮影時はやはり左目を開けていました。

久しぶりにカメラを担いだので少し傾いているのご愛嬌ということで…。

2015年04月14日 20時26分

私の新人時代の思い出。DRというカメラ。

ちょっとどころではなく、38年前の何とも大昔の話。申し訳ありませんが数日「鉄」から離れます。

4月も半ばとなれば新入社員も何となく社会人の第一歩を踏み出した実感を持ち始める頃ではないでしょうか?

因みに私は、報道部に配属され、カメラマンとしての研修をしていました。

DSC_0294

このカメラはフィルモもしくはDR(DRと言っても台湾の気動車の形式ではありません)と呼ばれていたモノ。

DSC_0288

16ミリのフィルムカメラでぜんまいじかけで駆動するタイプ。パチカメでも今やデジタルが主流のため、そもそもフィルムで撮影している人を見かけなくなりましたが、その頃はテレビの撮影でも放送局のスタジオと中継を除けばほぼフィルムの時代でした。

※今時のテレビ番組にあまたあるタレントさんがリポートするグルメ番組は、当時は考えられなかった。

DSC_0297

そのフィルムは光が当たればその後は使えなくなってしまうため、フィルム交換は写真右側の黒い袋(ダークバッグ)を使い、この中にカメラ本体を入れて手探りで入れ替えていました。

DSC_0296

上の軸に未撮影のフィルムを入れ、グルッとレンズ後ろを通して下のスプールに巻き撮影準備完了。100フィートのフィルムで3分弱の撮影が出来ました。発生物と呼ばれる事件・事故の一報は100フィートで収めるのが原則でしたが、カメラ研修では単にカメラを回すだけではなく「映像理論」の基礎を学んだことも良い思い出です。

DSC_0290

絞りもピント合わせも手動。どころかこのカメラではレンズを通してのピント合わせはどえらい面倒で、3本ついた単焦点レンズの内、流石に望遠はちゃんとピント合わせをやっていましたが、標準とワイドレンズは目感でセットして撮影していました。

ファインダーがあるではないかと思われるかもしれませんが、これは画角の確認用で、しかも近距離の被写体は、レンズとファインダーの位置の関係で、“ズレ”に注意という代物でした。

ただ動力が不要であり、軽量で手軽ということもあって、38年前であっても一時代前の機器ではありましたが、予備カメラとして最後まで現役でした。

※最初の写真で違和感があるかもしれませんが、このカメラでは左目でファインダーを覗いていました。そして右目は周りの状況を判断するためにいつも開けており、まずこれに慣れるのに戸惑いました。

2015年04月13日 22時39分

台北桃園空港への道(2)さよなら台湾、また来る日まで。

ツアーの殆どの参加者は台北市内の「松山空港」からの帰国になりますが、名古屋と福岡に向かう3人はここ「桃園」で下車しました。

2014_12_01 台湾・福井食堂_63

下車したときの様子は「いすみ鉄道社長ブログ 台湾鉄道三昧の旅 最終日(3日目)」http://isumi.rail.shop-pro.jp/?eid=1048162にありますのでそちらもご覧下さい。

2014_12_01 台湾・福井食堂_66

台湾新幹線の駅はどこも巨大です。桃園駅もそれに倣っており、しかもどの駅も人がいて利用者の多さが実感できます。ただ経営的には苦しいという報道がなされており、今後の展開が注目されるところです。

2014_12_01 台湾・福井食堂_67

台北桃園空港。今回が5回目の台湾なので既にお馴染みの空港となっています。

出かけたのが既に4か月以上前の11月~12月の時期だったのでクリスマスの飾りつけが綺麗でした。

※写真では良く分かりませんがベイマックスがいます。

さよなら台湾、また来る日まで。

2015年04月12日 22時36分

台北桃園空港への道(1)最新のEMU800型に乗車。

私たちが3日間お世話になった観光バス。

2014_12_01 台湾・福井食堂_30

3列シートの豪華バス。こんな大きな体で、目的地(精糖鉄道の撮影地他)を目指し、こんな細い道は絶対に通れないだろうとおもうような場合でも私たちを安全に運んでくれました。ドライバーさんには拍手モノでした。

2014_12_01 台湾・福井食堂_40

いよいよ最後の台鉄乗車です。ここは「社頭」駅です。

2014_12_01 台湾・福井食堂_44

社頭駅を12:49発の区快「台中」行き。2014年から営業運転に入ったばかりの日本車輌製のEMU800形に乗り、台湾新幹線との乗換駅「新烏日」に向かいます。

2014_12_01 台湾・福井食堂_45

車内は思った(見た目)以上に広々。今回のツアーの日程表にはこの電車の欄に「EMU800」と特記があり、つまりこの電車に乗るために日程が組まれていました。最後までやるもんです。

2014_12_01 台湾・福井食堂_55

「新烏日」に13:20着。新幹線の「高鐵台中」出発は14:01でそれまで構内というか連絡通路の鉄道グッズ店巡り。大人買いに走った方が何人もいました。

2014_12_01 台湾・福井食堂_57

そこで目に付いたお店の一つ。何せテーブルが可愛かったので撮影したのですが、ここでは色つきの木のチップを販売しており、それをレゴ風に組み合わせて遊べるようになっていました。(多分、合っていると思います)

2014_12_01 台湾・福井食堂_58

こちらはベンチ。まるで遊園地の様な楽しさでした。

2015年04月11日 22時32分

台湾/福井食堂(4)…だけではなかった最強の「鉄」食堂。

「集合写真を撮ります」と声を掛けられ、どこに行くのかと思ったら建物の外に出て、“怪しげな”通路に入り込みました。

2014_12_01 台湾・福井食堂_35

実はここも福井食堂の一部で、既に通路が『鉄鉄』しています。

2014_12_01 台湾・福井食堂_38

そこにはこんなマニアックなものも置かれ堪りません。

OLYMPUS DIGITAL CAMERA

今回のツアーの最後の集合写真。こんなスペースがあり、ベンチも置かれて“弁当”を食べられるようになっていました。

福井食堂

福井食堂のトリはオーナーの名刺。脱帽です。

台湾訪問時に社頭駅で下車する価値は大です。

2015年04月10日 22時28分

台湾/福井食堂(3)オーナーの陳朝強さん。

食事が終わったところで「2階」に行きましょうと声がかかりました。

2014_12_01 台湾・福井食堂_15

お店だけで結構満足していたのですがここは実にお宝の山。

2014_12_01 台湾・福井食堂_18

中には台湾鉄路管理局の救急葯箱もありました。多分、救急セットが入っていたのでしょうが、どんなモノが入っていたのでしょうか?興味が湧きました。

2014_12_01 台湾・福井食堂_20

福井食堂の開業15周年の記念ヘッドマーク。

2014_12_01 台湾・福井食堂_21

何とEF661に付いていました。場所は広島車両所?でしょうか。

2014_12_01 台湾・福井食堂_22

それにしてもよくも集めたものです。

2014_12_01 台湾・福井食堂_26

オーナーの陳朝強さんに福井行きのサボ(行先票)を持っていただき来館記念に撮影させてもらいました。

2015年04月09日 22時26分

台湾/福井食堂(2)鐵道文物館である由縁。

私たちが食事したテーブル席の回りも鉄道色が満載。

2014_12_01 台湾・福井食堂_10

食堂の中はこんな感じ。如何にも町場の大衆食堂です。でもぐるりと見渡すと、全てが鉄道です。

2014_12_01 台湾・福井食堂_13

まず目に付いた一番奥の“壁画”。CK124は台湾鉄路管理局が動態保存している蒸気機関車で、今回の台湾シリーズでも「集集線の旅(6)(7)」で写真をUP しているものです。駅弁の立売りさんもいて、日本の昭和の時代の台湾/社頭駅風景を再現しているのかな?と思って見ていました。

2014_12_01 台湾・福井食堂_7

真ん中の赤い扁額風の書が何を意味しているかは分かりませんでしたが、お店にとっては大切なものだということは見て取れました。ただその周りは“鉄道”です。

2014_12_01 台湾・福井食堂_8

壁には列車の窓が描かれ、車窓からの風景が描かれていました。また網棚も見落とせません。

でもこれは文物館のプロローグ/導入部に過ぎませんでした。

2015年04月08日 22時15分

台湾/福井食堂(1)鐵道文物館でフライドチキンを食す。

今回のツアーの最後の目的地は台湾鉄路管理局縦貫線「社頭」駅から歩いて5分強のところにある「福井食堂」。

2014_12_01 台湾・福井食堂_28

台湾は車は多いとはいうもののあふれかえるような車社会にはなっておらず、町の商店街には活気があります。台湾中部の町「社頭」もそれにもれず、日本の市街地とは全く異なる風景が広がります。

2014_12_01 台湾・福井食堂_1

その一角にある「福井鐵道文物館」の看板。ここが福井食堂で、入る前から期待感で胸が膨らみます。

2014_12_01 台湾・福井食堂_3

日本風に言えば、街の定食屋さんと言ったところでしょうか?とにかくお客さんが引きも切りません。早速出てきたこの店の一押し、鶏モモフライの定食。まずその木の器の美しさに仰天。何と日本からのツアー客のためにご主人が用意してくれた特注品。お気遣いに感謝です。

2014_12_01 台湾・福井食堂_6

ボックスは2段になっており右側の箱の下にあるのはウナギ。蒲焼風でこれが何とも美味。これだけ美味しいウナギに台湾で出会えるとは思ってもみませんでした。また右上にチラッと写っているしゃもじですが、使わずにサインをすると店の中の「しゃもじ」コーナーに来店記念で飾られます。私は別のしゃもじにサインをさせてもらい、店内に飾っていただきました。もしも行かれる方がありましたら探してください。

※今回はツアー向けにアレンジしたメニューの感がありました。但し、確かめてはいません。

2014_12_01 台湾・福井食堂_12

最後に出てきたメインの鶏モモのフライ。想像していたフライドチキンの味とは一寸違い、グルメ番組風に言えば外はカリッと、中はジューシーという感じです。

旨かった!

2015年04月07日 20時27分

祝!!北陸新幹線開業!

北陸新幹線が開業しました。もっとも開業日である3月14日に私は鉄道とは全く縁のない行動をしており、未だ乗りに行く目途がたっていません。とはいうものの金沢開業以降、今日までに社内外の実に多くの方から「乗った?」と聞かれており、早目に皆さんの期待に応えねばと心新たにしているところです。

北陸新幹線

そんなことが続いていたら何と「乗っていない」ことを知っている方たちから思わぬお気遣いを頂きました。(紹介の順番は私の手元への到着順です)

1)北陸新幹線(長野・金沢間)開業記念切手

2)「JRトレインくん」E7系 かがやき チョコチップクッキー(一番上の缶入り)

3)北陸新幹線W7系かがやきパタパタメモ帳(缶の下で切手の上)

+西Navi北陸 4月号(台紙代わりにしているフリーペーパーです)

記念切手のデザインはE7系とW7系のバランスを取っていますが、E7系のクッキーとW7系のメモ帳という絶妙なバランスは思わぬ偶然で嬉しく思いました。(多謝)

クッキー

メモ帳で、E7系は無事定時運行されました(まあ、食べたということです)が、W7系は運用に入ることなく車庫入り(もったいなくて使えない)しました。(笑)



ADVERTISEMENT

電子書籍「稲見駅長の鉄道だよ人生は!!」
稲見駅長の鉄道だよ人生は!! ―各駅停写の旅―

カレンダー

2021年2月
« 7月    
 123456
78910111213
14151617181920
21222324252627
28  

プロフィール

稲見部長稲見眞一
<自己紹介>
昭和52年4月、中京テレビ放送入社。「ズームイン!!朝!」を始めとした情報番組や「ドラマ」「ドキュメンタリー」等のディレクター・プロデューサーを務めた。鉄研最終回(2010年1月29日放送)では自ら自慢の鉄道写真「俺の一枚」を持って出演。 鉄道歴は小学校5年からスタートしはや半世紀。昭和55年には当時の国鉄・私鉄(ケーブルカーを除く)を完全乗破。平成18年にはケーブルカーも完全乗破。その後も新線が開業するたびに乗りつぶしている筋金入りの“乗り鉄”。好きな鉄道は路面電車。電車に揺られながら窓外に流れる街並みを眺めているのが至福のとき。さてスジを寝かせてゆったり乗り鉄と行きましょう!