平成25年11月8日。もう一か月以上前のことになってしまいました。
さてこの日、那覇空港にはB747がいました。もうすぐこの姿も見られなくなるんですね。ということはさておき全日空ではなく12:45発の日本航空で羽田へ!修学旅行の高校生たちで満席でした。
東京モノレール「羽田空港第1ビル駅」から乗った区間快速は一番前の運転士さんの直ぐ後ろの1人席が空いており、「やったぜ!」とばかりに陣取りました。
その席だから撮影できる写真はある訳でラッキーでした。
モノレールのすれ違いも停車中のみならず走行中もGET。本数は多いので直ぐに撮れるかと思っていたのですが、意外や意外で手こずりました。
浜松町に到着。そもそもこの風景を眺めるのは初めてかも?なぜならこれまで羽田空港を使うことが殆ど無かったからですが、「羽田空港第1ビル駅」でモノレールを待っていた場所が良かったのでしょう。(端っこは端っこなのですが先頭か最後尾かも知らずにいました)
「旅と鉄道」という雑誌は、「鉄道ジャーナル」から出ていた時に創刊から何年かは買い続けていました。他の鉄道誌に比べ「旅」によった内容で私のような“ライト鉄”には居心地がよかったことが買っていた動機でした。
今回、久しぶりに買った理由はレイルウェイ・ライター40周年記念「種村直樹の鉄道旅行術」という特集内容だったから。
もうそんなに経ったんですね。実は私の鉄道趣味が社内に認知されるようになったのは種村さんのおかげでもあります。
話しは今をさること30有余年。昭和55年(1980年)に遡ります。
その年の春休み。種村さんと読者の皆さんが日本最西端の駅・国鉄平戸口から日本最東端の駅・国鉄東根室駅かで普通列車を乗りついての旅をしました。(当時は夜行鈍行が結構残っていました)
その模様を通り道となるNNN(日本テレビ)系列各社が取材をし、それを毎日各局リレー方式でニュースにしたら面白い!という企画書を書き、日本テレビに出しました。そうしたらその企画書が日本テレビのドキュメンタリー番組のプロデューサー・ディレクターの目に留まり何と30分番組×2回と言う大盤振る舞いで放送することになりました。題して「日本列島西東 鈍行列車春の旅」。社会派ドキュメンタリー主体であり硬派で知られた「NNNドキュメント’80」でこんな軟ネタが放送されるなんて、最初に話しを聞いた時には天にも昇る気持ちでした。そしてこの番組のカメラマン(当時は16ミリフィルムの時代)として、一部区間ではありましたが参加させてもらい、初めて種村さんにお会いしたのは山陰本線浜田駅でした。
その後、何度かお会いする機会に恵まれ、年賀状のやり取りが続いています。何はともあれ40周年、おめでとうございます。
沖縄県北谷(ちゃたん)町北前にあるその名も軽便橋。
普天間川にかかる人道橋で、この橋も多くの方が訪問され、ネットにアップされています。
軽便橋の名は、もともとここに沖縄県営鉄道の「佐阿天原橋梁」が架かっていたことによるものだそうで、今の橋は1988年(昭和63年)に掛けられたそうです。
大山駅と北谷駅の間にあり、この橋の南側にある道路は何となく線路跡を感じさせます。
最後の写真は嘉手納線の終点「嘉手納」駅があったと思われる場所。
嘉手納町役場が目印となっています。
今回は、朝9時にレンタカーでホテルを出発し、糸満~与那原~嘉手納とほぼ1日がかりでゆっくりと見て周りました。
廃線跡巡りと言っても、どちらかといえば車でノンビリ沖縄の風を感じる旅といった方が相応しい時間を過ごしました。廃線跡を巡る方は多くいらっしゃいますが、どんな感じで周っているのかを聞いてみたくなりました。