仙石線「仙台」駅に15:09に到着。地下ホームから地平を越え、2階通路を突っ切り中央口を出てコインロッカーにまっしぐら。3泊分の荷物を持って代行バスに乗ったり女川の街を歩くのは大変だろうと考え、荷物は当然コインロッカーです。この選択は自分でいうのも何ですが良かったと思っています。
15:19発の常磐線「浜吉田」行き250Mにはぎりぎりで間に合いました。実の所、仙石線から常磐線への乗り換えは10分もあればOKですが、改札を出て…となればそうはいかず、ほぼ1時間後の16:13発の電車でもしょうがないと半ば諦めてはいました。
常磐線は今も2つの不通区間があります。東京寄りの「広野」~「原ノ町」間とここ仙台寄りの「浜吉田」~「相馬」間です。
「浜吉田」には15:58の到着。駅名標にはやはり隣の駅の「山下」の名はありませんでした。
北隣(仙台寄り)の「亘理」(わたり)から「浜吉田」まで1駅の復旧は今年の3月。こうして電車が発着するまでに震災から年の歳月が必要でした。
9月28日(土)、花が咲く線路。
「浜吉田」から南に向かう線路に列車が走ることはこれからもありません
常磐線の復旧にあたり、JR東日本ではここから「新地」駅近くまで線路を山側に移設する計画で、「浜吉田」を出てすぐ右にカーブしていくことになっており、来年(2014年)春の着工を目指しています。合言葉は「この先へ!→」。
「高城町」駅。14:28発の3456S快速「あおば通」行きに乗車。結構忙しなく(せわしなく)写真撮影に勤しみ(いそしみ)ました。
※3~4~5~6の連番は何となく嬉しくなります。私だけ…、ですね。きっと。
この駅は上下線とも使用されています。ただこれだけ草が茂っているとそうは見えません。
駅名標の本来「手樽」と書いてある場所は…。
「高城町」から「石巻」に向かうレールが銀色から赤に変わったところにある出発信号機。何故か赤く点いており、でもこの信号機が青に変わるまでにはまだまだ時間がかかりそうです。
ところで出発信号機が生きているのは、ATSと連動させてこの駅から「手樽」側に入線させないための手段だと思いますが、考えてみれば不思議な光景です。
(トイレ付)205系電車の車体の下には草が生えていました。ここまで極端な状況となってくるとただただ心が切なくなっていました。
「陸前小野」13:44発の代行バス。2台運転でした。でも車内はそれほど混んではいませんでした。
ところで代行バスが「陸前小野」を起点にしないのはバスの折り返しスペース確保の問題と思われます。陸前小野の駅前は大型バスの乗り入れは少々難しそうです。
仙石線「野蒜」駅。
「陸前小野」(というか10月2日にUPした鳴瀬川、吉田川橋梁を渡った場所)から「陸前大塚」までは内陸に線路が移設されるため、この駅舎が駅として使われることはもうなさそうです。建物はちゃんと残っているのに…と思ってしまうのは感傷的に過ぎるでしょうか?
14:13(定刻14:10)、「高城町」でバスを下車。ここから「高城町」駅までは歩いて10分弱。
「高城町」の駅前はとても狭く、バスは入れそうにありません。だからお隣の「松島海岸」が代行バスの起点(終点)になっているのですね。
(参考)
「石巻」から「仙台」に仙石線で向かう際、石巻駅の駅員さんからは「矢本・松島海岸で乗り換えて下さい」と言われたので、「陸前小野」や「高城町」で乗り換えてはいけないかと思ったのですが、乗車券があればNGということではなく、特に「高城町」は距離があって分かりにくいということもあったようです。
「陸前小野」で代行バスに乗り継ぐ場合、列車は13:35着でバスは13:44発。バス乗り場は駅から徒歩1分とのことでしたので、駅で少し撮影していました。
「陸前小野」駅から仙台方面に少し行った先では復旧工事中。線路上にショベルカーがいたのに気付きました。(昨日の記事の続き)
仙石線「陸前小野」~「高城町」間は2015年中の運転再開を目指しています。「この先へ!→」まではまだ2年ほどの時間が必要なようです。。
仙石線の代行バスの運転区間は鉄道の不通区間とは一致していません。乗換駅は、「矢本」(「陸前小野」の2駅石巻寄り)と「松島海岸」(「高城町」の1駅仙台寄り)となっています。
そのためか「矢本」ではそこそこのお客さんが下車していきましたが、「陸前小野」の利用客はそれほど多くなく…と書きつつ、思ったより利用者がいると思ったのも事実です。
停車する気動車の足元から始まる赤いレール。このレールの色を変えるのはきっと電車でしょう。
9月28日(土)、「石巻」発13:15の7336D(右側の車両)に乗車。
まさか仙石線で列車番号に「D」のつく気動車に乗る事態がやって来るとは夢にも思ってもみませんでしたが、取り敢えずの復旧方法としてJR東日本がとったこの選択は正しいと思います。
キハ110-240とキハ110-244の2両編成の車両は、もともと陸羽西線(余目~新庄)・陸羽東線(新庄~小牛田)に投入されたもので、専用の塗装と先頭車前面の「奥の細道」、ドア横の「Mogami-gawa Line」が目を引きます。
今こうして仙石線を走る姿は本来の姿ではありません。気動車が仙石線を走らなくなる日が1日も早く訪れるのを願わずにはいられませんでした。
現時点の「石巻」からの終点「陸前小野」に到着。この駅は交換可能ですが、今は左側の下り線しか使っておらず、右側の線路は錆びついています。
「陸前小野」駅のホームから見た仙台方面。この続きは明日…。
石巻駅に12:50着。
ここで仙石線に乗り換えですが13:15発なので暫く時間があり、ここで一旦下車して駅の外にでました。
駅の中も外も石ノ森章太郎氏のキャラクターに溢れており、駅前のポストの上にも…。
駅に戻ると丁度、小牛田からの1635D「マンガッタンライナー」が到着しました。(13:10)
私は事前学習が行き届いておらず、「マンガッタンライナー」の到着に合わせ、こんな素敵な笑顔が出迎えてくれるとは知りませんでした。週末のヒロインに出会えたのは日頃の心がけの良さの賜物でしょうか?あと2~3分仙石線のホームに行くのが早ければOUTだったのは間違いありません。(撮影&ブログへの掲載の了解を得ています)
また「マンガッタンライナー」の乗客には「乗車記念証明書」も配布されており、小牛田から1631Dに乗り、石巻駅で下車せず浦宿まで素通りした私はこれも知らず、事情を説明して1枚頂きました。
一昨日の女川の俯瞰写真は、女川町地域医療センターがある高台から撮影しました。
そこにあったカフェと言えば良いのかな?何となくノンジャンルのお店「おちゃっこクラブ」。ここにはスパゲティーやカレーといった軽食があり、この日(9月28日)の昼食は、女川町観光協会が作った「女川ガイド」(女川は新しく生まれ変わる)を読みながらカレーライスを食べました。
女川での滞在時間は10:47着で12:10に代行バスが発車するまでの僅か1時間半ほどでしたが、目的の3つの建物は見ることが出来ました。
ただ現時点の代行バスの終点は、女川町役場の仮設庁舎のある高台の場所で、JR「女川」駅のあった場所までは歩いて10分ほどかかります。代行バスで来て女川を歩く人はあまりいないと思われ、歩行者向けの案内表示はあまりありません。行かれる場合は事前に情報を仕入れておくことをお勧めします。
女川からバスに乗り、浦宿へ。「がんばろう!女川」の看板を見つつこの地を去ることになりました。
(私の乗る列車が駅に着こうとしています)
女川~浦宿間の代行バスの所要時間は10分。12:20に到着し、12:27発の石巻線小牛田行きの乗客となりました。
内海である万石浦は穏やかに輝いていました。
10月14日(月)は「鉄道の日」。
今更ここで説明するまでもないのですが、明治5年(1872年)10月14日に新橋・横浜間で日本初の鉄道が開通したこ とを記念して、平成6年に当時の運輸省が10月14日を「鉄道の日」と定めたも のです。(国土交通省中部運輸局鉄道部のHPから転載)
ということで名古屋でも金山総合駅を中心に様々なイベントが催されます。
主なイベントは明日(10月12日/土)、明後日(10月13日/日)を中心に行われますが、金山第3会場である金山南ビル11F「名古屋都市センター」では引き続き、来週末(10月20日/日)まで様々な展示が行われます。
●日程:10月12日(土)~10月20日(日)
●開館時間:水・木曜日10:00~18:00
金曜日10:00~20:00
土・日・祝日10:00~17:00
休館日15日(火)
●展示内容:
① 「中部の鉄道車窓二十選フォトコンテスト」入賞作品展示
② 「中部の鉄道今昔」写真パネル展示(提供 名古屋レール・アーカイブス)
③ 鉄道を描いた作品展示(提供 阿部 繁弘先生、近藤 幸先生)
④ 園児による鉄道のある絵画展示(あけぼの保育園園児の皆様)
⑤ 鉄道関係DVD映像放映コーナー(提供 (株)動輪堂/ビコム(株)
⑥ 沿線観光PRコーナー
私が会員となっているNPO法人名古屋レール・アーカイブスでは上記の②「中部の鉄道今昔」写真パネル展示に協力させて頂いています。
今回は、名古屋レール・アーカイブスではかえって珍しい最近撮影した写真を中心にしていますが 、こんな懐かしい写真も展示しています。撮影エリアは愛知・岐阜・三重・静岡・福井の5県にまたがっており、名古屋で「鉄」活をされる皆様には足をお運び頂ければ幸いです。
浦宿からひと山越えた先の女川の市街地。そこには何もありませんでした。
地形によって津波の被害は本当に差があります。津波の被害をあまり受けなかった浦宿から女川までの距離はJRで2.5キロですが、それ以上の遠さを感じました。JR石巻線「女川」駅はこの写真のほぼ中央にあったはずですが今は整地されてどこに駅があったかすらわかりません。JR石巻線女川駅は内陸部に移設され復旧されるそうですが、時期についてはまだ明言されていません。
上の写真にも少しだけ見えていますが、この横転した建物は昭和55年に作られた「女川交番」。
市街地のあったこの地域には“震災遺構”として今、3つの建物が残されており、それぞれの場所には建物の解説をした案内板も設置され、被災地の現状を知ることが出来ます。
この女川交番には「原位置付近で転倒しており、津波の引き波により転倒したと考えられます」とありました。
「女川サプリメント」。昭和40年代の建築と推定されており、震災までは商業店舗として利用されていたとのこと。この建物も津波の引き波で転倒したそうです。
先の女川交番と合わせ、押し寄せる「津波」の力で倒れたのではなく「津波の引き波」の力で倒れた建物が実際に残っている事例は少なく、貴重な震災遺構として後世に伝えられないかと言う声も多いそうです。
※「引き波」が原因とされているのは、建物が海側に倒れているからだそうで、確かに稀有な例なのでしょう。
こちらの建物は「江島共済会館」。昭和50年代の建築と推定されており、津波により元の位置から10~16メートル移動しています。土台部分から根こそぎ持っていかれたことが本当によく分かります。
ここ女川の街では観光バスで視察(見学?)に来ておられた団体さんも見かけました。所謂『観光』とは別物でしょうが、地震国であり津波に見舞われることのある「日本」に暮らすものとしては「被災地観光」という選択肢はあっても良いと思っています。