2012年11月18日 19時41分

小さな「三陸鉄道支援」。

私は「しめサバ」が大好きです。(回転すしでも行くたびに食べます。我が家の食卓でもたびたび登場します)もっというと「鯛の昆布じめ」も大好き(そういえば最近、食べてないなあ…)で、その勢いで「しめサンマ」も好物であることをここに告白します。

イオンで何気なく買ってきた「琥珀 しめさんま 昆布じめ」。買ってきた時は何も気にしていませんでした。これを今夜食べるべく、封を開きかけて、、、「おやっ?」。右上の封が少し開いてるのは気付くのが少々遅れたせいです。

まず左の人物のイラストが『しめさんま』にしては違和感が…。「これっと鉄道マン?」と思いきや商品名の『琥珀』の右横、『しめさんま』の文字の上に『with鉄道ダンシ』とあり、さらにその上の小さな文字を見れば「三陸鉄道×JF久慈市漁業協同組合×AEON』とあり、早速「三陸鉄道 鉄道ダンシ しめさんま」で検索。三陸鉄道のHPからAEONのHPにリンクがあり、それを見たら8月24日から売っていたのですね。全く気付いていませんでした。(食料等の買い物は日頃、私の仕事になっており少々悔しいです)

198円の小さな復興支援。今からでも遅くないですよね。

さて肝心の“味”ですが、文句なし!美味しかったです。

2012年11月17日 21時18分

特別快速「きたみ」で遠軽へ(2)「上越」駅。

石北本線「上越」(かみこし)駅と言っても何のことやらという方が殆どでしょう。今は信号所となっている「上越」ですが、「上川」(かみかわ)駅と「上白滝」(かみしらたき)の間にあり、私が最初にこの線を乗車した昭和49年(1974年)の時刻表には「上川」を出ると「天幕」(廃駅)~「中越」(現・信号所)~「上越」(現・信号所)~「奥白滝」(現・信号所)~「上白滝」となっており、実に4駅が旅客扱い廃止もしくは廃駅の憂き目にあっています。

その「上越」信号所にはあったのはこの看板。「石狩北見国境 標高六三四米 上越駅」とあり、そこに“駅”と書いてあるからには信号所となった昭和50年以前に作られたのは間違いなく、少なくとも40年以上前からこの風景が見られたと思われます。

とまあそうした説明と感想はともかく、ここが石北峠のサミットであり、石狩国と北見国の間にあった最大の難所は何れから来てもここで終わる地点ということのようです。

ここ「上越」には16:10に到着。ここで「オホーツク6号」と16:12に交換。その後、暫くして山の中に響くエンジンの音が少し大きくなり、特別快速「きたみ」は16:13頃に“国境(くにざかい)の駅”を出発しました。

2012年11月16日 21時42分

特別快速「きたみ」で遠軽へ(1)。

平成24年10月13日(土)、札沼線に乗車の後は、「滝川」13:29の稚内行き「サロベツ」で「旭川」へ移動。左側の車両がそれです。

このまま「稚内」まで行ってしまおうか…、という想いはよぎったものの何とかそれを断ち切り、次の機会に託すことにしました。「稚内」も昭和49年に行って以来、足を運んでいません。

さて超近代的なセンスあふれるヨーロピアンな雰囲気の「旭川」駅の利用は2度目で、その広々とした空間とモザイクのような鉄骨は秀逸なデザインと感じています。

「旭川」駅を一歩外に出てみれば、昨年の7月12日に利用した時よりも随分、すっきりした感じです。それにしても駅舎から表通りまでがやっぱり遠い。もっとも迷路のような通路を辿ることはなくなりましたが…。まあそんなことはともかく、昨年は見えなかった駅舎をやっと確認できました。

その2番線に停まっていたのは『キハ54 503』特別快速「きたみ」北見行きです。発車が15:05でしたので、単行であるのは分かっていたのですが、私は待合室でのんびり構えていて、それでも14:50頃ホームに着き『余裕で転換クロスシート』と思いきや、『転換クロスシート』の席は、既に一人は座っている状況で、ロングシート部分にほぼ誰もいない状況で、クロスシートの“お隣さん”になる勇気もなく、仕方なくロングシートに座るという何とも石北本線には似つかわしくないことになってしまいました。まあこればかりは諦めるしかないですね。

ところで最初から快速「きたみ」で「遠軽」に向かおうと決めていたわけではありません。もう一つの選択肢は「滝川」13:44の根室本線2431D「落合」行きに乗車し「富良野」着14:50、「富良野」発15:16の富良野線9632レ「秋の南富良野ノロッコ号」に乗り継ぎ「旭川」着16:27。「旭川」発16:42の15D特急「オホーツク5号」で「遠軽」(「遠軽」着18:43)へと向かうというものでした。

実はこの日の朝まではこのスケジュールを念頭に『一日散歩きっぷ』を買っており、最終的には滝川駅前の食堂に昼ご飯を食べながら、「石北本線」の“風景”を選ぶことにしました。

2012年11月15日 22時16分

平成24年の札沼線=学園都市線(8)「新十津川」駅のスタンプ。

「新十津川」駅のスタンプです。札沼線“終着駅”の文字に哀愁を感じます。それに続く『Lovely Station』はご愛嬌と言うことでしょうが、その間にあるハートマークは少々気恥ずかしくなります。絵柄が通常、乗降客が見ることのないポジションからの風景になっており、「こうしたデザインもあり」と思いました。

ところでこのスタンプはJRが作ったものなのでしょうか?それとも地元自治体が作った?はたまた…?

何故そんなことを思ったかと言えば『Lovely Station』の文字の存在で、「ありがち」なフレーズではあるものの『駅のスタンプ』にするのは勇気がいるかも。

このスタンプは駅の待合室内に写真のように置かれていたのですが、注目は「⇒」の先にあるメモ帳。実は白紙のメモ帳で、スタンプ帳が無くても、このメモ帳にスタンプを押して記念にすることができるのです。ありそうでなかったサービスですが、今回のスタンプも実はこのメモ帳に押してきたもので、とても好感が持てました。

(妻のおまけ)

私の職場の同僚のてっちゃんが、うちのてっちゃんに東京土産の「TOKYO Terminal Cookie」の箱をくれました。「中身のクッキー無くてもいいの?」と聞かれたので「十分これで喜ぶはずです。」という会話…

案の定、嬉しそう。男性は永遠の少年ですね。

職場のてっちゃんは、電車好きのてっちゃんではないのに、地下鉄の吊り広告のうちのてっちゃんの花電車にも気付いてくれた唯一の方です。

 

(夫に戻る)

「東京駅復原」が、如何に広く一般の方たちに浸透しているかと言う証ですね。「東京駅復原」関連の商品がお土産としてよく売れているとは聞いていましたが、正にそれを実感しました。さて中身は…。実は「職場の皆様用」であり、私のために買ってこられたものではありません。

 

(妻に戻る)

当然です。

2012年11月14日 21時49分

平成24年の札沼線=学園都市線(7)「新十津川」の現在そして40年前。

12:37の定時に「石狩当別」発「新十津川」行きは終点に到着。

思い起こせば昭和49年2月12日、627D「札幌」発13:08(時刻表での時間、実際は2分遅れの13:10発)に乗車し、ここ「新十津川」に着いたのは15:34の定時でした。この時の北海道での足取りは決して『乗り鉄』だったわけではなく、稚内で2泊して宗谷岬で凍えたのをはじめ、襟裳岬、納沙布岬といった厳冬の岬巡りや別海町・尾岱沼であったり、オホーツク海の流氷を見に行ったりしており、何故に1日の「新十津川」発着本数下り6本、上り5本と言う閑散路線で、しかも枝線に乗車したかの動機は不明です。参考までに、昭和49年の「札沼線」の「札幌」駅の発着本数は何と11往復!平成24年11月の今の本数とは大違いで、昭和の状況が信じられないか、それとも平成の今の状況が信じられないかは生まれ育った時代によって変わりそうです。私は、平成の状況に隔世の感ありです。

ところで平成の「新十津川」で下車したのは10数名。ただどうみても“乗りに来た”方が殆どで、それも「鉄」の方だけということではなく、『手軽な秘境』を楽しんでいた感じの方もいらっしゃいました。

この後、私はこの駅で折り返すことはなく、タクシーを呼んで函館本線「滝川」駅に抜けたのですが、その運転手さんによればゴールデンウィークや夏休みにはほぼ「観光客」だそうですが結構乗客がいるとのことでした。もっとも大半の方はそのまま折り返しており、バス・タクシー・徒歩の選択は別にして、「滝川」方面に向かう人はそれほど多くはないと聞きました。これは一寸意外でしたが、参考までに昭和49年の私は駅にほど近い「橋本町」バス停から“国鉄バス”で「滝川」駅に向かっています。

※平成の「新十津川」駅舎内には「タクシー会社」の電話番号が掲示されています。呼んでから5分ほどで来てくれました。

なお、昭和49年の「新十津川」駅は有人駅で、当然のことながら入場券がありました。

2012年11月13日 22時28分

平成24年の札沼線=学園都市線(6)「北海道医療大学」から「浦臼」。

5425D「新十津川」行きに乗車。

最初の停車駅は「北海道医療大学」です。

ここが架線の最終地点ですが、正に「北海道医療大学」があるからできた駅であり、その存在があるからここまで電化されたことは間違いないと実感できます。

何せ、大学と反対側には「北海道」の風景が広がっています。ところでこの駅は2面2線の変則的なホームを持っています。私の乗車している5425Dの停車している1番線の向こうに、行き止まり式の2番線が見えます。つまりこの駅にはポイントがあるのですが、交換は出来ない駅です。事前にネットで調べてわかっていればもう少しその形状の分かり易い写真を撮影できたのでしょうが、その点は「鉄旅」ということで悪しからず。(架線が線路上から無くなる瞬間を撮影すべく狙っていたのですが…。今一つで使える代物になっていませんでした)

ここから先は「学園都市線」とはほど遠くやはり「札沼線」という名称こそが相応しい区間となりました。北海道らしい難読駅で知られる「晩生内(おそきない)」は12:06の定時。木製のベンチに心惹かれました。

浦臼は12:16。すっかり近代的な駅舎に改築されていましたが昭和49年には入場券もあった有人駅でした。

2012年11月12日 22時45分

鉄道コレクション(鉄コレ)=名古屋市電1400型

後にも先にも私が持っている「鉄道コレクション(鉄コレ)」は小湊鉄道の「キハ213号」(小湊鉄道の「運転体験」で運転した車両)だけでした、昨日までは…。でも昨日(11月11日)そこに名古屋市電1400型が仲間入りしました。

名古屋市営交通90周年記念で11月10日(土)に発売されたのですが、発売数が『10,000』ということでしたので初日に売切れることはなかろうと思い、昨日、 「こども鉄道博士選手権」の収録の前に「金山」の交通局サービスセンターで購入しました。(土曜日は所用で買いに行けませんでした)

良いですね、1400型。

鉄コレの1421号は「レトロ電車館」にいる電車ですので、次の日曜日(11月18日)に日進工場で開催される『市営交通90周年記念メインイベント』のついでに、レトロ電車館で本物をチェックしてみることをお勧めします。

写真は、廃止直前の「市立大学病院」電停(桜山交差点=地下鉄桜通線「桜山」駅)を行く『1427号』です。

私の人生の中で、一番多くの回数乗車した名古屋市電の型式は間違いなく1400型です。昭和30年代(小学生)の電車の記憶はそもそもないのですが、昭和40年代(中学校~高校~大学)になると記憶が鮮明にあり、特に高校通学時は「桜本町一丁目」と「市立大学病院」の間を毎日使用しており、乗っていたのが31系統(金山橋~笠寺西門)、33系統(東新町~港東通)、61系統(今池~昭和町)の3系統でその3系統とも主力が1400型でした。でも今思い返してみれば、名古屋駅・栄町を中心に活躍していた1400型以降に投入された“無音”電車は、悲しいかな「桜本町一丁目」に現れることなく最終日を迎えました。(私の記憶です)

それでも市営交通90周年の「鉄コレ」が“無音電車”ではなく1400型となったのは、個人的には嬉しく思っています。

ところで写真の31系統は電車の方向幕が「港東通」だったことで選んだ写真です。上に書いた通り、31系統は本来「笠寺西門」までだったのですが、全線廃止間近になり路線縮小が相次ぐなか、最後までの残った31系統はその終点が廃止となった33系統を補完するように「港東通」まで延長されていました。私が高校を卒業してからのことでした。

最初の写真の「鉄コレ」ですが、まだ系統板・方向幕等を貼っていません。「31系統」「笠寺西門」にしようかと思っています。

 

2012年11月11日 20時56分

平成24年の札沼線=学園都市線(5)「札幌」行きの単行気動車。

「石狩当別」で11:15発5425D「新十津川」行きを待っている間に、上り5426D「新十津川」発9:41の「札幌」行きが到着しました。(ここ「石狩当別」から556D)が11:03の定時に到着しました。

もう今は見ることが出来ない全線を通して運転されていた唯1本の“札沼線気動車列車”「札幌」の方向幕の見納めです。ここまで単行で来た5426Dは、ここから先は4両編成となり、列車番号も変わって「札幌」を目指します。

増結されるのは、私がここまで乗ってきた553Dの編成です。2番線に停車していた増結車は、1番線に5426Dが到着してから動き始め11:10頃に連結が終了しました。出発は11:29ですから余裕の作業でした。参考までに「石狩当別」駅のホームでは、「札幌」の『方向幕』の気動車狙いの「鉄」と思しき方が数人待ち構えていました。その方たちで私と同様に「新十津川」行きに乗車した方もいらっしゃいました。

とまあこうして「札沼線(学園都市線)」札幌口の気動車列車の乗り納めは定時に終了しました。ところで10月27日のダイヤ改正で、「石狩当別」~「新十津川」間のダイヤは少々変わりましたが、一番大きな変更は、これまであった「浦臼」発5:54の5422Dが「石狩月形」始発に変わっています。そうなって思ったのですが、車両の運用が…。いや「石狩月形」始発がどうということではなく、下りの「浦臼」行き最終列車の折り返しは…、ということなのですが…。

(追伸)本日、11月11日は「めんの日」「ポッキー&プリッツの日」です。それとは何の脈絡もありませんが、中京テレビのスタジオでは「第2回 こども鉄道博士選手権」の予選が行われました。雨の中、多くの親子の方にご参加いただき感謝します。準決勝は今週の土曜日(11月17日)に、とある列車に乗り込んで行われます。さてその列車とは…。

ところで“追伸”の冒頭で「OOの日」と書いたのは、11月11日はその形から「レールの日」何ていうのもありかな?と思ったからです。11月11日までで複線、11時11分まであると複々線などと考えてしまいました。「鉄道の日」だけでなくてもこういった洒落もあり?と思うのは私だけ…。

2012年11月10日 20時47分

平成24年の札沼線=学園都市線(4)「石狩当別」で乗り換え。

札沼線(学園都市線)の553Dは、10:41に「石狩当別」に到着。かくして札沼線札幌口の“気動車”名残り乗車は終了しました。(ホーム右側に停車中の列車)

恐らくと書くまでもなく、この駅は38年前とは似ても似つかぬ、というより全く異なるといっても過言ではない存在でしょう。38年前のこの駅の記憶は全くないのですが、何故か自信があります。

停車中の列車こそ気動車ですが、架線が張られ如何にも電化路線(当然ですが…)であり、何となく東京か大阪郊外の駅(しかも平成に入って改修された…)に降り立った気分になりました。この表現はあくまでも比喩であり、具体的に思いついた駅があったわけではありません。

駅の外に出てみれば、、、大都市近郊の雰囲気がバリバリに出ており、これだけでも札沼線の発展ぶりが窺えました

駅の外景を撮影しホームに戻ったところで、『竹ぼうき』を見つけました。冬の降雪時、ホームに降り積もる雪を片付けるために置かれているでしょうが、こうした『竹ぼうき』を名古屋の駅のホームで見かけた記憶はなく、北海道(雪国)らしい風景に「ホッとしている」自分がいました。(『竹ぼうき』の用途は私の思い込みかもしれません。違ってはいないと思っていますが…)

 

2012年11月09日 21時29分

平成24年の札沼線=学園都市線(3)542D折り返し553D。

「北海道医療大学」を8:53に出発した「札幌」行き542Dの5両編成は9:45の定時に「札幌」着。堂々たる5連に相応しい数の乗客が次々に下車していきました。架線の下をひたすら走ってきた気動車はここで前2両が切り離し。

この写真は到着直後の9:46の撮影ですので、折り返し時間が10分と言うこともあるのでしょうが、相当に素早く切り離し作業が行われていたことになります。

その作業中にふと見上げたら…。そこにあったのは「OUT OF SERVICE」と「LOCAL」の併記。(日本語の写真も撮影したのですが、ブレブレでした。これでお許しください)

1編成を分割して、2両が車庫入りで3両が列車となる場合は、こうした表記になるのだと納得しました。

この写真の先頭車は『キハ48 1331』。止むを得ないとは思うものの“驚異”の2扉・超ロングシート車で、『北海道の気動車』ではあまり乗りたくない車両でした。で、私は2両目の『キハ142 2』に乗車と相成ったのですが、「札幌」9:55発の3両編成は何と座席はほぼ満席で立っている乗客もいて、電化であったり複線区間の登場も「成程」で、超ロングシート車まで登場させてここまで凌いできたといったところでしょう。



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プロフィール

稲見部長稲見眞一
<自己紹介>
昭和52年4月、中京テレビ放送入社。「ズームイン!!朝!」を始めとした情報番組や「ドラマ」「ドキュメンタリー」等のディレクター・プロデューサーを務めた。鉄研最終回(2010年1月29日放送)では自ら自慢の鉄道写真「俺の一枚」を持って出演。 鉄道歴は小学校5年からスタートしはや半世紀。昭和55年には当時の国鉄・私鉄(ケーブルカーを除く)を完全乗破。平成18年にはケーブルカーも完全乗破。その後も新線が開業するたびに乗りつぶしている筋金入りの“乗り鉄”。好きな鉄道は路面電車。電車に揺られながら窓外に流れる街並みを眺めているのが至福のとき。さてスジを寝かせてゆったり乗り鉄と行きましょう!