2012年06月19日 23時17分

北陸鉄道小松線。

この6月10日までUPしていた「富山地方鉄道」「加越能鉄道」は昭和53年9月11日に乗ったのですが、その後北陸本線で「津幡」まで移動し、9月12日は七尾線「津幡」~能登線「蛸島」に乗車。翌13日は七尾線「輪島」から「金沢」に抜け、北陸鉄道浅野川線に乗り、更に北陸本線「小松」駅を起点にしていた北陸鉄道「小松線」(「小松」~「鵜川遊泉寺」)に乗車しました。

写真は「小松線」の終点、「鵜川遊泉寺」駅です。写っているのはモハ3000形のトップナンバー3001号で、写真で見てとれる通りその車両長は短く(Wikipediaによれば全長14.82メートル)、その小さな電車が1時間に1本程度、5.9キロの道程(みちのり)を15分強で往復していていました。

この小松線は、私が乗車した後も何とか8年間踏ん張り続けましたが、昭和61年に刀折れ矢尽きました。

写真では雑草が目立っており、一見、鉄道としては息も絶え絶えといった感がありますが、それでも線路の部分はきれいに整備されているのが見て取れ、北陸鉄道の保線の方の努力が伺えました。(地方鉄道の終焉間近を見てきた私の感想です)

3001号の車内の写真が1枚残っていました。改めて見て、背もたれが木製であることがとても驚きでしたが、昭和53年当時であってもこれは相当に珍しかったので撮影したのではと思っています。

ところで今回の写真は、実はプリントしていないようです。たまたまネガを整理していた時に、3コマだけのものが出てきて、「オヤッ」と思ってスキャンしたらこの写真でした。 手元にプリントで残っている「小松線」の写真は、起点の「小松駅」のもので、それは逆にネガが行方不明です。

2012年06月18日 18時58分

大阪駅のアンモナイト化石(3)。

当初、今回のシリーズは「大阪アンモナイト」と一捻り(ひとひねり)した訳の分からない怪しげなタイトルにしようかと思ったのですが、何か昭和の時代に遡ったタイトルみたいで平成らしくないと思い直し、ストレートな「大阪駅のアンモナイト化石」にしました。皆さんから「だから何なのだ」と言われればそれまでですが…。

 

さて、3個目の「アンモナイト」です。少々形は崩れていますが、これも「アンモナイト」だと私が信じています。

ところでこの「アンモナイト」探しですが、結構勇気がいりました。何せ、人通りの多い中央コンコースで、1本1本の柱を見ていくのですが、私のような白髪の男性が柱の模様をまじまじと見ている様は不思議な光景でしょうし、なおかつ柱のところで待ち合わせをしている人も多く、その方たちに移動してもらうことは憚られ、そこは避けて通らざるを得ませんでした。また例えば行きかう人々が「ハッピーアンモナイト」の存在を知っていてくれれば、私も躊躇せず堂々と振る舞えるのですが、これがそうはいかない訳でして、もっとも若い女性のグループやカップルであれば、「ハッピーアンモナイト」を探していると公言しても、『素敵ですね』と言われるのでしょうね。少々卑屈な語り口調ですが、これは大阪駅の中央コンコースに立てばご理解いただけるかと思うのですが、つまりは、はっきり言って他の方にすれば『迷惑』が掛からないとは言い切れない部分があるということで、これはただ見るのであれば良いのですが、何せ写真を撮っているものですから・・・。

 

さて、私にどんな“幸せ”がやってきたのでしょうか?

きっと見つけた「アンモナイト」の数だけ幸せが来るのではなく、それが1個であってもお釣りが来るくらいの“幸せ”が来るのだろうと綺麗に纏めつつ、こうして趣味のブログを書いていられる状況が私にとっての一番の“幸せ”ということなのであろうと一人、得心していました。

2012年06月17日 18時59分

大阪駅のアンモナイト化石(2)。

こういうのも何ですが、大阪駅の表情の変貌ぶりは私がついていくにはなかなかシンドイものがあります。こうして写真を撮ってみても、いつからこの建物が建っているのだろうと思ってしまいました。

何せ、私にとって大阪駅は“下車”する駅ではなく“乗り換える”駅で、一番よく使うルートは東海道線~大阪環状線です。大阪はやはり『私用』ではなく、『仕事』で行くことが殆どで、ほぼ年に1回は行っている割には『駅』を観察することは“まず無かった”というレベルでは無く、“全く”ありませんでした。

ということで、発見した「ハッピーアンモナイト」の2個目です。つまり2つ目の幸せが私にやってきたことになります。

そもそもこの「アンモナイト」は見つけ難いのです。もっとも簡単に見つかるなら「ハッピーアンモナイト」などと呼ばれる訳がありません。大理石の柱の模様にしっかり溶け込んでおり、同じ柱を上から下から左から右から何度も見てやっと見つけました。(決して大袈裟ではないと思います)

当初私は、しっかり探せば5~6分で幾つかは「見つかるであろう」と高をくくっていました。それが如何に甘い考えだったかは直ぐに思い知らされる事態となり、結局20分ほど歩きまわって3個を見つけました。恐らく10個も存在しないであろうとは思うものの、4~5個はあるのではと思っていますが、さて如何でしょうか?

 

2012年06月16日 18時39分

大阪駅のアンモナイト化石(1)。

もう2年ほど前でしょうか?JR西日本「大阪」駅の中央コンコースの大理石の柱に、『アンモナイトの化石が潜んでいる』といったような新聞記事を読んだことがあり、その記憶を辿って5月22日に探してみました。

で見つけたのがこの写真の“模様”です。

その瞬間の私の気持ちをお察しください。

綺麗な渦は間違いなく「アンモナイト」。別に私は化石が好きだということはないのですが、それでも“探し物”が見つかったのはとても嬉しいことでした。

アンモナイトのあった柱がこれで、真ん中の横線の直ぐ下、やや左寄りの場所にアンモナイトの化石があるのがお分かりいただけるでしょうか?場所は…、探す楽しみを奪うことは出来ませんので、これ位にしておきます。

 

別に勿体をつけるつもりはないのですが、私がこのアンモナイトは探していたのには理由があります。実はこの「アンモナイト」、別名「“ハッピー”アンモナイト」と呼ばれており、見つけると『幸せ』になれると言われています。ということで、皆さんが“幸せになれる”チャンスを私が奪うことは出来ませんので悪しからずご了承下さい。

俗にいう『都市伝説』の一つでしょうが、それを信じて探すのも面白そうだとは思いませんか?

 

もっともこの柱の写真でも十分に「種明かしのし過ぎである」とお叱りを受けるかも知れませんね。

 

2012年06月15日 18時27分

「スイッチバック 北の鉄道 終列車」(4)。

「三菱石炭鉱業」の乗車券2枚(上の2枚)は、実際に私が使ったものです。片道60円の区間を1日3往復の列車の運行では、等とは考えるまでもないことでした。

 

「三菱大夕張鉄道」とある下の2枚の乗車券は全16枚(内1枚は「大夕張炭山駅」の入場券)のセットで、「南大夕張」駅にて200円で売られていたものの一部です。その全てに「南大夕張」~「大夕張炭山」間が廃止された昭和48年12月15日の日付が入っていました。その中には「三菱鉱業大夕張鉄道」と印刷されたものが3枚、「三菱大夕張鉄道」と印刷されたものが9枚、「大夕張鉄道」と印刷されたものが1枚、それ以外の3枚は社名・線名の印刷がなく、一方で『2等』の文字が入っているものもあって、きっと会社の変遷とは別に、あるものはそのまま最後の日まで使っていたのかもしれません。

何せ、運賃が変わっても「運賃変更」の印を押すこともなく使われていた例は、地方私鉄ではまま見受けられた時代です。

一方、車内乗車券は正に私の乗車時に車掌さんから買ったもので、「南大夕張」~「遠幌」間の小児運賃(30円)のものです。

 

先にも書いていますが、私の乗車時に既に廃止されていた「大夕張炭山」までの全ての駅が入っているだけではなく、発行が「大夕張炭山車掌区乗務員」となっています。

こうして今回、改めて手元の資料を紐解いてみると、30有余年の時間の経過に愕然とするばかりです。

 

『札幌テレビ』に北海道の昭和の鉄道の映像が残っていただけでも、それは貴重な資料といえます。そして今回発売のDVDは「スイッチバック 北の鉄道 終列車」ということで「スイッチバック」シリーズの最終回となるそうですが、以前の2本のDVDも含め、北海道の歴史は『鉄道』と共にあったのであろうと今、思っています。

 

2012年06月14日 18時27分

「スイッチバック 北の鉄道 終列車」(3)。

今回札幌テレビが発売するDVD“終列車”の内容の中に「三菱鉱業大夕張鉄道」の文字がありました。

私が知る「三菱石炭鉱業大夕張鉄道線」の時代ではなく、恐らくその名の頃に撮影された映像があるものと思われます。

この鉄道の画像データは送ってもらっていないのですが、私は昭和52年2月15日に乗車しており、その時の話しを少しさせていただきます。

まず写真は、国鉄夕張線(今のJR石勝線の支線)「清水沢」駅で、「三菱石炭鉱業大夕張鉄道線」はここを起点にしていました。私が乗車した頃は「清水沢」~「南大夕張」間7.6キロを僅か3往復が走るだけの路線で、5レ「清水沢」発16:07の私の乗り込んだ車両の乗客は、全員が高校生だった記憶があります。そして彼ら(何故か女子高生はいなかった?)の座る席はどうやら決まっていたらしく、さほど混んでいない車内にも関わらず、私は随分居心地の悪い思いをしていました。

※写真ではわかりにくいですが、客車から『煙突』が見えています。

 

「南大夕張」に16:28に到着し、その着いた目の前にラッセルの「キ1」が止まっていました。本線や駅構内を稼働していないにしろその雄姿を見られただけでも幸せだったと思います。

この日というかこの時の北海道行きは、以前にも書いた記憶がありますが2月9日に「上野」を出発し、戻ってきたのは25日で17日間という今では考えられない“学生”にしかできない「鉄」旅でした。その旅で、当時北海道にあった鉄道線は完乗しています。しかし、DVD“終列車”に入っている鉄道だけでも「胆振線」「岩内線」「歌志内線」「函館本線上砂川支線」「幌内線」と、消えた鉄道が数多くあるのは、きっと時代の流れということでしょう。

2012年06月13日 22時01分

「スイッチバック 北の鉄道 終列車」(2)。

北海道の「富内線」(とみうちせん)と言っても聞いたことが無いというか、その名の線があったことを知っている方が圧倒的に少数派ではないでしょうか?

私のイメージでは昨日の瀬棚線よりもさらに一回り地味な感じです。で本日の静止画ですが、その「富内線」です。

「富内線」は、室蘭本線の「苫小牧」から日高本線に乗り、4駅目の「鵡川」(むかわ)を起点に、沙流川に沿って日高山脈を分けいり「日高町」(ひだかちょう)までの82.5キロという「名古屋」から「米原」や「中津川」よりも長い距離を結んでいました。廃止されたのは昭和61年(1986年)で比較的最近と言っては語弊がありますが、これはあくまでも私の感想と言うことで…。

 

その「富内線」に私が乗車したのは昭和52年の2月17日です。

「日高町」の駅舎の向こう側にチラッと写っているのが、私の乗車してきた4937Dです。「苫小牧」を定刻から13分遅れ(手元の時計で)の11:27に出発しましたが、「日高町」には定刻の14:02に到着しました。

昭和52年当時、富内線の列車はその多くが日高本線の列車に併結されて「苫小牧」に直通していました。旅客の動向に合わせた運用とは言えますが、気動車らしさを生かしていたと今も思っています。

 

ところで…。この後、このまま折り返そうと思うと「日高町」15:23発で「苫小牧」着は18:19です。そこでというのも何ですが、そのまま日高山脈を越え、根室本線の「金山」を目指すことにしました。もともと「日高町」から根室本線の「金山」までは延伸計画もあったので、そんなルートを辿るのもよいかと思ったのもその選択理由の一つです。

 

今日は長文になっていましたが、「日高山脈」を越えて“十勝”に抜ける『日勝峠』は冬でも通行可能な幹線道路で、今では信じられない事ですが、私はヒッチハイクで「金山」より更に遠い「富良野」まで抜けています。

そして「富良野」発16:50の富良野線636Dに乗り「旭川」着18:01の記録が私の手元に残っています。

 

(余談)

富内線の途中に「穂別」という駅がありました。その界隈は今は「ほべつメロン」の産地として知られていますが、そのメロン農家を18年前に訪ね、その後そのまま「日高町」を通りすぎたことがあります。季節の違いはありますが、感慨深いものがありました。

2012年06月12日 23時10分

「スイッチバック 北の鉄道 終列車」(1)。

中京テレビの北海道の系列局『札幌テレビ』ではDVD「スイッチバック 北の鉄道 終列車」をこの8月4日に発売します。

 

それに先駆けて現在、札幌テレビでは、7月16日まで先行予約受付をしています。先行予約特典や予約受付の申し込み等の詳しい情報は札幌テレビのHPでご確認頂きたいのですが、内容の一部の静止画像が届きましたので皆様にご紹介します。

まずは夕張鉄道の重連蒸気機関車「25号」+もう一両の雄姿です。テレビ局の画像ですので、当然動画から抜いた静止画となるわけですが、この画像が動いているとどうなるかについては、私も今回のDVDが発売され、手元に来るまでは予想が付きません。

(こ静止画は、札幌テレビのHPでも出ています。悪しからずご了承ください)

ところでこの夕張鉄道は昭和49年(1974年)に旅客営業を終え、最終的には翌昭和50年に全廃されました。私は、ギリギリのところでこの鉄道に乗車していません。乗ろうと思えば乗れたはずなので残念でなりません。

もう一枚は瀬棚線です。札幌テレビから撮影場所のキャプションをあえてもらっていませんので区間が分かりませんが、静止画から推察できるのは恐らく函館本線との分岐駅「国縫駅」付近ではないかということです。

 

私自身は、この瀬棚線は昭和52年2月24日に乗車しています。ところが、「瀬棚駅」の入場券は手元にあるのですが、写真が発掘できていません。

2012年06月11日 19時29分

昭和53年の加越能鉄道(2)。

「越ノ潟」を17:00発に乗車した私は車庫のある「米島口」に17:27着。庫内で写真を3枚(たった!です)撮影し、17:42に「米島口」を出て「新高岡」には18:00に到着しました。

写真で、真ん中の線路と言うか車庫の直ぐ右側にいるのは今は無きデ7000形「7051号」で、その右側は「7053号」。その「7053号」の後ろにもう一両デ7000形らしき電車が写っています。

一番右端に停まっているのがスノープラウを付けた5022号で、「高岡」~「富山」直通時代の生き残りです。

つい今年まで現役だったのは信じ難くとも嬉しい状況でしたが、新しい除雪車が登場したため、その活躍を見ることはもうありません。

もっとも新しい除雪車は、とてもユニークな車両なので稼働し始めると話題を集めそうです。

 

少々懐かしい話しにお付き合いいただきありがとうございました。

 

(補足説明)

「高岡」~「富山」市内の直通運転ですが、その期間は昭和26年~昭和36年の間で、その頃は『西町』まで乗り入れています。その後、「富山新港」建設による分断を経て、昭和52年から廃止された昭和55年の間の射水線は『富山駅前』まで乗り入れていました。

 

2012年06月10日 20時29分

昭和53年の加越能鉄道(1)。

写真は、昭和53年9月11日の加越能鉄道・新湊港線「越ノ潟」駅です。今の万葉線株式会社新湊港線「越ノ潟」駅ですが、『新湊港線』(「越ノ潟」~「六渡寺」)というより、『高岡軌道線』(「六渡寺」~「高岡駅前」)を合わせて“万葉線”と言った方が、通りが良いですね。

 

ところで今回の文章の冒頭で“駅”を使っているのは正にここが鉄道線の“駅”であるからで、決して軌道線の“停留所”ではないからです。

“万葉線”の『新湊港線』区間が“鉄道線”で、『高岡軌道線』区間が“軌道線”であるということは、利用者にとっては別段何の不便も無く、そもそもその直通運転は昭和26年(1951年)からの話しです。

 

ところで先回の射水線「新港東口」からの足取りですが、駅を出て直ぐのところにあった『富山県営渡船』堀岡発着場発16:50のフェリー(無料!)に乗り、越ノ潟発着場には16:55に到着。そして「越ノ潟」発16:55発の「新高岡」行きに乗り込みました。

今の「高岡駅前」は当時、「新高岡」と呼ばれており、それは7076号の方向幕からも明らかですが、Wikipediaによれば私の乗車した翌年(昭和54年)に改称され、更に言えば昭和55年に『新湊港線』『高岡軌道線』を合わせて『万葉線』の愛称となっています。(万葉線HPも参照しています)

 

更に付け加えると、昭和26年当時は「地鉄高岡」(今の「高岡駅前」)から“万葉線”経由“射水線”経由で富山地方鉄道の軌道線「西町」まで電車は直通していました。

これは富山新港建設により、昭和41年に「新港東口」~「越ノ潟」間の線路が分断されるまでは1本の線路で繋がっていたことによるもので、このあたりの変遷は他に多数紹介されているのでここまでにします。

 

でももう一点だけ。今回、射水市新湊博物館の企画展に行かれた「鉄友」の方からお借りした特別解説書に、昭和41年に分断された「新港東口」~「越ノ潟」の射水線の橋脚の写真が載っていました。その方も『まさか!』と言っておられましたが同感です。



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プロフィール

稲見部長稲見眞一
<自己紹介>
昭和52年4月、中京テレビ放送入社。「ズームイン!!朝!」を始めとした情報番組や「ドラマ」「ドキュメンタリー」等のディレクター・プロデューサーを務めた。鉄研最終回(2010年1月29日放送)では自ら自慢の鉄道写真「俺の一枚」を持って出演。 鉄道歴は小学校5年からスタートしはや半世紀。昭和55年には当時の国鉄・私鉄(ケーブルカーを除く)を完全乗破。平成18年にはケーブルカーも完全乗破。その後も新線が開業するたびに乗りつぶしている筋金入りの“乗り鉄”。好きな鉄道は路面電車。電車に揺られながら窓外に流れる街並みを眺めているのが至福のとき。さてスジを寝かせてゆったり乗り鉄と行きましょう!