2012年03月13日 18時31分

名阪ノンストップ特急へのレクイエム(1)。

今年の3月のダイヤ改正のトピックス(一大事)は、何も新幹線の100系・300系に限りません。皆さんもご存じのようにJR西日本では、紀勢本線の特急列車名が「くろしお」に統一されますし、JR東海・小田急でも「あさぎり」が御殿場止まりになりJR東海車による小田急「新宿」乗り入れが無くなります。(こちらは残念ながら私は未体験で終わりそうです)

そんな中、名古屋に暮す人間にとっての一大事(少々大袈裟ですがご理解はいただけると思っています)は、近鉄のダイヤ改正です。実は知人から、「最後に乗りに行きますか?」と聞かれ、「一寸スケジュールがとれなさなそうです」と答えたものの、やはり気になって最後のお別れ記念乗車を決断。先月(2月)22日、平日だったのですが、お休みを頂き、午前中に個人的な所用をこなし、「近鉄名古屋駅」に急ぎました。

実は、そもそも午前一杯掛かるはずの用事が、私の心がけの良さ(そんなことは誰も思ってもらえそうに無いですね)からか段取り良く片付き、何と10:00発の「大阪難波」行きに間に合いました。
そうっ、もう写真でお察しの通り、私の『お別れ記念乗車』の目的は名阪“ノンストップ”特急 。近鉄名古屋駅5番線ホームの列車案内表示で、次駅が『鶴橋』となっているのを見ることが出来るのも残すところ1週間。
私にとって、ここのところすっかりご無沙汰だった名阪“ノンストップ”特急。久し振りに乗車したこともあって、新鮮な感想も含め、少々書かせていただきます。

ところで『名阪』って、どうして『阪名』ではないのでしょう?「名神高速道路」は東京を起点とする“上り”~“下り”の流れで『名神』だろうと思うものの、『名古屋』を先にする必然性は近鉄には無かったのではと思います。
東京六大学野球等で、俗に「早慶戦」と呼ばれる試合の際、慶應義塾大学の学生は「慶早戦」と呼んでいるはず。比較の対象にすることではありませんが…。

大阪の人から見て、「名古屋」が先にあることに抵抗感があるとは聞いたことは無いのですが・・・。

2012年03月12日 18時42分

JR北海道と台湾鉄路管理局(2)。

1日おいての続きの話しです。今日、「SL冬の湿原号」と台湾の蒸気機関車牽引列車の『姉妹列車提携文書交換式』は無時行われたようです。

その台湾側の蒸気機関車の1両が今回の写真の『CK124号機』です。平成22年3月10日にUPした写真と同じ平成20年8月24日の撮影ですが、台湾鉄路局集集線の終着駅「車てい駅」で撮影したものです。
※「車ていえき(しゃていえき)」は現地での読み方ではなく、日本語での読み方です。「てい」の字は「土」偏の右側に「口」とその下に「壬」がついた字です。「しゃていえき」で検索すればWikipedia等で確認できます。文字化けの可能性があり、こうした表現にしました。ご了承ください。

台湾ではこの『CK124号機』と『CK101号機』の重連が牽引する列車が運転されたはずです。
その列車が走ったのは台北からほど近い内湾線で、先回書いた「新竹駅」から終点の「内湾駅」の間です。

私事で恐縮ですが、台湾の鉄道は地下鉄も含め、一般の営業路線はほぼ乗っているのですが、数少ない未乗区間の一つが今回、記念列車が走る「内湾線」で、乗っていない理由は、昨年の秋まで工事のため4年半ほど区間運休をしており、乗りたくても乗れなかったためです。

(参考;JR北海道のプレスリリース資料から)台湾の『CK124号機』は日本の『C12形』と同形です。一方、『CK101号機』は台湾オリジナル形のタンク機で大正6年製のオールドタイマーで、写真で見る限り絵に描いたような“古豪”でした。

ところで今回の写真を見て、線路の際というか、日本では絶対に入ることが許されない位置に人が写っていますが、この周りにも人が一杯いて台湾での蒸気機関車熱(鉄道ブーム)をこの時に初めて実感する一方、列車が徐行することも警笛を鳴らすことも無く平然として入線した事は驚きでした。古き良き昭和の時代の日本でも、ここまでは許されていませんでした。
もっとも、4年の歳月を経て、多少の変化はあるかもしれませんが…。

また言うまでもなく、平成20年の列車の車内は当然ながら満席で、私が当日予約で乗車できたのは“奇跡”と言っても過言ではない状況であることを乗ってから実感しました。
よって今日、3月12日は、台湾側の内湾線沿線でも日本同様、人で溢れる事態があったかも?です。また4年前は台湾では「撮り鉄」さんを殆ど見なかった記憶ですが、今回は日本からではなく、地元の“撮り鉄”さんの姿も見られたかもしれません。

それにつけてもこうした姉妹列車提携は素晴らしいことだと思います。

2012年03月11日 16時58分

東日本大震災から1年。

平成23年3月11日(金)の東日本大震災から1年が経ちました。
インフラの一つであるはずの鉄道は、未だそのネットワークを復活させる目処がたっていません。

私は震災後に被災地に足を踏み入れておらず、今回の震災に対しての自身の考えをこのブログで語る言葉を今は持ちません。勿論、様々な視点からその実態を伝えるメディアからの情報はあるものの、自分の目で確かめ、そこで暮らす人々の言葉を噛みしめてこそ、人に伝える自分の言葉を持ちうると思っています。

それでもやはり今日と言う日に一言だけ・・・。

私が東北地方に初めて足を踏み入れたのは昭和48年9月7日でした。(名古屋を出発したのは9月5日)
当時、国鉄には名古屋発で13日間、東北地区の国鉄(国鉄バスを含む)乗り放題の東北周遊券(均一周遊券)があり、それを利用しての大学夏休みの“観光”旅行でした。
その頃の東北地方の鉄道は、今の秋田内陸縦貫鉄道である「鷹ノ巣」~「角館」間は全通しておらず、また宮城県・岩手県の太平洋岸を繋ぐルートも“線”ではなく、“鉄道ネットワーク”とは言い難い状況でした。そんな不完全な状況ながら、バスも繋いでの“インフラ”は一応成立していたことからこの周遊券は存在しえたと思っています。

もしもこの『東北周遊券』が今もあったとして、それをフルに活用できる日はいつかくるのでしょうか?それとも・・・。
この東北周遊券の裏面には地図があります。
“復興”とは地図を作り直すことではないかとも思っています。

今日は1個人の考えと言うことでお許し下さい。

2012年03月10日 17時42分

JR北海道と台湾鉄路管理局(1)。

※写真は「海底力モニター体験会参加時に撮影」

今回の上段写真は、平成22年2月21日、『C11207号機』が牽引する「SL冬の湿原号」の釧路運輸車両所の出庫を撮影したもので、下段写真は2月19日、釧路運輸車両所の見学時に撮影した同じく「SL冬の湿原号」のヘッドマークを付けた『C11171号機』です。
何れも「JR北海道釧路支社」と「くしろ圏広域観光推進コンソーシアム」が共催した『冬のSLと石炭のマチ・釧路』というツアー参加時に撮影したもので、平成22年2月26日からこのブログでツアー時の話しをUPしています。
(余談)釧路運輸車両所は通常公開しておらず、特別な許可を得て入っており、そのため車両所内で撮影した写真については「海底力モニター体験会参加時に撮影」と必ず書くことでブログ等での使用が認められています。

ここからが本題です。
今回、この「SL冬の湿原号」と台湾鉄路管理局の蒸気機関車が牽く列車が平成24年3月12日に“姉妹列車”の提携を結ぶことになりました。

上記のツアーでお世話になり、その後親交が続いている「釧路臨港鉄道の会」のブログ「つれづれ鉄道日記」(3月9日)にこの話題が載っており、早速そこからリンクが貼ってあった「JR北海道」HPのプレスリリースを読んでみました。
で、3月12日(月)10:35から釧路駅にて『姉妹列車提携文書交換式』が行われ、日本時間の11:09で台湾時間の10:09、JR北海道「釧路駅」と台湾鉄路管理局「新竹駅」の両駅で同時に機関車の汽笛を鳴らし、列車が出発するというイベントが行われることがわかりました。
そうなんです。同時刻に汽笛が鳴るのです。考えただけでもゾクゾクするのですが、どんなに頑張っても2つの汽笛を同時に自分の耳で聞くことは絶対に出来ません。こればっかりは致し方ないですね。

ところで『C11171号機』と『C11207号機』の2つのC11の写真を使ったのは、この記念すべき日の「SL冬の湿原号」が重連で運転されることによるもので、台湾側も蒸気機関車重連の牽引する列車が運転されます。釧網線沿線に「撮り鉄」さん達が並んでいる姿が目に浮かびます。

2012年03月09日 19時17分

さよなら「300系」(4)『名古屋』でお別れ。

車内は空いていましたが、新大阪では数人のカメラを持った方に見送られ、名古屋でも同様の出迎えを受けました。
上段写真は、名古屋駅に着いてから先頭車まで急ぎ、撮影したのですが、お隣の16番線(左側のN700系)に入ってきつつあるのは「のぞみ53号」(東京発博多行き)。名古屋着は18:34ですので恐らく名古屋に少し早着で、「ひかり482号」の名古屋発18:33が少し遅れた偶然の産物からこの「300系」と「N700系」の揃い踏みが撮影できたのではないかと思っています。(確証はありませんが…)

下段写真は、「ひかり482号」を見送りつつ撮影したもので、テールランプがやがて見えなくなり、こうして私の「300系」乗り納めは終わりました。

今日現在、まだ走っている「300系」ですので、これからも暫く『見に出かける』ことは可能でしょうが、流石に乗ることまでは難しいと判断し、この日、敢えてこの「ひかり482号」を選びました。
理由は、まあ、大阪からの帰りの時間を少し遅くすれば乗れたということもありますが、何より「ひかり」とはいえ京都~名古屋間は無停車で、「新大阪」~「名古屋」の所要時間52分は700系、N700系と遜色なく、「300系」がまさに「のぞみ」の先駆者であったことを実感させてくれると思ったからです。

余談:日の出前や夕方、というか今回の様な『夜』の写真を手持ちかつノーフラッシュで撮影できるのは“デジタルカメラ”のおかげですね。フィルムカメラの手持ち撮影では決してこうはクッキリと撮影出来ていなかったでしょう。好みの問題は有るでしょうが・・・。
実はテールランプどころか結構なスピードで動いている車体がピタッと止まっている写真を見て、「テールランプを見ている心は揺れているのに・・・」等と贅沢な感想を持っていました。

一足早いですがこのブログでは今回、書かせて頂きます。『さようなら「300系」。』

2012年03月08日 19時42分

さよなら「300系」(3)『新大阪』にて。

「300系」と言えば『のぞみ』。『のぞみ』と言えば「300系」ですね。
平成4年の登場時、下りの『のぞみ』は東京駅6:00発の“301号”と21:18発の“303号”の2本しかなく隔世の感があります。また“301号”は名古屋駅に停車せず、それが「のぞみ」の「のぞみ」たる所以(ゆえん)なのでしょうが、名古屋では「社会問題とまだ発展した」とここで書いても決して大袈裟とも思えない状況で、私の周りにも『名古屋駅を通過する新幹線』見物に出掛けた人がいた記憶が薄らですが確かにあります。
※上りは新大阪6:12発の“302号”と21:18発の“304号”です。
最高時速270キロで東京~新大阪間の所要時間の2時間30分が知られている『のぞみ』登場でしたが、東京~名古屋間の1時間36~7分も名古屋人としては結構、センセーショナルでした。

さてやっと写真の話しですが、先月(2月)の22日(水曜日)、所用で大阪に出掛けた際、帰りに「300系」の乗り納めをすることにしました。
乗ったのは「ひかり482号」(上段写真)で、新大阪発17:40、名古屋着18:32。指定席は15号車(喫煙者)8番E席。普段は禁煙車しか乗らないのですが、まあ、最後の最後に“喫煙”マークの入ったEX-ICの利用票をコレクションするのも『まあありかな?』と思った次第です。

思いの外というか思った通りと言うか車内は空いており、“引退間近”といえども平日の夕方、新大阪を発車する列車の車内は、岡山始発にも関わらず下段写真の状況でした。

ところでこの座席は私には決して近い存在ではありませんでした。300系「のぞみ」の登場当時、「のぞみ」の本数が少なかったことと、「のぞみ」料金がかかったこともあって『出張時』に利用することはなく、まともに「のぞみ」に乗ったのは翌平成5年5月8日、福岡市営地下鉄が『博多』~『福岡空港』間の延伸区間を乗りに行ったときです。
この年、山陽新幹線のキャッチフレーズの「ひかりは西へ」ならぬ「のぞみは“西へ”」と博多まで走るようになりました。当時、全車指定席ということも含め正に日本のフラッグシップ列車でした。多分、こう思ったのは私だけでは無いはずです。

2012年03月07日 19時00分

さよなら「300系」(2)“引退記念弁当”の中身。

お弁当の蓋を開けると、何と蓋の内側に色々な記載がありました。右上には「弁当紹介」があり、『この記念弁当は、300系「のぞみ」が全盛期であった当時、車内販売で最も人気のあった幕の内弁当のメニューをベースに、当時の味を再現しました。』(全文転載)とあり、その下に“お品書き”(内容)が書いてあったのですが、この写真では、それは確認できません。
なぜならその位置には、先に紹介した「300系引退記念カード」の裏面(“300系”の諸元表)が見た目では逆さまに顔を出しているからです。

まあ、“お品書き”に書かれた品々は写真で見ていただいた通りですので、ここでの転載は控えますが、目を引くのはやはり左側に大きなスペースをとって書かれている文章です。
このブロックは『パーサーから300系「のぞみ」へのメッセージ』と題され、「1992年3月14日、早朝6時、東京駅14番線・・・のぞみ301号・・・全車指定席・・・」と、当時が懐かしく思い出される正に“パーサー”さんからのメッセージが綴られており、最後に「そよさら300系、そして、ありがとう300系」の言葉で終わっていました。
※1992年=平成4年です。

私は弁当に手をつける前に、思わずこの全文を読んでしまい、そして「おかず」に目をやり、『300系』と焼き印の付けられた玉子焼きに妙に哀愁を感じてしまいました。

そんな感情を自らぶち壊して皆様には申し訳ないのですが、多分どころか間違いなく20年前にこの弁当を食べているとは思うものの、その再現の程度が私には見当がつきませんでした。無念の一言です。
あっ、お弁当の1100円は私にとっては味も含めて価値ありでした。参考までに。

2012年03月06日 18時59分

さよなら「300系」(1)“引退記念弁当”。

3月5日の日曜日、知人(「鉄」ではありません)から『お土産があります』と連絡が入り、ということで我が家にやってきたのは、「ありがとう300系引退記念メンチカツサンド」(上段写真.500円)と、「ありがとう300系引退記念弁当」(下段写真.1100円)×2個でした。

いよいよ来週金曜日(3月16日)に300系のラストランが迫ってきましたが、この2つの記念商品が、こんな形で手に入り、それを食することになるとは思いもよりませんでした。因みにこの“弁当”は遠路はるばる「東京駅」からのお出ましで、これを『奇縁』と言わずして何と言うのでしょうか?

さて、これらとの“面会”に当たり、「相好を崩す」瞬間を覚られまいとは取り繕ったものの、居合わせた家族にはあっさりと見破られてしまいました。致し方ありません。

ところでメンチカツサンドは「300系」の雄姿もりりしいパッケージが魅力的で、値段も手頃です。小腹が空いている時か、大食漢の方は明日紹介します「弁当」とセットにすれば『大満足』間違い無さそうです。

また下段のお弁当ですが、皆様もご存じとは思いますが、「300系引退記念カード」がついています。
写真の外箱の300系の右上側、6人並んだパーサーさんの左側にチラッと顔を出しているのがそれです。
今回私の手元には“×2”がきましたので、その結果カード②と④が揃いました。
因みに②は弁当の外箱の写真に近い絵柄で、④は車庫でズラリ並んだ『300系』です。
と、ここまで書いたところで知人から再度連絡があり。自宅用に買った弁当には①と③が入っていたので「後日持っていきます」とのこと。
感謝感謝です。

私が出会った「鉄」の方に『駅弁』の包装紙を集めている方がいましたが、こういう場合、カードが揃う4個を買うのでしょうか?聞いてみたいところですが4枚揃うと分かったら何となく嬉しい自分がいます。

2012年03月05日 17時54分

「100系」のステーショナリーセットをご存知ですか?(2)

そう言えば30年ほど前、鋏(はさみ)・ホッチキス・セロハンテープその他の文房具をまるでパズルのように組み合わせたステーショナリーセット(まあ、一工夫した文房具セットといったところですが)がプチブームになり、オフィス等の机の上で実用的に使うというより、まるで飾りの如く置いていた人がいました。(私のことかも知れません・・・)

本題(本日の写真)です。100系のステーショナリーセットを箱から出すとこんな感じです。
上段は、3両を連結してみました。デザイン(特に前頭部)が結構リアルで、玩具っぽくない所が好感を持てます。
左から「色エンピツ車」「ハサミ車」「エンピツケズリ ケシゴム車」で、因みに“レール”は「定規」です。
中段写真は、車体からハサミを、下段写真は鉛筆削りと消しゴムの部分を出してみました。それにしても『鉛筆削り』という存在は、今、会社ではあまり見かけません。私自身、会社や外出時はシャープペンシルを使っており、鉛筆を使うのは自宅だけです。(我が家の鉛筆削りは現役です)

もしも私がこの「スーパーステーショナリー」の持ち主なら、是非とも会社の机の上に飾ってみたいと思いました。もっともそんなことをしたら、きっと周りどころか会社中の人がドン引き間違いなさそうです。
とはいうものの私の机の上には“実用品”としての東京メトロ副都心線の「10000系ホッチキス」がいます(このブログで平成22年4月23日にUP)ので大差は無いかも知れません。

一方、9ミリゲージの模型をやっている人なら、このセットはその側線にでも飾っておけそうです。そうっ!何とこれは自走しない9ミリゲージセットなのでした。

何れにしても一昨日UPした平成21年の「こだま号」が私にとって最後の100系乗車でした。その後、九州に新幹線で向かう際に、恐らくすれ違うか追い越すかし、きっと見た事はあるはずなのですが…、思い出しません。
あまりにも身近すぎた存在であり、日常の一コマだった100系と私の関係の最後はあっけないものでした。

2012年03月04日 17時53分

「100系」のステーショナリーセットをご存知ですか?(1)

昭和60年に登場し間もなくその姿を消す新幹線「100系」。
その「100系」をモチーフにした『スーパーステーショナリー』というネーミングの文具セットがあったと知ったのは、つい最近です。
所有者は名古屋レール・アーカイブス会員のHさん。
「稲見さん、100系の文具セットがあったのを知っていますか?」と聞かれ、「えっ?」と答えたところ早速見せていただけました。

上段写真のパッケージを見て、もしも「スーパーステーショナリー」の文字が無ければ、プラレールっぽいというか、子供向けのプラスチック製おもちゃの感も無きにしも非ずです。

裏側(出段写真)には、このステーショナリーが文具たることを主張する使い方が載っているのですが、もっと注目すべきは、左側の女性のイラストで、食堂車の“ウェイトレス”さんであること。
で、目を凝らしてその女性の下にある「発売元」の会社名。何と『帝国ホテル列車食堂』。何と、このステーショナリーは食堂車、当然の事ながら『帝国ホテル』の食堂車で売られていたようです。
私は出張で何度も100系には乗車していたのですが、食堂車を利用した事は殆どありません。このステーショナリーの存在は全く知りませんでした。
※製造元は「バンダイ静岡工場」と書いてありました



ADVERTISEMENT

電子書籍「稲見駅長の鉄道だよ人生は!!」
稲見駅長の鉄道だよ人生は!! ―各駅停写の旅―

カレンダー

2021年2月
« 7月    
 123456
78910111213
14151617181920
21222324252627
28  

プロフィール

稲見部長稲見眞一
<自己紹介>
昭和52年4月、中京テレビ放送入社。「ズームイン!!朝!」を始めとした情報番組や「ドラマ」「ドキュメンタリー」等のディレクター・プロデューサーを務めた。鉄研最終回(2010年1月29日放送)では自ら自慢の鉄道写真「俺の一枚」を持って出演。 鉄道歴は小学校5年からスタートしはや半世紀。昭和55年には当時の国鉄・私鉄(ケーブルカーを除く)を完全乗破。平成18年にはケーブルカーも完全乗破。その後も新線が開業するたびに乗りつぶしている筋金入りの“乗り鉄”。好きな鉄道は路面電車。電車に揺られながら窓外に流れる街並みを眺めているのが至福のとき。さてスジを寝かせてゆったり乗り鉄と行きましょう!