2010年08月04日 17時47分

昭和45年の広島・呉線 下り急行「安芸」

ニコマートFTNで撮影したC6223号機
昭和45年3月31日、山陽本線「向洋」~「広島」間。

列車は、東京を前日の20:05に出発した
呉線経由広島行きの37レ急行「安芸」。
広島着12:15の直前に捉えました。
オール寝台車の10両編成。
*A寝台…2両、B寝台…7両、食堂車
急行列車としては座席車のない豪華な編成でした。

終着間近とあってスピードはさほど出ていなかった記憶が
蘇りましたが、それでも山陽本線区間を
C62牽引のヘッドマーク付き列車は
堂々たる貫禄で目の前を通り過ぎていきました。

●カメラ…ニコマートFTN
●レンズ…ニッコール50ミリ、F1.4
●絞り…F11
●シャッタースピード…1/250
●フィルム…フジカラーR100

2010年08月04日 9時00分

昭和45年の広島・呉線 私の行動

私は、高校生の時から、『鉄道旅行』の行程は帰宅後、
写真の様にノートに記録していました。
(最近はこんなにコマメにはやっていませんが…)

昭和45年の3月30日、
名古屋から急行「比叡3号」で京都まで。
京都から急行「音戸2号」(京都発呉線経由広島行き)に乗車。
間違いなく普通車で、直角の背もたれに
体を預けていたことと思います。

朝一番に「広」で「音戸2号」を捨て
(当時はこんな『捨てる』というような言い方もあった。)
天応、広島、吉浦で撮影し、その後広島に戻り
往路と同じ急行「音戸2号」で京都に向かっています。
※実は、呉線内の「音戸2号」は往路・復路ともSL牽引。
※若い方はあまりご存じないかも知れませんが
 この頃「音戸2号」も「比叡3号」も上下列車ともに存在。
 数字の号数が上り偶数、下り奇数となっていたのは
 当時は新幹線位だった。

昭和45年3月31日の私はこの日、
「呉線」を乗破プラス「撮り鉄」をやっていたことが
見て取れます。
皆さんは「鉄道」行動の記録はどうされていますか?

2010年08月03日 18時25分

昭和45年の広島・呉線 ニコマートFTN

私が最初に手にした一眼レフ、ニコマートFTNです。
当時、一眼レフの最高峰は、ニコンFと言われていました。
そのニコンFと同じレンズが使えて
しかも値段的にはリーズナブルということで
人気がありました。
それでも高校生が簡単に手に入れられるものではなく
“親の助け”もあって何とか私の手元にやってきました。

レンズは標準のみ。焦点距離は50ミリ。
レンズの明るさはF1.4。
交換レンズを購入したのは、本格的にアルバイトを
始めた大学生になってからです。

今回の広島・呉線の写真は全てこのカメラで
撮影したものですが、標準レンズの画角も
なかなかいいものだと気付きました。
また私は、もう何年も1眼レフを使っておらず
持ち運びも考えてコンパクトデジカメだけで
通しています。
※その分、何も考えずにシャッターを押し続けており
 いくら「乗り鉄」でも写真は気合を入れて
 撮るもんだと改めて実感しています。

もう一度、一眼レフに戻ってみようかと思い始めています。

2010年08月03日 9時00分

昭和45年の広島・呉線 C59162

昨日の夕方UPしたのと同じ場所ですが
こちらはC59162のバック運転です。

上り普客922レ「広島」発15:53
「広」着17:06でした。
※撮影ポイントの最寄り駅「吉浦駅」は16:41発。

日本を代表する大型蒸気が定期でバック運転するのは
「広」にターンテーブルが無かったのが
その理由と記憶しています。

そもそも、「広」~「広島」間は33.2キロしかなく
C59やC62が働くほどではなかったと思いますが
この蒸気が働くことのできる場所が他に無かったからと
いうことでしょう。

それにしても、どうやって進行方向の安全確認を
していたのでしょうか?
機関士さん、機関助士さんの負担は
如何許り(いかばかり)であっただろうと思う次第です。
※その前に運転そのものも難しかったでしょうね。

2010年08月02日 18時24分

昭和45年の広島・呉線 C59164

朝UPしたC59164の走行写真です。
※C59164…「糸崎機関区」のカマ。
撮影した場所の選定が今一歩で
電線がうるさいのはご容赦ください。

場所は呉線吉浦~川原石間。
上り924レ普客です。
「広島」を16:32に出て「広」到着が17:41でした。
当時の呉線は、大型蒸気の最後の砦といわれ
C59、C62の牽く客レが雁行し、
鉄道マニアが全国から押し寄せていました。

特に、「広」~「広島」間は通勤・通学列車も
多数運転され、効率がいい線でした。

現在の呉線は電化されたものの、駅数が多くなっているので
一概に比較は出来ませんが、
普通列車同士であれば、蒸気牽引の客レは
所要時間で相当に頑張っていたと言えます。

(参考)
C59164は、梅小路蒸気機関車館で保存されています。

2010年08月02日 9時01分

昭和45年の広島 C59164

この写真を撮影したのは昭和45年3月31日。
場所は広島機関区です。

その頃の国鉄は、『鉄道マニア』におおらかなところがあり
入構許可を得るためにちゃんと事務所にあいさつに行けば
一部の例外はもちろんありましたが
機関区内で撮影をさせてくれました。
※その頃、「鉄」「鉄オタ」という言葉はなく
 まして「撮り鉄」「葬式鉄」という言葉も存在しなかった。
 ジャンル分けも「模型派」とそれ以外くらいだったのでは。

ところで最近私は、今朝の写真もそうですが
フィルム写真のデジタル化を始めました。
本当に一歩ずつで遅々として進まないものの
このブログがあるので、ストップはしなくなりました。

で、この写真ですが、私にとって初めて使用した
リバーサル(ポジ)フィルムの栄えある1枚目。
そもそもこんなUPサイズだったのは意外でした。

2010年08月01日 18時16分

明智鉄道気動車体験運転 7月24日は暑かった。

明智駅を出て直ぐ右のところにあった
7月24日、体験運転修了直後の気温表示です。

決して私たち、体験運転参加者の熱気がもたらしたものでは
ありません。

この日、明智に比較的近い「岐阜県多治見市」では
38.6度(日本一)もあり、さすがに明智も暑かった。

なぜ最後に気温の話しかとお思いの方に…。
体験運転では、ディーゼルエンジンを一人の体験につき
必ず一回切ります。

もうお気づきの方もいるかと思いますが、エンジンを切れば
『エアコン』は止まるのです。
体験運転なので、「エンジンスタート」が
如何に重要な儀式かを参加者も明知鉄道の方も
よくよく分かっていることもあり、全員、
諦めて暑さに耐えていました。

最後に、明知鉄道の勝さん、西尾さん、遠山さん、
小川さんお世話になりました。ありがとうございました。

2010年08月01日 9時00分

明知鉄道気動車体験運転 運転中

気合十分で、ノッチ操作とブレーキ操作。
何だかんだと言っても、
やっぱりこれをやりに「明智」まできました。

事前の説明会も、点検の流れの学習も
全てはこの写真のためと言っても過言ではありません。

でも実はこの時、私は大失敗の最中だったのです。
写真では見えていませんが、
左足が『デッドマン足踏スイッチ』から離れてしまって
いたのです。
※運転中、左足は常にこのスイッチに置くことになっている。
 スイッチから5秒間、足が離れると警報がなるという
 安全装置。
 その警報を私は鳴らしてしまい、直ぐに足を置き直した。
 (もっと長く離すと緊急停車)

今回の結論…どんなに肩に力が入ってみっともない写真しか
      撮れなくてもやっぱり実車の運転は楽しい!
      これにつきます。

またいつか挑戦したいと思っています。

2010年07月31日 18時48分

明知鉄道気動車体験運転 一番難しかったこと

今回の気動車体験運転で一番難しかったことは
ノッチ操作。
因みに写真で私の左手はノッチを持っており、
右手は私ではなく他の方の手で
「インジケーター」を指してもらっています。
※インジケーターには「1」「2」…という数字であったり
 「切」など、ノッチの位置に合わせた表示がされます。

この28日の午前9時にUPした分を
ちょっと見てほしいのですがノッチの説明が
わざわざ黒板に書いてあります。

スピードを上げる際に、ノッチを指定位置の
例えば、『1』『2』とか入れていくのですが
これが意外と難しい。
「何が?指定位置に入れるだけでしょ…」と
思われるかもしれませんが、それは慣れたらの話し。

『カチッ』という感覚はあるのですが
問題は、数字と数字の間。
何と、フルスロットルになってしまうのです。
勿論滑らかに各数字のポジションに入れれば
そんなことは起きないのですが
素人がやることなのでそうは行かない!
私もやらかしてしまいました。
※参考…今回の体験運転でノッチは「2」までしか
    使っていません。

やっぱり『プロ』の世界は一筋縄ではない!!!

2010年07月31日 8時04分

明知鉄道気動車体験運転 寒天列車到着

本筋とは大分離れますが…。

参加者13名が交代で体験運転をしているその最中に、
明知鉄道の一大名物「寒天列車」が
明智駅に到着しました。13:41定刻でした。

明知鉄道では恵那発12:45、
明智着13:41で様々なグルメ列車を運転しており
特に「かんてん村の寒天ずくし」のヘッドマークも
誇らしげな“寒天列車”は
明知鉄道で昭和62年からスタートしたその元祖です。
※確か前は「ヘルシートレイン 寒天列車」と
 言っていた記憶がありますが
 明知鉄道のHPでは特にそれを謳っていないようでした。

寒天列車明智駅到着時、
私は他の方の「体験運転」を見ることもなく、
この列車から降りる方たちを見ていたのですが
多分、満席。(定員30名)
殆どが中高年の女性で、「鉄」ではないので
駅到着時に、アケチ10号やヘッドマークを
撮影することもなく、日本大正村に向けて散っていきました。



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プロフィール

稲見部長稲見眞一
<自己紹介>
昭和52年4月、中京テレビ放送入社。「ズームイン!!朝!」を始めとした情報番組や「ドラマ」「ドキュメンタリー」等のディレクター・プロデューサーを務めた。鉄研最終回(2010年1月29日放送)では自ら自慢の鉄道写真「俺の一枚」を持って出演。 鉄道歴は小学校5年からスタートしはや半世紀。昭和55年には当時の国鉄・私鉄(ケーブルカーを除く)を完全乗破。平成18年にはケーブルカーも完全乗破。その後も新線が開業するたびに乗りつぶしている筋金入りの“乗り鉄”。好きな鉄道は路面電車。電車に揺られながら窓外に流れる街並みを眺めているのが至福のとき。さてスジを寝かせてゆったり乗り鉄と行きましょう!