2010年07月05日 18時15分

長良川鉄道 タブレット

長良川鉄道の美濃白鳥~北濃間は
1列車しか進入しないスタフ閉塞式ですが
写真中央のタブレットをスタフとして
使用しているようでした。

美濃白鳥で駅員さんからタブレットを受け取った
運転士さんはこの位置にササっと置いたので
多分、定位置があるのだと思われます。

そして北濃から美濃白鳥に戻ると
今度は運転士さんが駅員さんにタブレットを渡しており、
その姿を見ていると、タブレット閉塞式全盛の時代を
思わず思いだし、目頭が熱くなるとまではいきませんでしたが
それでもちょっと…、胸がほんわかとしました。

とはいうもののそんな郷愁に浸っていることはできません。
何せ、北濃駅で下車したのも乗車したのも私一人!
そもそも延長予定があったとはいえ、
乗降客数は国鉄時代も似たり寄ったり。
(更に減っているかも)
驚いたのは、北濃駅の前に「岐阜バス」のバス停が
あったのですが、本数が減っている?
(気のせいではない…と思う)
高速道路が開通して、道路事情が改善されると
公共交通が衰退する悲しい現実。
日本という国はいつまでこれを繰り返しのでしょうか?

2010年07月05日 9時02分

長良川鉄道 北濃駅の転車台

長良川鉄道の北濃駅には
国鉄時代からの転車台(ターンテーブル)が
残されています。

で、この転車台、平成17年7月12日に
国の『登録有形文化財(建物)』に指定されています。
登録名称は「旧国鉄越美南線北濃駅転車台」です。

明治35年にアメリカが作られ、
昭和9年の越美南線開業時にここ北濃駅に移設されたと
現地の案内看板に書いてありました。

今回、この事実を初めて知ったのですが
多分、新聞や鉄道雑誌では取り上げられたのでしょうが
私が見落としていたと思われます。

転車台の付近は、特に柵など無いので
自由に見学できますが、周囲は草むらなので
私はヘビなどの小動物だけは注意して一周しました。
※6月27日に若桜鉄道で転車台を動かした
 話しをUPしましたが、今回も“動かしたい”という
 誘惑に駆られました。(実際にはしませんでしたが)

行って見て分かった「長良川鉄道」百科、
まだまだ続きます。

2010年07月04日 18時25分

長良川鉄道 北濃駅

長良川鉄道の北濃駅です。

この写真の駅舎のど真ん中のところに
以前、ラーメン屋さんがありました。
※店名は消してあります。

国鉄時代からあったかどうかは
記憶が定かではありませんが
十数年前に、東海北陸道が白鳥から先に
延長されるまでの頃、
取材の行き帰りに2~3度立ち寄った記憶があります。
※鉄道利用者ではなかったのが何ですが…。

私たちの高山方面への取材ルートはこの30年で
新しい道路が整備される度に激変しました。
1)中央道・多治見~美濃加茂~国道41号線
2)中央道・中津川~下呂~国道41号線
3)東海北陸道・郡上八幡~せせらぎ街道
4)東海北陸道・飛騨清見~

駅舎を利用した飲食店は、以前は各地で見かけましたが
お客の大多数が、その町を車で通過する人ならば
このラーメン屋さんのように閉店は『むべなるかな』といった
ところでしょうか?

2010年07月04日 9時00分

長良川鉄道 最短トンネル

長良川鉄道の相生~郡上八幡間に
「中野トンネル」があります。

写真で見たとおり“もの凄く短い”のは
分かっていただけると思います。
※(参考)日本の鉄道トンネルの最短は
 吾妻線樽沢トンネル7.2メートル。

長良川鉄道さんに『最短トンネルはどのトンネルですか?』と
聞いたところ、教えられたのが『このトンネル』でした。
そして『全長は?』と聞いたら一呼吸あってから
答えが返ってきました。
普段は、気にもしていないのでしょうね。

実際に行くとその長さは何となく見当がつきます。
例えば名古屋市営地下鉄の東山線・名城線の車両長である
15メートルとの比較であったり、
それより少し長い長良川鉄道の車両との
比較が楽しいと思います。

私の実感は「短か過ぎ!!」。
きっと樽沢トンネルの通過時と
さして感覚的には変わらないのではと思った次第です。

「短い鉄道トンネルランキング」というのがあったら
多分、ベスト3に入るのでは?

実際に乗って確かめるってやっぱり必要ですね。

2010年07月03日 18時14分

長良川鉄道 関駅

長良川鉄道の関駅です。
国鉄時代は「美濃関」と言っていました。

因みに、このブログで
5月3日~5日にも書きましたが
私は長良川鉄道開業の取材をしています。
また、「みのせき」という駅名看板は
我が家にあります。
それだけに長良川鉄道への思い入れは
あるつもりだったのですが、
「関駅」がこんなに風情のある駅とは
再訪するまで忘れていました。

最初にこの線(国鉄越美南線)に乗ったのは
昭和54年の9月14日。
327Dで美濃太田発8:14、
北濃着10:24でした。
また関駅自体は、平成12年11月15日に
名鉄美濃町線が新関から関に延長した時にも
行っているのですが
何せ駅舎と反対側に名鉄が発着していたので
印象が薄いというのが残念です。

ところで関駅、よく見れば
旧国鉄の地方駅の典型的な雰囲気を今も
残しています。
昼下がりにこの駅のベンチに座っていると
ただそれだけで一日が過ぎてしまいそうです。

これでネコでも線路を横切ってくれれば…。

(小ネタ)
長良川鉄道の車両にはトイレがありません。
全線乗られる方はご注意下さい。
私は、この関駅の4分停車の間に行きました。
※美濃太田発9:42の5列車の場合。

2010年07月03日 8時01分

長良川鉄道 ナガラ307

6月30日(水)に、長良川鉄道に乗ってきました。
写真は、ナガラ300形307号です。

何で平日に?
実は仕事、かな?

ご存知の方もいるかと思いますが
PCだけではなく、携帯サイトにも「鉄研」があります。
その“携帯サイト専用”コンテンツの一つに
『鉄道検定』があり、その問題を作るための調査でした。
※『鉄道検定』は「中京テレビバックステージ」という
 月額会員(月額262円)になると楽しめます。
 有料ですいません。
 なお、「鉄研」無料コンテンツもあります。

『長良川鉄道検定』は昨日UPしましたが
検定問題は、主に鉄道会社の公式HPに
出ている情報や各社から提供していただいた資料を
参考に作っています。

それ以外にも市販の本などを参照していますが
その場合は裏(確証)を必ずとるようにしています。
そのために「現場に足を運んで」確認したり、
また、行ったからこそ作ることのできた問題もあります。
で、折角長良川鉄道に乗ってきたのでその報告をします。

2010年07月02日 18時08分

1991年にシベリア鉄道に乗った目的

1991年のシベリア鉄道によるユーラシア大陸横断は、
“乗り鉄の夢の実現”で行けた訳ではありませんでした。

写真は1991年当時、ソ連の『ホワイトハウス』と
呼ばれたロシア共和国最高会議ビルで、
この年の8月19日にクーデターが起き
このビルが占拠されました。

ビルの前にあるのは、その時に作られた“バリケード”で、
クーデターから2か月近く経っていたにも関わらず
そのまま放置されていました。

またクーデターは直ぐに鎮圧されたものの
このあと、世界に大きな衝撃を与えた『ソ連』崩壊は
1991年の12月25日でした。
私が見たソ連は、その狭間の正にドタバタの時期でした。
※『ベルリンの壁』崩壊は1989年。

食糧事情の悪さや、多少の危険に遭遇する可能性が
あったにしても、そこに踏み込み『正に歴史が動く』瞬間を
目の当たりにしたいという私の強い願望は、
シベリア鉄道経由でもOKという思わぬ形で
会社が認めてくれました。
※限られた夏休みの日数ではシベリア鉄道乗破は困難だった。

実際にシベリア鉄道に乗り、車内のみならず
途中の街々での1週間の出来事は
私に多くの経験を与えてくれ、
まさしく、公共の交通機関の中にこそ
庶民の真実が見えることもあると感じました。

皆さんはどんな“乗り鉄”をされているのでしょうか?

シベリア鉄道 完。

2010年07月02日 9時09分

シベリア鉄道 クラスノヤルスク駅

昨日のダニロフ駅から大きく後戻りした
10月9日の現地時間12時過ぎ。
モスクワから4104キロのクラスノヤルスク駅です。
この駅はまだアジアで、ヨーロッパまで
まだ2327キロあります。
※ヨーロッパに入ったのは、翌10日の
 午後6時前位と思われますが、
 オベリスクは既に漆黒の闇の中でした。

戻った理由は、単純に一番多くの車両が
写っていたからですが
これからする話しの中身とは全く関係がありません。

堅い話しで恐縮ですが、
丁度この駅辺りから『考えさせられること』に
何回か遭遇したからです。

1)昼間に駅に着くと、10号車辺りに
  子供たちが集まってくる。
 ⇒10号車は、外国人が乗車しており、
  子どもたちはそのボディーを叩いて
  「チョコレート」「ガム」と大声で叫んでいました。
  ※日本史で出てくる
   第2次世界大戦直後の「日本」ではありません。
2)食堂車の食事の質は、時間を追って悪化しているのに、
  何故か駅に着くと「食堂車」から食糧をおろしている。
 ⇒食糧をおろすと、当の本人である
  食堂車のオバちゃんは、相手から
  現金の束を受け取っていました。
  どうみても横流しです。
  食糧事情の悪い当時、
  ロシア号からの食糧の仕入れは案外、
  堅い手法だったのかもしれません。

2010年07月01日 18時26分

シベリア鉄道 ダニロフ駅 機関車交換

1991年10月11日、
モスクワ駅から357キロのダニロフ駅で
交流25000ボルトから
直流3000ボルトに変わるため
機関車の交換が行われました。
※5月13日にUPした写真が交換後の全景です。

子供たちがその様子を見に来ていたりして
この辺は世界共通ですね。

実はこの写真、機関士さんとバトルの末の産物です。
当時、鉄道の写真を撮影することは“原則禁止”で
ダニロフにたどり着くまで何も言われなかったのが
ある種ラッキーだったかもしれません。
でも機関士さんの怒鳴り声はあったものの
誰かに写真を制止されることはありませんでした。

それでも「橋」の写真は撮っていません。
理由は、そこには必ず軍隊がいたからです。
国防上の問題とのことでした。

それと絶対に撮影しなかったのは「飛行機内」と「空港」。
さすがにこれだけは『止めた方が良い』という
機内で隣り合わせた日本の旅行社の方の忠告を守りました。
本音としては、晩秋の美しいシベリアの大地(絶景!!!)と
数えきれいくらい飛行機が駐機する
とてつもなく広い『ハバロフスク空港』は撮影したかった。
※ハバロフスク空港では、カメラを2台持っている
 理由を聞かれたり、そもそも私の荷物は、
 他の乗客の荷物から30分以上遅れて手渡されており
 ソ連から見れば怪しい「ジャーナリスト」と思われた?

2010年07月01日 9時04分

シベリア鉄道 洗面所

1991年当時のシベリア鉄道「ロシア号」の
洗面所です。

決して清潔とは言い難い雰囲気ですが
ここで顔を洗い、歯を磨いていました。

トイレは…。
実は写真はあるのですがお見せできません。
車掌さんは毎日、ちゃんと掃除をしているのですが
直ぐに汚れてしまいます。(清掃直後はOK!)

車掌さんの名誉のために一言。
当初持っていたイメージと違い、よく働いていました。
ロシア号は、数少ない長距離列車だけあり、
昼間だろうが深夜だろうが
駅に着けば常にお客の入れ替わりがあります。
その度に車掌さんは、切符の確認とシーツ等の交換をし、
あとトイレ以外にも各コンパートメントの
掃除もするなど、結構、大変そうでした。
これでウラジオストックからモスクワまで
8日間連続勤務とのことでした。

ところでトイレの話し。
ハードクラスのトイレは直ぐに汚れるので
タバコの「マルボロ」(当時、世界の通貨と言われていた)
2個でソフトクラスの車掌を買収し、
快適なトイレライフを送っている日本人乗客もいました。
もっともそうしていたのは日本人以外にもいましたが…。

そういえば、ロシア号の車内で、
飲み水はどうしていたのだろう?
水を買った記憶が無いのは何故?



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プロフィール

稲見部長稲見眞一
<自己紹介>
昭和52年4月、中京テレビ放送入社。「ズームイン!!朝!」を始めとした情報番組や「ドラマ」「ドキュメンタリー」等のディレクター・プロデューサーを務めた。鉄研最終回(2010年1月29日放送)では自ら自慢の鉄道写真「俺の一枚」を持って出演。 鉄道歴は小学校5年からスタートしはや半世紀。昭和55年には当時の国鉄・私鉄(ケーブルカーを除く)を完全乗破。平成18年にはケーブルカーも完全乗破。その後も新線が開業するたびに乗りつぶしている筋金入りの“乗り鉄”。好きな鉄道は路面電車。電車に揺られながら窓外に流れる街並みを眺めているのが至福のとき。さてスジを寝かせてゆったり乗り鉄と行きましょう!