2017年11月19日 0時00分

「幻の球団」の大先輩

皆さんは「高橋ユニオンズ」というプロ野球チームをご存じだろうか?

1954年(昭和29年)から3年間だけパ・リーグに存在した「幻の球団」だ。

前年まで7球団だったパ。人気面でセの後塵を拝していたのでもう1球団増やすという対抗策に出た。

ところが、球団経営したいという企業が現れず、時のリーグの総裁に懇願された資産家の高橋龍太郎氏が私財を投じて発足させたのが高橋球団だった。

この年から6球団のセに対し、パは8球団で3年間ペナントレースが行われたのだ。

ただ、新規参入の寄せ集めチームの成績は毎年悲惨で1954年は8球団中6位だったが55年・56年は8位。

勝率は毎年3割台と低迷し、今でも「プロ野球史上最弱の球団」と揶揄されている。

2年目は資金難から球団名を名義貸しすることになり、トンボ鉛筆がスポンサーとなり1955年のみ「トンボユニオンズ」と名乗った。

このチームのエースが滝良彦(たきよしひこ)というサイドスローの右投手だった。

私の母校・南山大学出身唯一のプロ野球選手だ。(写真は本人提供)

卒業後、愛知トヨタの軟式野球部で活躍して1952年毎日オリオンズ(現千葉ロッテ)に入団。

2年間勝ち星がなく、プロ3年目で新球団発足にあたり毎日から供出され高橋に移籍したのだ。

戦力不足の新球団1年目のシーズン開幕戦、プロ未勝利の滝投手は開幕投手に指名され、その年16勝を挙げエースになった。

4年前、このことを雑誌記事で知った私は、滝さんの所在を探し「偉大な大学の先輩」に会うことに成功。

以後、母校のトークショーで共演するなど33歳も年上の元プロ野球選手と交流を続けてきた。(2015年6月 南山大学同窓会総会)

滝さんが毎年楽しみにしていた東京での高橋ユニオンズOB会。

去年「佐藤君も一緒に行こう」と誘われたのだが、滝さんは病に倒れ入院し切望していた出席はかなわなかった。

私は滝さんの入院先の病室で元同僚へのメッセージを撮影し、単身OB会に参加して上映し出席者に元エースの現状を伝えた。

その場で出席者の声を集め、翌日、病床で臥せっていた滝さんに映像を見てもらった。

現役時代に弱小球団のエースとして西鉄(現埼玉西武)・南海(現福岡ソフトバンク)・阪急(現オリックス)といった強敵相手に一緒に戦ったかつての仲間からの

「滝さん、頑張って」という激励に頷いて私のタブレットを食い入るように見ていた滝さん。

今年3月、87歳で亡くなった。

 

11月8日、今年のユニオンズOB会は60年前に球団の解散式を行った東京の「新橋亭」で行われた。

わずか3年しか存在しなかった球団だったのでOBの数は限られる。時間も経ち多くの関係者が鬼籍に入った。

出席者も減り、今回が最後のOB会となった。

元選手は6人だけ。ほかにオーナーの孫、チームが常宿としていた旅館経営者の娘、本拠地・川崎球場の元バットボーイ、高橋球団関連の本を刊行したスポーツライターや新聞記者など多彩な人々が集まった。

幹事は1956年入団の佐々木信也さん。ルーキーの年に全試合フル出場で180安打。二塁手のベストナインに選出された。

今年、京田陽太選手(中日)も源田壮亮選手(埼玉西武)も破れなかったプロ野球新人最多安打記録は今でも「高橋の佐々木」が持っている。

4年で現役を去り解説者となり、1976年から始まった「プロ野球ニュース」の司会者としてスポーツキャスターの先駆けとなった佐々木さんの美声は健在だった。

 

滝さんの遺品の中にユニオンズナインの寄せ書きサイン色紙があることをご遺族から聞かされた私は、

東京ドームにある野球殿堂博物館に確認したところ「大変貴重な逸品。ぜひ所蔵したい」との連絡を受けた。

3年間で31勝を挙げ、「永遠の球団最多勝投手」・滝さんが大事にしていた仲間との寄せ書き。

サインの中にはこの球団で当時プロ野球初の300勝投手となったヴィクトル・スタルヒン投手や、

広島やメジャーリーグで活躍した黒田博樹氏の父・黒田一博外野手のものもある。

この日、寄贈を快諾されたご遺族から色紙を預かった私がOB会の席上、野球殿堂博物館主任司書の茅根拓氏に手渡し

プロ野球の歴史の中に埋もれた幻の球団の証が永遠に保管されることとなった。

滝先輩、青春の思い出が『殿堂入り』ですよ!!

 

 

 

 

 


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