2019年09月30日 21時18分

お召し列車を撮影しました。

天皇・皇后両陛下がいきいき茨城ゆめ国体に臨席されたのに伴い、一昨日の9月28日と昨日の29日に令和初のお召列車が運転されました。

昨日、私は所用があって東京にいたのですが、その終わりの時間が確定しておらず、よって始めは何事もなく名古屋に戻るつもりでした。ところが思いの外順調に事が進み、夕方6時半にはフリーになり、であればと東京駅に向かいました。

鉄道ファンだけではなく、市民の方も待ち受ける中東京駅9番線にJR東日本E655系が暗闇の中から姿を見せました。

私にとって初めてのお召列車の撮影。8番線ホームで待ち受けていたのですが、「黄色い線の内側で撮影してください」というアナウンスはあったものの、撮影する側もそれをちゃんと守っており、意外と静かな現場でした。

夜間撮影になるので、ホームの灯りが無ければどんな電車かは分かりません。私は15両編成が停まるホームの11号車付近で待っていたのですが、電車の色もあって前から3両目までは何とか視認できますが、それから後ろの電車は漆黒の世界からまだ出ていません。

この後、車内からホームで待っている方たちに手を振る両陛下のお姿を見届け、撮影を終了。

2019年09月29日 15時15分

木曽岬町自主運行バス。

今日はバスのお話。

近鉄弥冨駅前には三重県桑名郡木曽岬町の自主運行バスが乗り入れています。

2路線あって、「中央線」は1時間にほぼ1本あり、利便性はまずまずではないでしょうか?

驚いたのはこちらのラッピングの無いバス。何とレンタカーでした。たまたまなのか、いつもこうして運行しているのかは不明ですが、どちらにしても住民の大切な足であることには変わりません。

話は集合場所の近鉄弥冨駅に戻ります。弥富市と言えば文鳥という事でこうした手持ち顔出しパネルあり。親しまれる鉄道を目指し、そして地元愛を前面に押し出すアイデア。

一方には文鳥+やはり弥冨と言えば金魚!と主張する看板あり!

2019年09月28日 19時47分

近鉄名古屋線木曽川橋梁の遺構。

どんと大きく写っているのはJR関西本線の木曽川橋梁で、この画面で左に小さく見えるのが現在の近鉄名古屋線木曽川橋梁です。

そのJR関西本線のすぐ北側に、鉄橋と並行して杭が縦に並んでいます。これが近鉄名古屋線が狭軌の時代の鉄橋の遺構で、橋桁、橋脚は撤去されていますが、水中に橋台(ケーソン?)部分が残っており、船がそれを引っ掛けないようにこうして目印があるのだそうです。

ところで今回の廃線跡散策で思わず私の心にヒットしたのは、廃線跡ではなくこの写っている道路そのもの。まずは左下のコンクリートの指標に注目。

近鉄のマーク入り。

道路の中にも「近鉄」+「↑」の埋め込みあり。

この道路は何と近鉄さんの所有とのことで、この埋め込み部分が近鉄の所有とそれ以外の方による所有の境界線とのことでした。いわゆる私道ですね。保守管理は弥富市が行っているとのことでしたが、まあそうしたことはあり得るわけではあるものの驚きの発見。でも教えてもらわないと気付くことは無かったでしょう。

2019年09月27日 20時40分

伊勢湾台風から60年。近鉄名古屋線の軌間拡幅工事。

最近、近鉄電車の名物広報マン/福原稔浩(ふくはらとしひろ)氏を中心とする仲間が協力し合い運営している「有志で巡る廃線跡シリーズ研究会」に参加させていただいています。会の趣旨は『歴史鉄が集まり、廃線跡をめぐり、歴史を知り、学び合って、知識を高める集いの場』で、一見ハードルが高そうですが、初心者でも楽しめるように工夫されており、毎度参加とはならないものの私の鉄活の定番の一つにしたいと思っています。

その会でこの9月23日(月)に「 近鉄名古屋線第1回 廃線跡散策&勉強会」を行いました。

午前中の廃線跡散策は、近鉄弥富駅を起点に旧木曽川橋梁まで歩くもので、近鉄、JRの車窓からも見えるこの橋なども間近に見ました。

※詳細な鉄道史の話は省きますが、近鉄名古屋線は、伊勢湾台風以前は狭軌(1067mm)の鉄道で、伊勢湾台風を契機に広軌(1435mm)化されており、この橋は狭軌時代に使われていたものです。

ところでこの橋の管理は今も近鉄が行っているとのことで、真ん中のブロックというか道路の上の部分の色が異なっているのは、定期的に点検を行い、道路を行き交う人や車に万が一にでも事故が起きないように補修を行っているからだそうです。

参考:この日、私たちが見た遺構は、11月9日(土)に開催の近鉄主催のハイキング『特別企画ハイキング・名鉄タイアップ企画(踏破賞対象)近鉄名古屋線改軌60周年記念ハイキング 近畿日本鉄道発展の礎を歩く(近鉄弥富駅~近鉄長島駅)』でも見られます。

午後は「伊勢湾台風と名古屋線」というテーマでの勉強会。福原さんと会の事務局の福田さん、そして近鉄OBで、伊勢湾台風が襲来したその年に就職された方から、台風被災からの復旧並びに広軌化工事について詳細な話をお聞きしました。

(以下、近鉄HPから転載)

名古屋線の広軌化を1958(昭和33)年9月から計画し、準備をすすめていたところ、1959(昭和34)年9月、伊勢湾台風により、名古屋線は甚大な被害を受けました。しかし、台風による水没区間復旧を機に、名古屋線80キロ標準軌化を一挙に(11月19日~27日)完工する大事業を完了し、62日間で全線復旧、広軌化を成し遂げました。

 

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近鉄名古屋線の広軌化は、木曽川に架かる橋梁など、重要な構造物が台風の襲来時点で既に出来上がっていたり、その他の準備でも終わっていたものもあったそうで、それもあって最終的に当時の佐伯社長が決断したとは聞いていました。ただ9月27日から11月27日まで鉄道を止めて代行バスを走らせていたのではなく、実は一部区間を除き狭軌のままで開通させ、その横で広軌化工事の準備を行い、最終的に上記の日程で一気に改軌をしています。

近鉄の社史等にはそれは書かれているとのことでしたが、勉強不足を改めて知らされた一瞬でした。

鉄道を止めない。鉄道マン一人、一人の気持ちが一つになって初めて成し得た大事業であったと改めて感じています。

またその根っこには佐伯社長の一言「罹災社員の救済は前例に関わらず徹底的にせよ」があったと聞きました。海外出張中だった佐伯社長からの、伊勢湾台風の報に接しての最初の電報は、「電車は動かせるのか」ではなくこれだったそうです。人があっての会社であり、その人が安心して暮らせることが会社の繁栄であるという信念があったのでしょう。

今年は近鉄名古屋線広軌化60周年の節目の年であり、それは名阪間を直通で結ぶ特急/ビスタカー2世の登場から60周年でもあります。伊勢湾台風が無くとも広軌化及び直通特急運転開始はつつがなく進んだものとは思います。

ただ被災した中で、復旧~運転再開と同時に広軌化工事をやり遂げたことは称賛に価すると私は思っています。

最後に一言。今回、弥富市内を歩いていて気になったのは、家の土台のかさ上げ具合。伊勢湾台風から暫くの間に建てられた家と、恐らく台風の記憶が薄れてから建てられた家(私の推測です)ではその差が歴然で、名古屋港で高潮対策が進んこともあるのでしょうが、地平から1m以上も盛土されたところに家が建っている理由を知る人は確実に減っていると思います。

参考:この広軌化工事の模様は半世紀前に制作された当時の工事記録映画「伸びゆく近鉄」として残されており、その全編がDVD「近鉄rail Go 2」に収録され、来月(10月)19日、20日に開催されます「きんてつ鉄道まつり2019in五位堂・高安」から発売が始まります。

個人的には是非ご覧いただきたいと思っています。最後の最後で佐伯社長が完成を祝う金の犬釘を打つシーンでは、私は思わず拍手をしてしまいました。

2019年09月26日 16時10分

伊勢湾台風から60年。「伊勢湾台風災害記録」日本国有鉄道中部支社。

今から60年前の1959年(昭和34年)9月26日、和歌山県潮岬に上陸した台風は全国的に大きな被害を出しましたが、特に伊勢湾沿岸の愛知県・三重県の被害が甚大で、「伊勢湾台風」と呼ばれることとなりました。

ごく個人的な話ですが、当時の私は5歳で名古屋市瑞穂区に住んでおり、その日、山崎川の堤防が決壊したことから住んでいた家が床上浸水となり、更に水かさが増えることが予想されたことから父が胸まで水に浸かりながらも私を背負い、近所にあった(多分、4階建て)とある会社の寮に避難しました。

今から60年前の台風について、その避難だけは私の記憶にあり、父の背に負われている私の姿は、私の中にある生まれてから最初の記憶です。

その時、母が使っていたタンスには水の跡が残り、それはその後も現役で使われており、その高さからすると、当時の平屋の家でもしも避難していなかったとしたら、相当に危機的な状況となったであろうとは容易に想像がつきました。

テレビはまだ特別な存在で、当然私の家にはありませんでしたし、ラジオはあったもののどれほどの情報を提供していたのでしょうか?また伝達手段があったとして、「台風が来る」ということの備えはあまり出来なかったのではないかと思われます。そして水の中を避難するにしてもどこからその情報が伝えられ、どうして「避難」という判断をしたかを結局両親に聞く機会はありませんでした。

ただ台風の翌日から食料の調達が喫緊(きっきん)の課題で、母は水の被害が無かった方向に自転車を走らせ、そして開いている(片付けている)店を見つけたそうです。ただ財布を持ち出す余裕がなかった母はその時、現金を持っておらず、「銀行が開いたらお金を持ってくるので、野菜を売って欲しい」とお願いしたところ、そのお店の方はお金を受け取らず、またその後もお金を受け取ってもらえなかったそうです。

私の家はそんな状況でしたが、他の家の方たちはどうしていたのでしょう?水や電気などのインフラの復旧はどうだったのでしょう。

伊勢湾台風の被害と復旧について纏められた資料は数多くあります。これは国鉄中部支社が纏めた一冊。

死者の多くが名古屋市南部(南区・港区)に集中したこともあり、私の中でも「名古屋」の被災状況に目が向きがちでしたが、実際には、知多半島やこの写真にある弥冨駅(弥富市)周辺でも多くの方が亡くなっています。

水に洗われる線路が痛々しいですが、この水は暫くの間引くことはありませんでした。

長野県でも被害が甚大だたことが伺えます。

宙ぶらりんの線路の写真が福井県であることは驚きでした。

鉄道の復旧作業は、水が引く前から始まっていたことを知る人は、それほど多くはないと思います。私もこの写真を見るまでそうした事実を知りませんでしたし、この1枚が私に与えた衝撃は、ここに表現する言葉が見つからないほどで、それは今後も軽々に語れないと思っています。

2019年09月25日 16時15分

大井川鐡道撮影行(5)動画。

久ぶりの動画投稿。今回、蒸気機関車の牽く列車を撮影してみました。

カメラはいつものコンデジ。三脚に置きっ放しで撮影していますのでズームとかはしていません。また私のデジ一のシャッター音はご愛嬌ということで…。

1)塩郷駅を見下ろす場所

2)大井川第二橋梁

3)中徳橋

4)田野口駅

2019年09月24日 22時08分

大井川鐡道撮影行(4)田野口駅。

この日、最後の蒸気機関車撮影。千頭発13:53のかわね路号をどこで撮影するか一思案。トーマス号からそれほど時間をおかずにやって来るため、移動時間が限られるのと、何せこの天候。大井川と蒸気機関車というこの日のテーマは諦めることにしました。

取り敢えず田野口駅に来てみました。

駅舎に風情もあり、ここで絵を捜してみることに。

蝶に誘われ、コスモスに埋もれることで決定!

私にとっては珍しく花にピントを合わせてみました。何事も練習。

この写真は状況の説明カット。こんな感じの所で撮影していました。

さて今回の同行者であるKさん。何度も大井川鐡道に足を運ぶ中で、今は駅の整備などのボランティアもされています。この駅で言えば、木などの植物を植えたり、雑草を刈ったりされており、この時も整備に来られた地元の方に挨拶をし、しばし談笑されていました。

地元の方の理解を得て撮影をさせてもらっている。鉄道事業者の方のおかげで撮影させてもらっている。

そうしたことへの感謝からの行動とのことで、実は大井川鐡道にはKさんのような応援をされている方が何人もいらっしゃいます。その話はまた後日。

2019年09月23日 22時59分

大井川鐡道撮影行(3)中徳橋。

きかんしゃトーマス号の戻り(上り列車)を、田野口駅~下泉駅間にある中徳橋(道路橋)で待ち受けます。

14:29頃、きかんしゃトーマス号が顔を出しました。ところでどうやって列車の接近を知るか?ですが、実は渓谷に響く汽笛が教えてくれます。この場所では田野口駅の通過時に鳴らされる汽笛を聞いてカメラを構えました。

今回のテーマからするともう少し川をいれることを考えていましたが、結局この構図で纏めてみました。

きかんしゃトーマス号がハロウィン仕様だった件。

「大井川に沿って走る」風景という意味では意図通りではあるのですが、残念ながら川の流れが見当たりません。

2019年09月22日 22時59分

大井川鐡道撮影行(2)大井川第二橋梁。

今回の撮影行のテーマは、大井川と蒸気機関車。ということで2か所目の撮影は崎平駅~青部駅間にある大井川第二橋梁。

まずは崎平駅を12:50に出発した金谷駅行き。

かわね路1号(新金谷駅発千頭駅行き)は13時をほんの少し回ったところで登場。良い感じで煙も棚引いている。

ここでの狙いの1枚だったのですが、思っていたより機関車が後ろの緑に溶け込んでしまった。

おまけの1枚。最後尾で頑張るE34の色がこの渓谷では映えて見えます。午前中の撮影は終了。

昼食は田野口駅からほど近い食堂で「とろろ茶そば」を食す。

2019年09月21日 17時18分

大井川鐡道撮影行(1)トーマス号とバスのバーティ―。

9月14日(土)は大井川鐡道に撮影行。ひかり号に乗って浜松で普通電車に乗り換え金谷に向かいます。

まずは塩郷駅を見下ろす場所。塩郷ダムの上流側と下流側の水の色の違いを楽しみます。

11:25、きかんしゃトーマス号現る。

何とバスのバーティ―と並走!

この2ショットは、バーティ―が手前(写真では奥)の駐車スペースで時間調整をし、ここ久野脇橋(塩郷の吊橋、愛称は恋金橋)できかんしゃトーマスと並走するようにしているそうですが、何せ一般の道路ですので、今回のような並びは必ず見られるものではないそうです。

ところで今回の撮影行ですが、ここ大井川鐡道へ何度も撮影に訪れている、謂わば知り尽くした方に同行頂いており、その方だからこその場所で撮影しています。



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プロフィール

稲見部長稲見眞一
<自己紹介>
昭和52年4月、中京テレビ放送入社。「ズームイン!!朝!」を始めとした情報番組や「ドラマ」「ドキュメンタリー」等のディレクター・プロデューサーを務めた。鉄研最終回(2010年1月29日放送)では自ら自慢の鉄道写真「俺の一枚」を持って出演。 鉄道歴は小学校5年からスタートしはや半世紀。昭和55年には当時の国鉄・私鉄(ケーブルカーを除く)を完全乗破。平成18年にはケーブルカーも完全乗破。その後も新線が開業するたびに乗りつぶしている筋金入りの“乗り鉄”。好きな鉄道は路面電車。電車に揺られながら窓外に流れる街並みを眺めているのが至福のとき。さてスジを寝かせてゆったり乗り鉄と行きましょう!