2020年07月31日 23時47分

1970年4月頃の稲沢機関区。

昭和45年頃はまだ名古屋でも、関西本線で蒸気機関車が見られました。その基地は稲沢機関区。D51形が主力で、間近に見るとその大きさと力強さに心奪われました。

蒸気機関車と言えば扇形車庫と転車台(ターンテーブル)。

ところでこの時代、住所氏名を備え付けのノートに書けば入れてくれる機関区は結構ありました。ここ稲沢もその一つでしたが、勿論入れて頂くので、職員の方がいれば私から先の挨拶は欠かしませんでしたが、その方達も「どこから来た?」「気を付けて動けよ!」とか声を掛けてくれ、人と人との触れ合いがありました。蒸気機関車が消えてから、機関区に足を運ぶこともなくなり、その内に機関区は私たちのようなマニアの立ち入りは禁止になっていました。

入換で使われていた9600形蒸気機関車。10年ほど前に、たまたま蒸気機関車の機関士をされていた方とお話しする機会があったのですが、昭和40年代にあっても既に老体だったこの機関車ですが、本線での運転はともかく構内での使い勝手がよく、それで蒸気機関車の終焉まで生き延びることが出来たそうです。ご長寿さんにはやはり長生きする理由があるということを知りました。

C50形も昭和46年の稲沢機関区無煙化までここで活躍していました。名古屋界隈で客車を牽いていたかどうかまで調べきれませんでしたが、入換用としては最後の最後までここで暮らしていました。

今日の〆はやはり転車台。モノクロームがこれほど似合う被写体は蒸気機関車以外に考えられないと改めて思う、

2020年07月30日 23時57分

1970年8月1日の北恵那鉄道中津町駅。

1970年8月1日は随分精力的に回っています。いろいろな記憶が入り交じっているので定かではないものの、恐らくは夜行の「きそ」に乗り、深夜にどこかの駅(木曽福島?)で降りて撮影したものと思われます。

そしてその帰り道。

北恵那鉄道中津町駅。国鉄中央本線中津川駅の裏手にその駅はあり、結構な距離を歩いたはず。

この鉄道の廃止は1978年(昭和53年)9月18日。最後までこの雰囲気はそのままでした。

実際に北恵那鉄道に乗ったのは1978年の8月12日。廃線となる直前でした。

ところでこの写真を撮影した頃はまだ電車が一日中下付知駅まで走っていましたが、およそ1年の後、昼間はバス代行となり、乗り鉄には極めてハードルが高い鉄道になりました。

(追記)

北恵那鉄道廃止時に、私はカメラマンとしてこの鉄道を撮影しています。ニュースの企画ものの取材で、車内や沿線での走りを撮って周り、幸せと寂しさが入り交じった複雑な気持ちでした。

2020年07月30日 0時07分

1970年8月1日の中央本線。

1970年、高校2年生の夏休み。

8月1日は中央本線に同級生と撮影に出かけています。

ここは中津川駅~落合川駅間の落合峠。貨物列車はD51の重連で運転されていた区間です。

さてキハ181系。大出力エンジンを積んだ勾配区間の特急専用で、1968年にここ中央本線の「しなの」号でデビューしました。もっとも私はここ中央本線で181系に乗った記憶がありません。非電化時代の中央本線はもっぱら急行に乗っており、会社勤めをする頃には181系の姿はここにはありませんでした。

多分、宮ノ越駅近く。D51重連が牽く貨物列車を狙って中央本線詣でをする撮り鉄(当時、撮り鉄と言う言葉はまだ無かったと思う)さんが結構いました。もっとも夏場は威勢の良い煙が期待できないこともあり、それほど人は多くなかった記憶です。

D51単機の貨物列車。のんびりと撮影しており、ひたすら穏やかな時間が流れていました。と言うのも高校生なので当然、歩き鉄。駅から延々と撮影地を目指して歩き、あとは列車の到着までボーっと待っているだけ。

もっとも私たちだけではなく、車で撮影に回っている人はまだ少数派でした。(これは断言できます)

2020年07月28日 23時32分

1970年4月29日の明治村。

昭和45年の明治村。

明治村で運転されている京都市電は、1910年(明治43年)から1911年(明治44年)にかけて作られた電車で、この時点で齢(よわい)60歳。今では100歳超のご長寿さん。

尾西鉄道の1号機関車。今と当時の違いは展示されている場所。

 

12号機関車は1874年(明治7年)にイギリスから輸入されました。今と当時の違いは、1974年(昭和49年)3月18日から動態保存、つまり動く機関車として再度命を吹き込まれたことです。齢(よわい)146歳。実際に動く車両としては日本では一番古いものです。

もっとも若い人は、この機関車がこの写真のように動かない、つまり静態展示されていたことの方が驚きかも知れません。

2020年07月28日 0時21分

1969年12月21日の名古屋市電。

暫くの間、昭和40年代の鉄道をご覧頂きます。ということで今日は名古屋市電。

若い方には名古屋に市電があったことを知って頂き、年配の方には懐かしんで頂ければ幸いです。

ここは老松町の電停。100メートル通(若宮大通)の中央本線と名古屋高速都心環状線の丁度中間辺りです。電停があったのは東行きと西行きの真ん中で、鶴舞駅のほぼ北です。

私が好きだった名古屋の電車、1300形。武骨と言えば聞こえは良いですが、単にゴツゴツしていただけだったとも言えます。この電車に乗り、たいした速度でもないのに、右に左に思いっきり揺られていたのは今でもいい思い出です。

新栄町。地下鉄の新栄駅は錦通にありますが、ここはその一本南の広小路通との交差点。道幅が狭かったので、名古屋市内では珍しく安全地帯がありませんでした。

安全地帯がないのはこの写真の方が分かり易いですね。

2020年07月26日 16時17分

1969年10月26日の京都。

1969年(昭和44年)10月26日。

京都。何故京都?分からない。お小遣いがあったとも思えない。かと言って親が一緒だったような気配も無し。

京福電車で人生初の流し撮り。まあ出来ているというより雰囲気。

地上時代の京阪四条駅。京都市電との平面交差があるのですが、それを撮っていない。

同じく地上時代の京阪三条駅。銀色の飾りバンパーのついた電車は当時は目を惹いた。当時の関西の電車では、京阪が一番好みだったと思うが、他社の電車には乗っていない。本格的に乗り鉄を始めるのはこの写真から5年の歳月が必要だった。

2020年07月25日 21時22分

1969年9月30日の名古屋駅。

コロナ禍の中で、外出を控える日々が続き、家の中の鉄道写真の整理と資料の整理&減量に取り組んでいます。

1969年(昭和44年)9月30日の名古屋駅。関西本線名古屋口の蒸気機関車が牽く最後の旅客列車です。

美しく装飾されたその姿は、お召し列車を牽いた(その姿を私は見たことがありませんが…)機関車として、最後とは言えこの栄えある場所に立つに相応しいものでした。

リニア・鉄道館に展示されているC57139号機。(2011年3月7日、関係者向け公開にて撮影)

50年の月日を超えて、今もなお私の中でこの機関車が動く姿は生きていると言っても過言ではありません。

ところで今考えれば信じがたい場所での撮影。多分、あおなみ線のホームの辺りでしょうか?当時はそんな場所でも撮影ができましたが、もっとも普段でもOKだったかと言えば、それは分かりません。ただこの時は国鉄の関係者が回りで私たちの安全を確保されていたことは記憶にあります。

そしてこれらの写真が私の一眼レフ撮影の実質デビューでした。これ以前にも数回試し撮りをしていますが、慣れるのに必死で、撮っているというよりただシャッターを押していただけ。

さて撮影したこのカメラ。今もシャッターは軽快な音を立てて切ることができます。(写るかどうかは別です)

先日電池を替えたら露出計も動きました。フィルムでもう一度撮影してみようかなと思う日々です。

※一番上の写真は、リニア・鉄道館のC5739号機の解説で使って頂いています。(名義はNPO法人名古屋レール・アーカイブスで私の名前はありません)

2020年07月23日 23時45分

名古屋レール・アーカイブス資料展「走れ!夢の超特急~世界が認めたSHINKANSEN」

東海道新幹線が開業した1964年(昭和39年)10月1日は木曜日。つまり平日。

最近のイベントは、日付よりは曜日優先で日程が決まっているような気もしますが、東海道新幹線は10月1日に拘ったのだと思います。

ということで当日(1964年10月1日)は夕刊があり、そのトップは勿論新幹線の開業。

そして7面にも記事があって大きく扱われたニュースではありますが、それでも1面から8面まで「新幹線」でぎっしりと言うことはなく、例えばこの紙面でも「新幹線」「オリンピック」「赤い羽根」が同等の扱いです。その辺りは新聞らしい紙面構成ですね。

また新聞ですので「広告」があるのですが、個人的にはそれも目を引きます。会場ではそれもお楽しみの一つです。

さて名古屋レール・アーカイブス資料展「走れ!夢の超特急~世界が認めたSHINKANSEN」ではこの新聞の現物を展示しています。鉄道愛好家の方から寄贈された資料を整理していてたまたま見つかったのですが、それも5月に入ってから(以前にもこのことを書いています)で、運命の神様が引き合わせたくれたと思っています。

そして読みやすさは別にして、敢えて本物の現物展示にしたのはこの時代がかった色が理由です。同じ記事を読むにしても、当時の紙の上の文字を見てもらうことで時代の流れも感じ取って欲しいと言うのが狙いの一つだったりもします。

2020年07月22日 23時27分

祝!名鉄知多新線開業40周年。

今から40年前の1980(昭和55)年6月5日に全線開業した名鉄知多新線。それを記念した「知多新線全線開業40周年記念入場券」を知多奥田駅で買ってきました。

ところでこの駅、日本福祉大学の最寄り駅なので、そこへの取材の際に何度も使っています。と言ってももう15年以上前の話です。

いや、何。当時、24時間テレビの企画で「ドミノ倒し」をこの大学の学生さん達が毎年チャレンジしており、その打ち合わせ~本番で1年に数回通っていたのです。

当時と変わっていないなあとか思ったものの、そうそうっ、自動改札機がマナカ対応になっていました。

 

知多新線全駅の入場券と言いたいところですが、

何と計画はあったけど開業しなかった「小野浦(仮称)」の入場券あり。もっともこの駅の入場券代は1020円の中に入っていない模様。

2020年07月21日 17時20分

名古屋レール・アーカイブス資料展「走れ!夢の超特急~世界が認めたSHINKANSEN」の展示物の製作

私が会員になっているNPO法人名古屋レール・アーカイブスによる第10回名古屋レール・アーカイブス資料展「走れ!夢の超特急~世界が認めたSHINKANSEN」の展示物の製作のこと。

今回はコロナ禍ということもあり、やれる範囲で作ろう(30枚程度)というところからスタートしましたが、結局41枚になりました。

やってみて気付いたのは、私にとっての「新幹線」がかつての特別な存在から、いつの間にか日常の足になっていたということです。

東京出張時の新幹線車内は、資料作りか睡眠補給の時間で、移動の手段というより時間の帳尻合わせのために乗っているようなものでした。

また福岡出張時も、周りからは「稲見さんは当然、新幹線ですよね」とか言われましたが、使っていたのは専ら飛行機で、驚かれたりもしていました。

さて私の新幹線体験。希望に胸膨らませ、人生の門出のはずが落ち武者になるとはまだ知る由もない至福の2時間2分でした。(こんな乗車券を残している段階でアウトだと今更ながら両親に申し訳ないと思う)

ただ受験だから「新幹線」の乗ったことだけは間違いありません。

この時から1年の後、年に数回名古屋~東京を往復することとなりましたが、新幹線は私にとっては「いつもの」選択ではなく、「いつもの」は、大垣夜行と高速バスでした。

ところでそんな昭和40年代~50年代の新幹線はどんな存在だったのでしょうか?

「ことぶき入場券」がその1例ですが、大安吉日の新幹線ホームでは、新婚旅行に向かうカップルを見送る人であふれ、後にホームでの使用が禁止になるクラッカーの音がそちこちで鳴り響き、新郎の胴上げ、万歳三唱は見慣れた光景でした。

また転勤で赴任する人の見送りもよく見られ、新婚さんの見送りと違うのは、クラッカーがないのと、時にホームで繰り広げられる人間模様を感じるシーンでした。

当時でもビジネス客の方が圧倒的に多かった新幹線でしたが、それでも「新幹線」に乗ったことが話の種になった時代であったとするのに異論は少ないかと思います。

今回、そんなことを一つ一つ思い出しながら、自分にとっての「新幹線」って何だったのだろうとか思い出しつつ写真を選び資料を眺めていたら、朝日新聞の取材を受ける中でつい「かつては夢と冒険の乗り物だった」という言葉が出てしまいました。

でもそんな純粋な気持ち、当時はあったんだよね。きっと。

https://www.asahi.com/articles/ASN7K00VHN7COIPE001.html



ADVERTISEMENT

カレンダー

2020年7月
« 6月   8月 »
 1234
567891011
12131415161718
19202122232425
262728293031  

プロフィール

稲見部長稲見眞一
<自己紹介>
昭和52年4月、中京テレビ放送入社。「ズームイン!!朝!」を始めとした情報番組や「ドラマ」「ドキュメンタリー」等のディレクター・プロデューサーを務めた。鉄研最終回(2010年1月29日放送)では自ら自慢の鉄道写真「俺の一枚」を持って出演。 鉄道歴は小学校5年からスタートしはや半世紀。昭和55年には当時の国鉄・私鉄(ケーブルカーを除く)を完全乗破。平成18年にはケーブルカーも完全乗破。その後も新線が開業するたびに乗りつぶしている筋金入りの“乗り鉄”。好きな鉄道は路面電車。電車に揺られながら窓外に流れる街並みを眺めているのが至福のとき。さてスジを寝かせてゆったり乗り鉄と行きましょう!