2021年11月26日 17時03分
「尾張明細図」国立公文書館デジタルアーカイブ 公文附属の図・六九号 明治5年(1872年)10月発行
明治5年、日本に鉄道が開業した年に発行された現在の愛知県の内、尾張の地図。
形は何となくイメージできそうですね。
余談ですがこの地図の本来の見方は横位置。南北が縦位置にならない地図は今となっては見慣れませんが、当時の地図では他にも見かけたことがあります。
真ん中の色が黄土色の部分が当時の「名古屋市」の区域です。ここだけ見ても各集落を結ぶ道路は整備されていたことがわかります。今風に言えば「県道」レベルの道の印象ですね。
「名古屋并熱田全図(なごやならびにあつたぜんず)」 明治11年(1878年)発行 。
この地図の表題が「名古屋并熱田全図」と、名古屋と熱田の地図となっているのは、当時、熱田の地はまだ名古屋市に編入されていなかったからです。
「并」の読み方は多分合っていると思いたいのが「ひとつにする」「ならぶ」という意味があります。
それはさておき明治5年の地図から進化したというか、ちゃんとした測量に基づく「地図感」があります。これだと市街地と郊外がはっきり区分できますが、市街地の広さそのものは明治5年とそれほど変わりません。「栄」の位置をいれましたので、名古屋城の位置との見比べで、当時の名古屋の町の規模をイメージして下さい。
またこの頃の名古屋市はざっくり言えば、現在の中区を中心に東区、西区の一部。今の名古屋市は、この狭い地域をスタートに徐々に市域を広げ、昭和39年(1964年)に当時の知多郡有松町、大高町を合併(緑区に編入)し、現在の形となっています。
今の栄界隈。真ん中に横向きに「栄町」と書いてある場所が今の広小路通り。縣廳(県庁)とあるのは愛知県庁で、この場所が今の栄交差点辺りとなります。広小路の左端は、今の伏見に達しておらず、市街地の狭さが分かります。
そしてこの「広小路」がこの先の名古屋発展のキーワードの一つとなるのですが、また機会を見つけてこのブログに書きます。
ところでこの明治11年では「名古屋市」とはまだなっておらず「名古屋区」の時代。もっとも意味合いとしては「区」であっても「市」で良さそうです。
因みに「名古屋区」となったのは明治11年からで、「名古屋市」となるのは明治22年(1889年)のこと。つまり名古屋駅誕生時は、名古屋市に出来たわけではなく、名古屋区に出来たということになります。なお名古屋市発足時の人口は157,496人。参考までに現在の名古屋市中区の人口は約93,000人ですから、当時の市街地の密集度がうかがい知れます。
もう一つ明治22年の名古屋のトピックス。この年、名古屋で初めて電灯が灯りました。
※名古屋市役所のウェブサイト参照。
明治19年(1886年) 「尾張国参河国新図」
名古屋駅開業の年に発行された地図。
地図にも今の東海道本線が登場しています。が、この地図では「名古屋駅」がありません。
その疑問は今も解けていません。
また矢印のところにあるのは、後に手で書き加えられた線。現在の中央本線で間違いないのですが、なぜ手書き?これは当時、まだ建設されていなかったからですが、それにしてもいつの時代にこの線を描いたかと言った意図が分かりません。
ただこの線、実は名古屋にとって大きな意味のあるものなのです。