2021年11月26日 17時03分

名古屋の鉄道136年史(10)鉄道開通以前の名古屋。

「尾張明細図」国立公文書館デジタルアーカイブ 公文附属の図・六九号 明治5年(1872年)10月発行

明治5年、日本に鉄道が開業した年に発行された現在の愛知県の内、尾張の地図。

形は何となくイメージできそうですね。

 余談ですがこの地図の本来の見方は横位置。南北が縦位置にならない地図は今となっては見慣れませんが、当時の地図では他にも見かけたことがあります。

真ん中の色が黄土色の部分が当時の「名古屋市」の区域です。ここだけ見ても各集落を結ぶ道路は整備されていたことがわかります。今風に言えば「県道」レベルの道の印象ですね。

「名古屋并熱田全図(なごやならびにあつたぜんず)」 明治11年(1878年)発行 。

この地図の表題が「名古屋并熱田全図」と、名古屋と熱田の地図となっているのは、当時、熱田の地はまだ名古屋市に編入されていなかったからです。

「并」の読み方は多分合っていると思いたいのが「ひとつにする」「ならぶ」という意味があります。

それはさておき明治5年の地図から進化したというか、ちゃんとした測量に基づく「地図感」があります。これだと市街地と郊外がはっきり区分できますが、市街地の広さそのものは明治5年とそれほど変わりません。「栄」の位置をいれましたので、名古屋城の位置との見比べで、当時の名古屋の町の規模をイメージして下さい。

またこの頃の名古屋市はざっくり言えば、現在の中区を中心に東区、西区の一部。今の名古屋市は、この狭い地域をスタートに徐々に市域を広げ、昭和39年(1964年)に当時の知多郡有松町、大高町を合併(緑区に編入)し、現在の形となっています。

今の栄界隈。真ん中に横向きに「栄町」と書いてある場所が今の広小路通り。縣廳(県庁)とあるのは愛知県庁で、この場所が今の栄交差点辺りとなります。広小路の左端は、今の伏見に達しておらず、市街地の狭さが分かります。

そしてこの「広小路」がこの先の名古屋発展のキーワードの一つとなるのですが、また機会を見つけてこのブログに書きます。

ところでこの明治11年では「名古屋市」とはまだなっておらず「名古屋区」の時代。もっとも意味合いとしては「区」であっても「市」で良さそうです。

因みに「名古屋区」となったのは明治11年からで、「名古屋市」となるのは明治22年(1889年)のこと。つまり名古屋駅誕生時は、名古屋市に出来たわけではなく、名古屋区に出来たということになります。なお名古屋市発足時の人口は157,496人。参考までに現在の名古屋市中区の人口は約93,000人ですから、当時の市街地の密集度がうかがい知れます。

もう一つ明治22年の名古屋のトピックス。この年、名古屋で初めて電灯が灯りました。

※名古屋市役所のウェブサイト参照。 

明治19年(1886年) 「尾張国参河国新図」

名古屋駅開業の年に発行された地図。

地図にも今の東海道本線が登場しています。が、この地図では「名古屋駅」がありません。

その疑問は今も解けていません。

また矢印のところにあるのは、後に手で書き加えられた線。現在の中央本線で間違いないのですが、なぜ手書き?これは当時、まだ建設されていなかったからですが、それにしてもいつの時代にこの線を描いたかと言った意図が分かりません。

ただこの線、実は名古屋にとって大きな意味のあるものなのです。

2021年11月25日 23時25分

名古屋の鉄道136年史(10)名古屋駅の位置と東海道本線の経路の謎

さて名古屋駅はどのようなところに作られたのでしょうか?そして東海道本線はどうして今の場所を走ることになったのでしょう?

国土地理院 125,000デジタル標高地形図(名古屋)

これで名古屋エリアの各地の高度が分かります。

名古屋駅界隈をトリミングしてみました。その色から標高がとても低い土地であることが分かります。ところでそもそもどうしてこのように標高の低いところに東京と京を結ぶ日本で最重要の幹線の線路が敷かれたのでしょう?

全体図に現在の東海道本線の位置を赤線で描いてみました。

金山駅を中心としたトリミング。

赤線の南北の高台は熱田台地と呼ばれており、当時の市街地はその上にありました。よく見ると東海道本線は熱田台地が狭くなったくびれの部分を堀割にして通っています。

つまり明治に開業した鉄道は、当時の市街地であった高台に上がることなく、それを避けるように線路が敷かれているのです。

「国鉄80年 機関車の発達」著者/本島三良・臼井茂信(昭和27年(1952年)/交友社)

明治30年代の東京/新橋駅の様子。

「国鉄80年記念写真集 車両の80年」編集者/日本国有鉄道工作局(昭和27年(1952年)10月14日/鉄道博物館)

鉄道草創期を走った蒸気機関車は見かけ以上に非力で、坂道は可能な限り避ける形で線路は敷かれたのです。

もっとも市街地の中心に線路を通すことは、明治の御一新の時代であっても住民の反対は避けられなかったでしょうし、住居などの立ち退きなどを考慮すれば、市街地の縁(へり)に線路を通すのが現実的な選択であったと私は考えます。

2021年11月24日 23時16分

名古屋の鉄道136年史(9)初代名古屋駅と濃尾地震。

明治19年(1886年)5月1日、官設鉄道の名護屋駅(翌明治20年4月25日、現在の名古屋駅に改称)として開業しました。

昭和17年(1942年)発行の「鉄道温故資料」(名古屋鉄道局総務部)に掲載されていた初代名古屋駅。

所有者名に高橋正照氏とあり、この本の出版時にその方からお借りした物と思われます。ところで初代名古屋駅の写真は、これしか見たことがありません。私が探した限りですが、オンリーワンでまず間違いありません。

何故ならば開業から僅か五年後の明治24年(1891年)10月28日、巨大地震「濃尾地震」がこの地方を襲い、駅舎が倒壊してしまったからです。

明治の時代ですので、写真そのものの希少性はあるのでしょうし、結局地震もあってこれ1枚しか残せなかったような気がしています。

ところで駅を倒壊させるほどの地震「濃尾地震」はどれほどの地震だったのでしょうか?

 

『内閣府/防災情報のページ/災害教訓の継承に関する専門調査会報告書 平成 18 年 3 月/1891 濃尾地震』

にはこう記述されています。

<概要>

1891 年 10 月 28 日に発生した濃尾地震は、マグニチュード8.0と推定される過去日本の内陸で発生した最大級の地震であった。岐阜県美濃地方においては地表に明瞭な断層が発生し、その比高は 6 メートルにもなった。特に震源に近い地域においては近代建築が倒壊したのに対し、伝統的な土蔵が残った。

<教訓>

濃尾地震は、近世から近代への過渡期にあって、復旧のための資材、人員等の不足に悩まされながらも、マスメディアによる情報伝達、近代行政システムによる迅速な救援、地震原因の科学的研究、減災のための耐震建築の研究など、今日の地震対策の原型をつくり、その発展の方向を決定することとなった。この地震を機に「震災予防調査会」が設置された。現在においてもなお地震は避けがたい災害ではあるが、今後とも減災のための努力を続けなければならない。

新愛知社(名古屋市)が明治24年(1891年)に発行した「地震聚報 全」にその記録が残っています。

これは絵として残されたものですが、

写真でもその被災状況が伝わってきます。もっともそれほど甚大な被害とならなかった建物も中にはありますが、これを見れば名古屋駅が倒壊したのも頷けます。

この本の中の名古屋停車場の記述です。

この波形を見て、それがどれほどの大きさであるのかは分かりづらいですが、地震の激烈さは理解できます。

日本国有鉄道百年史 第2巻(昭和45年/1970年4月1日 日本国有鉄道) 229ページ

参考までに鉄道関係では、長良川の鉄橋の一部が崩落している写真が残されています。
初代名古屋駅舎。その前には大きな水たまり。低湿地に作られた名古屋駅の立地が見てとれます。

乗客が使う駅舎の右側の大きな建物は貨物扱所でしょう。たった1枚残った写真。それでもこうして残っていることで、鉄道開業時の名古屋市の様子を窺い知ることが出来る貴重な1枚です。

2021年11月03日 8時19分

名古屋の鉄道136年史(8)馬車鉄道。

なかなか名古屋の鉄道の話しが出てきません。次回からは多分、本題に入ることが出来るかと思います。今暫くお付き合い下さい。

「 鉄道80年のあゆみ 」運輸調査局 編(昭和27年(1052年)/日本国有鉄道)

馬車鉄道というものがかつての日本にありました。この写真は東京・新橋駅前。明治15年(1882年)に開業した「東京馬車鉄道」で、日本最初の馬車鉄道でした。

蒸気機関車よりも時代遅れに見えるこの鉄道が、明治15年開業とは意外かも知れませんが、馬車鉄道は長距離ではなく、市内交通として日本に登場しています。「えっ、電車じゃないの?」とか思われるかも知れませんが、日本で最初の一般営業用電気鉄道が京都市に登場したのは明治28年(1895年)のことなのです。

絵はがき「上野三橋ヨリ山下ヲ望ム」。当初は新橋と日本橋を結び、その後日本橋 ~上野~浅草~日本橋間の環状線も開業させています。当時、東京におけるというか、日本における2大鉄道ターミナルの新橋と上野、そして大繁華街の浅草を結んでいました。

※上野駅は明治16(1883)年に開業

「両国橋及浅草橋真図」井上探景画 出版/松本平吉 画工/井上安次

この部分には馬車の鉄道だけではなく、線路を走らない乗合馬車も描かれています。共存共栄の関係だったのでしょうか?

さてこの馬車鉄道(東京馬車鉄道)はその後、東京電車鉄道と社名を改めて路線の電化を進め、明治44(1911)年には、東京市が路面電車を経営していた民間会社3社を買収し、東京市電が誕生しています。

余談ですがこの東京馬車鉄道の軌間は1372ミリ。この軌間はその後の都電であったり京王線・都営地下鉄新宿線、東急世田谷線、函館市電が採用していますが、日本の1372ミリは以上で全て。何故この軌間が東京馬車鉄道で採用されたかは不明ですが、今の日本に1372ミリゲージがあるのは正にここが発端であることは間違いありません。

話しは変わってギリス/グレートブリテン島とアイルランド島に囲まれたアイリッシュ海の中央にある「自治権を持ったイギリスの王室属領」である「マン島」。

観光施設ではない世界唯一の公共交通機関としての馬車鉄道があります。(実質的には観光客用とも言える)

ダグラス・ベイ馬車軌道 (Douglas Bay Horse Tramway )。写真は2014年8月の訪問時のもので、その後廃止されるとのニュースが出ましたが、最終的には線路を付け替え現在も運行されています。

今は出掛けることは出来ませんが、今後渡航できるようになったら、都市交通の原点とも言えるこの鉄道を体験されては如何でしょう。

2021年11月02日 22時57分

名古屋の鉄道136年史(7)日本最初の鉄道は海の中を走っていた。

「東京真画名所図解 髙縄鉄道」井上安治作 明治15年(882年)頃?

この浮世絵には海中の土盛りを走る列車が描かれています。

その事実はつとに知られていましたが、その後の日本の発展で東海道本線を取り巻く環境は大きく変わり、いつしか「海上鉄道」は忘れられていきました。

それが昨年、JR東日本が高輪ゲートウェイ駅前を中心に進める品川再開発計画の工事現場で、何と「高輪築堤」が出土したのです。日本最古の鉄道の線路跡とも言える「高輪築堤」、その存在意義とは?

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(東京都港区のホームページ 2021年5月24日更新から転載)

高輪築堤跡/高輪築堤は、明治5(1872)年にわが国初の鉄道が開業した際に、海上に線路を敷設するために築かれた鉄道構造物です。平成31(2019)年4月、品川駅改良工事の際に石垣の一部が発見されました。

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(文化庁のホームページ 2021年8月23日更新から転載)

令和3年8月23日、東京都港区にある高輪築堤跡を史跡に指定すべきとの答申が文化審
議会から文部科学大臣に提出されました。

1.高輪築堤跡とは
明治5年(1872)9月12日、日本初の鉄道が新橋・横浜間に開業しました。東アジア初の鉄道の総延長は約29kmあり、そのうち約2.7kmは、海上に堤を築いてレールを敷き、その上を蒸気機関車が走りました。この海上鉄道敷の遺構が「高輪築堤跡」です。
なぜ海の上にレールを敷いたのでしょうか。それは、鉄道用地の取得が困難な地域を避けて鉄道を通すためです。政府が明治2年(1869)に鉄道建設を決定した後も莫大な建設予算の前に反対する人々が多く、加えて、平坦地の少ない東海道沿いには旧薩摩藩邸や兵部省の軍用地があったのです。

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それにしてもこの思わぬ発見は想像以上(異例)の速さで史跡指定されたのです。

では当時の東海道本線はどれほどの海際を走っていたのでしょう。ならば調べてみよう!

「日本写真帖」田山宗尭 編(明治45年(1912年)1月/ともゑ商会)

恐らく発行時期に近い明治末期頃の撮影を思われる品川停車場。東海道本線が、明治末期にあってもまだ海際を走っていたのは意外な発見でした。

「国鉄80年 機関車の発達」著者/本島三良・臼井茂信(昭和27年(1952年)/交友社)

前の写真より少し開業時に近い明治33,34年頃と思われる品川駅構内。機関車は後の国鉄1850形となるC形タンク車。

さて話しは海中鉄道に戻します。

「新橋横浜間鉄道之図」(国立公文書館デジタルアーカイブ)

国立公文書館で保管されている(開業時の)新橋駅~横浜駅間の鉄道地図。もっともこれでは何か良く分かりませんね。

右端が新橋駅。

左端が横浜駅。そして…。

高輪海岸~品川駅にかけて、線路は確かに海の中を走っていました。

話しには聞いていたものの、『本当のところはどうだったの?」とか言う疑問が湧いてきて国立公文書館のウェブサイトを探りました。それにしても東京まで行かずに公文書を探して見られるという時代が来るとは本当に驚きです。何せ先人の鉄道史研究者の方は皆さん、東京まで足を運んでいたのです。

それはそれとして歴史探訪は本当に面白い。

※「日本写真帖」「国鉄80年 機関車の発達」はNPO法人名古屋レール・アーカイブスの所蔵資料です。

2021年11月01日 21時45分

名古屋の鉄道136年史(6)鉄道が開通した頃の浮世絵。

鉄道の開業後、『陸蒸気(おかじょうき)』を題材にした実に多くの浮世絵が発行され、今の時代にまで残されています。今回はそうした中から一部の作品を紹介します。

「従汐留横浜迄蒸気車鉄道往辺之図」(人形町 具足屋)

開業直後の発行と思われる1枚。

この浮世絵の機関車は昨日紹介した「テンダ式」ではなく明らかにタンク式。デフォルメされて表現されるのは浮世絵の常とは言え、日本最古の機関車の1両である150形(1号機関車)で正解でしょう。

それにしても背広姿で、如何にもこの場に不釣り合いな方は一体誰なんでしょう?

「国鉄80年 機関車の発達」著者/本島三良・臼井茂信(昭和27年(1952年)/交友社)

これが150形の写真。現在は埼玉県さいたま市の「鉄道博物館」に保存されています。

鉄道博物館に行かれる機会がありましたら是非、自分の目でご覧下さい。

※この写真は2010年12月5日撮影。

「東京高輪鉄道蒸気車走行之全図」一曜齊国輝(と思うのですが、ネットで検索すると「曜齊国輝」とも出てきます)

この絵のポイントとしては「貨車」を繋いでいること。調べたところ、開通時から貨物輸送が始まっていたようです。

また橋の上には2頭立ての馬車がいて、当時の「バス」の役割を担っていたのではないかと思われます。

「東京府下自漫競 品川之鉄道図」広重(恐らく3代目広重。左下の「広重」は読めるのですが、姓の部分は判読出来ず)

鉄道が「自慢」を「競う」中での1つだったという話し。

ところでこの浮世絵には「電柱」と「電線」が描かれています。よって明治15年(1882年)以降の作画であることは間違いありません。描かれている機関車や客車に大きな変化が感じられないので、開通から10年の経過の中では、鉄道車両に大きな変化は無かったということでしょう。

※電気について/参照:電気事業連合会のウェブサイト

2021年10月31日 14時02分

名古屋の鉄道136年史(5)明治5年(1872年)10月14日、日本で最初の鉄道が開通。

「鉄道の日」が、新橋~横浜間に日本で最初の鉄道が開通した日であることは広く知られています。もっとも開業当時は太陰暦であったため明治5年(1872年)9月12日でした。それがその後新暦に修正され明治5年(1872年)10月14日となったことはあまり知られていません。

「帝国鉄道発達史」杉謙二 編( 大正11年(1922年)10月4日/杉謙二)(国立国会図書館 デジタルコレクション)

キャブションには「本邦最初の新橋駅ご開通式当日明治天皇行幸の景」とあり、この写真は正に日本最初の鉄道開通日である明治5年(1872年)9月12日の記録です。そして日本初の鉄道開通の意味をこれほど感じさせてくれる情景はありません。

「帝国鉄道発達史 大正11年(1922年)10月4日 杉謙二 編」(杉謙二)(国立国会図書館 デジタルコレクション)

日本で最初の鉄道開業に際しイギリスから輸入された蒸気機関車の内の1両で、日本初のテンダー式蒸気機関車。ナンバーが5000となっているのは1909年(明治43年)に改番されたためで、この写真の撮影時期はこの書籍の出版時期である大正10年頃と推察しています。

こちらは絵はがき。撮影時期は不明ですが「開業当時召列車に奉仕した2号機関車」とのキャプションあり。

帝国鉄道発達史の機関車と同型式と思われますが、お召列車を牽いたのは別の機関車という文献もあり、このキャプションが正解かどうかは不明です。ただ一点、ポイントと言えるのは明治5年の時点でお召列車があったこと。機関車はともかく客車で専用車があったかどうかが気になるところです。

「日本鉄道史. 上編」鉄道大臣官房文書課編(大正10(1921年)/鉄道省)(国立国会図書館 デジタルコレクション)

客車は図面をご覧下さい。日本の鉄道の開業だから小型なのではなく、恐らく当時の世界標準に近い物ではないかと推察しています。

(余談)

「帝国鉄道発達史」杉謙二 編( 大正11年(1922年)10月4日/杉謙二)(国立国会図書館 デジタルコレクション)

嘉永7年/安政元年(1854年)、アメリカのペリー(Matthew Calbraith Perry)率いる米国東インド艦隊が当時の幕府に献上した“鉄道”の模型。当時の人にとっては「凄い!」だったのでしょうが、私にとっては「可愛い!」という令和の時代の感想。

2021年10月09日 17時47分

名古屋の鉄道136年史(4)世界の鉄道の始まりを復習。

歌川広重は、寛政9年(1797年)に生まれ安政5年9月6日(1858年10月12日)に亡くなりました。広重が東海道五拾三次を描いたのは天保年間(1831年から1845年)頃ですが、その時世界(ヨーロッパ)はどうなっていたのでしょう。

※岩波写真文庫21「汽車」 岩波書店編集部/株式会社岩波書店 昭和26年(1951年)4月20日発行

世界で最初に登場した蒸気機関車。リチャード・トレビシック(Richard Trevithick)が1803年に発明しました。

※岩波写真文庫21「汽車」 岩波書店編集部/株式会社岩波書店 昭和26年(1951年)4月20日発行

続いてジョン・ブレンキンソップ(John Blenkinsop)が1811年に作った蒸気機関車。

※岩波写真文庫21「汽車」 岩波書店編集部/株式会社岩波書店 昭和26年(1951年)4月20日発行

そして人が乗った客車を牽いて走った最初の蒸気機関車、ロケット号。ロバート・スチーブンソン(Robert Stephenson)が世界初の旅客鉄道であるイギリスのリバプール・アンド・マンチェスター鉄道のために設計し、1829年に誕生しました。

そしてリバプール・アンド・マンチェスター鉄道は翌1830年に開通しています。つまり広重の浮世絵の時代に、イギリスでは既に蒸気機関車が牽引する旅客列車が走っていたのです。

さてイギリス・ヨークにある国立鉄道博物館(NRM, National Railway Museum)にはロケット号のレプリカがあります。

そのレプリカですが驚く無かれ1934年製。日本の年号では昭和9年。私が生まれる前どころか、遙か彼方の「鉄道趣味」があったかどうかも分からない時代。この案内板を見た時には目が点になりました。

ただただ凄いね!の一言ですが一方の日本を見てみましょう。

明治元年(1968年)、明治天皇が即位し、新政府は天皇を中心とした新しい国家体制となります。江戸という地は東京となりました。

そうした中、国土交通省「日本鉄道史」によれば、

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Ⅱ.明治時代

1.鉄道開業とその後の鉄道網の伸長

明治2年11月、東京と京都を結ぶ幹線と、東京・横浜間、京都・神戸間及び琵琶湖畔から敦賀まで の三支線、計四路線の鉄道を建設するという政府決定がなされた。これが、我が国における鉄道建設計 画の最初である。

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1969年(明治2年)、かくして私の趣味である「鉄道」が(誕生前の)第一歩を踏み出したのです。

2021年10月08日 14時56分

名古屋の鉄道136年史(3)東海道五拾三次の浮世絵。

今日は江戸時代の「東海道」なら広重。ということで歌川広重(私が学校で習った名前は安藤広重でしたが、今は本名の姓+号ではなく姓名とも号である「歌川広重」とするのが本来とのことのようです)の浮世絵からの考察。

天保5年(1834年)「東海道五拾三次 吉田」。愛知県の東の入り口である現在の豊橋市。吉田の名から豊橋となったのは明治2年(1869年)のこと。ここにある城の名前は 吉田城で今、その場所は豊橋公園として整備されています。また描かれている橋は地名の由来となった橋と思われます。それにしてもお城は改修中?広重の浮世絵でも珍しいのではないでしょうか?

なおここで敢えてこの「吉田」を掲載したことはまた後日触れます。

江戸を出て、今の名古屋市内に入っての最初の宿場は鳴海。(名古屋市緑区鳴海町)

東海道は名鉄名古屋本線の北側にあり、地元では今も「旧東海道」として一般的にその名が使われています。右に左に折れ曲がるその道路は、江戸時代のままだそうで、道幅も変わっていないはずと地元の方に聞いたことがあります。

絵の中には「絞り」の店が見えます。今はこのエリアの「絞り」では個別の「有松絞り」の方が名が通っている気もしますが、私には「有松・鳴海絞り」がしっくりきます。

それはさておき旅人には歩きの方もいますが、馬と駕籠(かご)も描かれています。江戸時代の東海道で馬の利用と言えば荷物を運ぶというイメージがあり、馬に乗ったのは参勤交代のお武家さまとか?もっともここに描かれている人はそんな風には見えないので、庶民には到底手の届かない江戸時代の「公共機関」という存在だったのでしょう。

また駕籠(かご)は宿と宿を結ぶ長距離の公共交通機関に相応しく無さそうですが、実際には道中駕籠という存在があったのでこちらも民営の「公共交通機関」の走りと言えます。

熱田の「宮」宿。これは昭和23年(1948年)に熱田神宮門前の「きよめ餅総本家」が新年の挨拶状として商品に付けたと思われる書状。その表側が「宮」宿の浮世絵。(裏面に「きよめ餅」の由来などが書かれ、昭和戊子(つちのえね)の年号あり)

余談ですが、きよめ餅は熱田神宮の参拝時には買ったりもします。

さてここから三重県の桑名宿までは、東海道では唯一の海路「七里の渡し(宮の渡し)」となっていました。そのためこの絵の中には船が描かれています。これは間違いなく公共交通機関と言える存在で、『東海道中膝栗毛』(とうかいどうちゅうひざくりげ)の主人公/弥次郎兵衛と喜多八も乗ったはず。

宮の船着き場があったところは現在「宮の渡し公園」となっています。そこから桑名へ向かう航路上には、今は新幹線が横切っています。

桑名の宿に着く、もしくは出航の船。

よく見れば船の中には人がギッシリ乗っています。こうして描かれるほど乗船客がいたと言うことでしょうから、江戸時代の東海道の往来がどれほどだったかを伺い知ることが出来ます。

2021年10月05日 15時58分

名古屋の鉄道136年史(2)地図と鉄道。

昨日はいきなり古地図でしたが、そもそも鉄道と地図は切っても切れない相関関係にあると言えます。
これまで廃線となった鉄道路線はあまたありますが、その時になり地元の方が語る言葉に「地図から街が消える」がありました。一方、新たな鉄道を敷くことは新しい地図を作ることと言ったら言い過ぎでしょうか?
私の個人的感想です。
さて今日は江戸時代に旅をする人が見たのでないかと思う地図。

天保13年(1842年)「 東海木曽両道中懐宝図鑑」

江戸時代、江戸と京都を結び日本でもっとも重要な街道であった「東海道」を中心とした案内地図。今風に言えば旅行ガイドブック。

「宮」は今の熱田区。上部には「名古屋城」。また後日書きますが、東海道五十三次の「宮」の宿は当時、名古屋というくくりの中に入っておらず、宮の宿のある「熱田」の地が名古屋になるのは明治40年(1907年)の事です。

嘉永5年(1851年) 「旅中必携五街道中獨案内記 岡村屋庄助板」

雰囲気は先の地図と同じ感じ。

宮(熱田)界隈の名所と言えば「熱田神宮」であり、何よりこの地が「名古屋の入り口」であることが見て取れる「図」です。

慶応元年(1865年)「大日本行程大絵図」。その名古屋界隈を切り取ってみました。

さて今日の3枚の地図で、メインストリートとしての「東海道」を始め各地を結ぶ「線=道路」が描かれています。江戸から明治の時代へと進む中で、その線をなぞって鉄道が開通していくのかどうか?もしくは今ある鉄道網と江戸時代の街道との相違点は?結論から言えばいろいろなパターンがあります。の一言です。ざっくりすぎて申し訳ありません。

ところで今日の3枚の地図は地図と言うより絵図というのが相応しいですね。時刻表の路線図もデフォルメされていますが、これらはそれ以前の話しです。昨日UPしたのは今日と比べ、地図らしいものです。

それはともかく私は地図を見るのが子供の頃から好きで、それは今も変わりません。それもあって今回、このシリーズの下調べでは江戸から昭和にかけての地図をしこたま見ており、時間がいくらあっても足りません。

(余談)

図中に「尾張」という旧国名が書かれていますが、「尾張」という国名は実は「旧」ではなく今も生きているということを地図研究家の今尾恵介さんから教えて頂きました。

『法令によって廃止・禁止されたわけでもないので、現在も当然使用可能であり、「旧」と付ける必要もない。』これはWikipediaの「旧国名」の記事。

『廃藩置県の完成の結果、3府43県が確定して都道府県の区域が旧の国を上回る規模となるとともに、旧の国はしだいに一般的な地理的区分としても意識されなくなっていった。』

こちらは愛知県庁政策企画局企画調整部企画課のウェブサイトにあった『2 「旧の国」のまとまりについて』の記述。

「廃藩置県」はあったが、「国名」の廃止はされていないことを物語っており、もっともだから愛知県でも尾張と三河は、、、というのは止めておきましょう。

 



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プロフィール

稲見部長稲見眞一
<自己紹介>
昭和52年4月、中京テレビ放送入社。「ズームイン!!朝!」を始めとした情報番組や「ドラマ」「ドキュメンタリー」等のディレクター・プロデューサーを務めた。鉄研最終回(2010年1月29日放送)では自ら自慢の鉄道写真「俺の一枚」を持って出演。 鉄道歴は小学校5年からスタートしはや半世紀。昭和55年には当時の国鉄・私鉄(ケーブルカーを除く)を完全乗破。平成18年にはケーブルカーも完全乗破。その後も新線が開業するたびに乗りつぶしている筋金入りの“乗り鉄”。好きな鉄道は路面電車。電車に揺られながら窓外に流れる街並みを眺めているのが至福のとき。さてスジを寝かせてゆったり乗り鉄と行きましょう!