2021年10月31日 14時02分

名古屋の鉄道136年史(5)明治5年(1872年)10月14日、日本で最初の鉄道が開通。

「鉄道の日」が、新橋~横浜間に日本で最初の鉄道が開通した日であることは広く知られています。もっとも開業当時は太陰暦であったため明治5年(1872年)9月12日でした。それがその後新暦に修正され明治5年(1872年)10月14日となったことはあまり知られていません。

「帝国鉄道発達史」杉謙二 編( 大正11年(1922年)10月4日/杉謙二)(国立国会図書館 デジタルコレクション)

キャブションには「本邦最初の新橋駅ご開通式当日明治天皇行幸の景」とあり、この写真は正に日本最初の鉄道開通日である明治5年(1872年)9月12日の記録です。そして日本初の鉄道開通の意味をこれほど感じさせてくれる情景はありません。

「帝国鉄道発達史 大正11年(1922年)10月4日 杉謙二 編」(杉謙二)(国立国会図書館 デジタルコレクション)

日本で最初の鉄道開業に際しイギリスから輸入された蒸気機関車の内の1両で、日本初のテンダー式蒸気機関車。ナンバーが5000となっているのは1909年(明治43年)に改番されたためで、この写真の撮影時期はこの書籍の出版時期である大正10年頃と推察しています。

こちらは絵はがき。撮影時期は不明ですが「開業当時召列車に奉仕した2号機関車」とのキャプションあり。

帝国鉄道発達史の機関車と同型式と思われますが、お召列車を牽いたのは別の機関車という文献もあり、このキャプションが正解かどうかは不明です。ただ一点、ポイントと言えるのは明治5年の時点でお召列車があったこと。機関車はともかく客車で専用車があったかどうかが気になるところです。

「日本鉄道史. 上編」鉄道大臣官房文書課編(大正10(1921年)/鉄道省)(国立国会図書館 デジタルコレクション)

客車は図面をご覧下さい。日本の鉄道の開業だから小型なのではなく、恐らく当時の世界標準に近い物ではないかと推察しています。

(余談)

「帝国鉄道発達史」杉謙二 編( 大正11年(1922年)10月4日/杉謙二)(国立国会図書館 デジタルコレクション)

嘉永7年/安政元年(1854年)、アメリカのペリー(Matthew Calbraith Perry)率いる米国東インド艦隊が当時の幕府に献上した“鉄道”の模型。当時の人にとっては「凄い!」だったのでしょうが、私にとっては「可愛い!」という令和の時代の感想。

2021年10月30日 22時34分

名古屋港線の8660レ、DE10+レール運搬用キヤ97。

毎週火・木・土にしか列車が走らない線が名古屋市内にあります。

名古屋港線(なごやみなとせん)という貨物線で、JR東海/名古屋資材センターに出入りするレール運搬車/キヤ97をけん引する8660レ、8661レが設定されているのですが、それ以外の列車の設定はありません。

上記の2枚の写真は10月19日の8660レ(名古屋駅方面行き)。場所は商業施設「ららぽーと名古屋みなとアクルス」のみどりの大広場。

10月26日の同じ場所。シートレインランドの観覧車を孔雀の羽に見立てのですが、逆光ではやはり…。

今回はたまたま「ららぽーと」内のお店に行く用事が2週続けてあったので撮影したのですが、運が悪いとこの写真のようにDE10が単機ということもあります。また運休ということもあったりもします。

2021年10月29日 9時00分

岐阜県羽島市のキハ605。

キハ605。

1951年(昭和26年)に常磐炭礦鐵道キハ21として製造され、その後1959年(昭和34年)に岡山臨港鉄道(キハ1003)へ。1984年(昭和59年)には紀州鉄道(キハ605)に移ったものの営業運転に使われることなく現役を退きました。

その後ふるさと鉄道保存協会(有田川鉄道公園)に譲渡され、JR貨物・北陸ロジスティクスで保管(一部修復)の後、縁あって2020年(令和2年)6月11日、ここ岐阜県羽島市の社会福祉法人岐阜羽島ボランティア協会/かみなり村「コンテナのアオキ」にやってきました。

こうして見ると一見、鉄道車両の保存をしている場所に見えますが、実際には「子ども・若者の居場所づくり」の場所。

堅苦しいかも知れませんがここでこの場の運営規程から事業の目的を転載。

(事業の目的) 第1条 社会福祉法人 岐阜羽島ボランティア協会(以下「事業者」という。)が設置する「コンテナ のアオキ」(以下「事象所」という。)では、指定障害福祉サービス事業の指定生活介護(以下「生 活介護」という)を実施するにあたり、適正な運営を確保するために必要な人員及び運営管理に関 する事項を定め生活介護の円滑な運営管理を図るとともに、利用者の意思及び人格を尊重して、常 に当該利用者の立場に立った適切な福祉サービスの提供を確保する。

障がい児者とその家族支援の活動を行い、不登校、ひきこもりの方のためのフリースペースもあるこの場所。そこにキハ605がいるのは事業の目的に沿った「楽しい場所」造りの一環だそうです。

ところで昨年4月オープンの施設の名前「コンテナのアオキ」の由来。それは建物がJRの「貨物コンテナ」で出来ていること。

コンテナというと四角四面で、狭い空間に感じますが、ここのコンテナ群はその構造を維持しつつ、実に快適な空間となっています。

こちらは調理室。

元コンテナであることが見て取れるトイレと洗面のコーナー。その他作業をする部屋を含め、コンテナを活用しているとは思えないゆとりを感じます。勿論、エアコンもあります。

理事長/川合宗次さんの話では、単純なコンテナの連結~組み合わせでは建築基準を満たさないため、それをクリアするため様々な工夫を凝らし、やっとの思いでここの開所に漕ぎ着けたそうです。

もっとも理事長さん曰く、「私は乗りものは好きだけで、鉄道マニアではない」そうです。

キハ605同様、ここに通ってもらえるための動機付けであったり、一方で地域の人たちにもこの場の存在を楽しんでもらおうという気持ちが先にあり、それでどうすれば良いかを考えた結果が現在の形になったそうです。

キハ605の車内。一見綺麗に見えますが…。

そこかしこにかなりの痛みがあり、おって修復をしていきたいとの事でした。

と思っていたら何とこのキハ605、動態保存の道を歩むことになりました。

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【理事長/川合宗次さんからの連絡】

石川県小松市で鉄道関連の保存活動をされている「なつかしの尾小屋鉄道を守る会」の坂井代表と出会い、キハ605の動態保存(エンジン稼働により気動車を動かすこと)にむけて整備をして頂くことになりました。それに伴い線路の延長工事が始まります(ほんの14mですが・・・)。

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ただただ驚きです。私から見れば不遇の日々を送っていたキハ605。それが令和に入り、よもや岐阜の地で、命を吹き込まれるとは思いませんでした。実際に動くまでにはまだ日にちがかかると思いますが、キハ605にとっての啓蟄の日を、一日千秋(いちじつせんしゅう)の思いで待つこととなりました。

私にとってはご縁がご縁を結んでキハ605の見学にやってきた「コンテナのアオキ」。そこでこうした展開を知ったことは単なる偶然とは思えず、これから何某かの応援を始めたいと思っています。

(見学について)

住所:〒501-6229 岐阜県羽島市正木町坂丸1-50 福祉施設「コンテナのアオキ」

※名鉄竹鼻線須賀駅から徒歩で15分ほど。

キハ605の見学は、外から見て頂く分にはいつでも可。

また月曜日~土曜日の昼間の時間ならば、職員に声をかけて頂ければ内部を見学することも出来るそうです。

福祉法人 岐阜羽島ボランティア協会ではこのエリアで様々な施設を持ち、活動をしています。そしてそこに通う方達が作ったものを「コンテナのアオキ」の事務所でも販売しています。よろしければキハ605と貨物コンテナの見学がてらご覧下さい。

(おまけ)

「コンテナのアオキ」の入り口にあるこの警報器。

1951年(昭和26年)式ゴング式電鈴と点滅表示機だそうですが、何と毎日午前9 時、12時、午後3時の3回鳴るようになっています。訪問される場合は、その時間に合わせて行かれると良いと思います。

それにしても線路のない田園風景の中で聞く警報器の音ですが、唐突に聞いた私はただただ笑ってしまいました。さて皆さんの感想や如何に。

2021年10月28日 14時22分

月一の鉄道模型講座、2021年度下半期のスタート。

この10月23日から月一の鉄道模型講座の本年度下半期がスタートしました。

まずは配布された部品等。これを早速加工、組立に入ります。

下の横長のスチレンボードは16センチ×60センチの大きさ。これを土台にするのですが、それをそのまま使うとたわみが出たりするとのことで、3センチの高さの“下駄”を履かせます。

両サイドだけだと真ん中が沈むこともあるため、途中3箇所にも補強のための桟(さん・骨組み)を入れます。

一応の組み上がり。かどかどに入れている小さな部品(スチレンボードの端材利用です)は補強のため。糊付けだけでの組立なので、こうした部材を足すことで、全体により強固となっているはず。

表面はこんな感じ。ここの上にスタイロフォームを積み、いよいよ次回から「ジオラマ」らしい制作に入ります。

スタイロフォームも少しだけ加工。ここからどんな風になっていくかは正直、自分でもまだ良く分かっていない。正確に言うと講師の方の説明で何をすべきかのイメージは出来ているのですが、それを具体的にどう手を加えていくかの段取りの順番の整理がついていないのです。

ここから先は一か月後。

2021年10月27日 17時16分

鉄印帳の旅(32)信楽高原鐵道信楽駅にて。

信楽駅前。

駅名標の前には信楽焼のたぬきさん。

駅を出てすぐ左側には大だぬき。マスクをしてハロウィーンなのは今どきと言えば今どき。緑色の公衆電話が不思議なアクセントになっています。

駅前を歩いていて渡った橋には信楽名物の紹介あり。

そこに信楽高原鐡道を発見!

信楽駅に来たら是非、見てほしいもの。それは駅構内に展示されている「信楽高原鐵道列車衝突事故」の資料類。

1991年(平成3年)5月14日に発生した痛ましい事故を忘れないためにあえて展示しているとのこと。

事故のことはもちろん覚えていますが、それをこうして残しているとは知りませんでした。地元の方たちが事故を乗り越え、この鉄道を残すという強い気持ちがあったからこそこうして「鉄印帳の旅」にも出られるのですが、楽しいだけではなく、こうして鉄道の負の歴史に触れることもまた「鉄印帳の旅」ではないでしょうか。

鉄印を授与されるにはほんの数分しかかかりません。ただ集めるだけなら、到着して数分後に出る列車で戻ることも出来ます。でもここでは1本、後の列車に乗車する選択をしていただければと思っています。

この車両の顔に隠されたある秘密。展示を見て改めてこの写真を撮影しました。「レールがつなぐ くらしと未来」を感じる1日となりました。

2021年10月26日 16時21分

鉄印帳の旅(31)信楽高原鐵道。

10月18日(月)、思い付きで信楽高原鐡道の鉄印帳の旅に出発。名古屋駅発9:06の快速亀山行きに乗車。

亀山駅は10:06の定時着。

亀山駅発10:14の加茂行きに乗り換え。20名ほどの乗客あり。草津線に乗り換える柘植駅着は10:39なので25分という短い乗車。

私にとって懐かしの加太駅を通って行く。思い出の場所。

1971年(昭和46年)1月15日の撮影。私が高校生の頃。

こちらは同じ日の柘植駅を出発する貨物列車。遥か彼方まで連なる列車の先にあるもう一条の煙。ここ柘植駅~加太駅間は峠越え(加太峠)があるため、ここ柘植駅で後ろに補機の機関車が付けられていました。

柘植駅からはお久しぶりです、113系。この電車は11:01発で信楽高原鐡道との乗り換え駅である貴生川駅までは18分の乗車で11:19着。

昭和の電車のサイドビュー。この窓割は我が青春の日々。狭い直角背もたれの座席も、当時はともかく今ならば「これぞ国鉄近郊型電車」ならではと言えます。もっとも草津線では転換式クロスシートの電車も走っていますので、まあどちらが快適かと言えば…ではあります。

貴生川駅では5分の接続で11:24発の信楽駅行きに乗車。

貴生川駅を出てすぐのところ。どれだけの急斜面を登るのだろう。

信楽駅には11:48着。私の脳内ではもっと距離がある感覚でしたが、あっという間に到着。

鉄印。右側の鉄印が本来のもの。左側は第三セクター鉄道等協議会加盟の鉄道会社15社のコラボ鉄印。
1日乗車券は信楽駅のみでの発行ですが、到着列車の精算時の発行で購入しました。参考までに貴生川~信楽間の往復の運賃と同額です。

2021年10月25日 10時43分

鉄印帳の旅(30)由利高原鉄道で撮り鉄。

矢島駅発13:50の14Dに乗り曲沢駅着は14:14。

鳥海山を背景に13D、羽後本荘駅発矢島駅行きの撮影が目的。

この列車の曲沢駅発は15:02、この列車が前郷駅で交換してくる16Dの曲沢駅発は15:09。そのため駅から徒歩5分圏内で撮影場所を決めました。

逆光は承知の上。往路で鳥海山がスッキリではないものの、多少の雲かぶりを是とすれば撮れそうなのでここに来ました。とにもかくにも晴れて良かった!の一言。

逆光で広い絵にすると列車は目立たないことを改めて認識。撃沈ですね。

曲沢駅発15:09、無事間に合いました。

さようなら、由利高原鉄道。

羽後本荘駅は新装開店したばかり。JR東日本と由利高原鉄道の改札が分かれていましたが、以前はどうだったのでしょうか?

羽後本荘駅発16;41、549M。秋田駅着は17:26。旅の終わりが近づいています。

秋田空港到着。19:15発のANA1840便で中部国際空港に戻ります。

ナガシマスパーランドが見えればあと少し。

2021年10月24日 10時10分

鉄印帳の旅(29)まつ子さんの直筆鉄印。

由利高原鉄道の鉄印は3種類。下2つは事前に用意され、日付を由利鉄の方が記入するタイプ。上が今回のお目当てである矢島駅売店のまつこさんが直筆で記帳してくれたもの。これまでは全て鉄印帳に「貼る」ものだったのですが、初めて鉄印帳に直に記入。

なお下の2つは由利高原鉄道36周年記念鉄印で、この10月1日から販売開始。これから1年間手に入れることが出来ます。

書いて頂ける書体は4種類から選べるのですが、正直言ってこれは迷います。思い掛けない事態に私も数秒のこととは言え、悩みました。

帰りの車内。整理券の発行機にも工夫あり。由利鉄の方のお気持ち、観光客の心には届いていますよ。

こちらは乗務行路表(乗務員行路表?)の置き場所。鉄道員の後ろ姿の指差喚呼(しさかんこ)のイラストは、きっと私の様にこうして覗き込み人がいることを分かってやっている確信犯。

出掛ければそこには何か発見あり。由利高原鉄道の前郷駅~矢島駅間はタブレット閉塞、羽後本荘駅~前郷駅間はスタフ閉塞となっているのですが、前郷駅からのスタフがとにかく可愛い。一見の価値あり。

1日の乗降客数が1人とか2人の「曲沢駅」で下車。乗ってきた列車を見送ります。考えてみれば凄いですね。秘境駅とも言える駅に「下車」する経験ってなかなかありません。もっとも列車本数がそれなりにあるので出来る訳ですが。

2021年10月23日 16時01分

秋の散歩/名鉄名古屋本線呼続駅~桜駅間。

最近の爺散歩。

名鉄呼続駅~桜駅間では鉄道写真というより季節の花の写真かな?

10月12日。様々な角度の写真を撮ることで、いつかは「これぞ」というシャッターチャンスと巡り合える日が来ることを期待しつつの1枚。何度も歩いていれば何がしかこれまで気づいていない風景と出会えます。

こちらは昨日の撮影。花を撮影が出来る季節がもうそろそろ終わろうとしているような予感がしました。

2021年10月23日 9時34分

鉄印帳の旅(28)由利高原鉄道のおもちゃ列車。

鉄印帳の旅ではどんな車両に乗るのかも大切な要素だと私は思います。由利高原鉄道の列車ならば「おばこ列車」か「おもちゃ列車」に乗りたいと思うのが人情というものでしょう。

それにしても今回は秋田内陸縦貫鉄道の「縄文号」とここ由利高原鉄道の「おもちゃ列車」が上手く結べることに気付いた時は、人知れずガッツポーズをしていました。

おもちゃ列車。座席数が減るので乗客が多い時間帯には不向きでしょうが、昼間帯にこども連れで乗るのは楽しいでしょう。

木製玩具というのは私にとっては高評価。

可愛い椅子が2つ。私は一人で乗っているのに関わらず、思わず笑みがこぼれてしまう。

由来を書いた銘板。匿名の方からの寄付で誕生したとは知りませんでした。

ところでおもちゃ列車と言えば和歌山電鐵の「おもちゃ電車」へと連想ゲーム。

2014年9月27日の乗車。

この「おもちゃ電車」が今はどうなのかと調べたら何と、今年の9月5日で運行を終えていたことを今回知りました。

これまでの電車にはなかったユニークな内装と世界初の車内ガチャなどで、当時は地方私鉄の生き残り策の一つとして注目されていました。今後は「たま電車ミュージアム号」として生まれ変わるそうなので、それに期待したいと思います。

羽後本荘駅発13:00の11D(おもちゃ列車)は矢島駅に13:39の定時着。

この駅、国鉄矢島線時代は「羽後矢島駅(うごやしま)」を名乗っており、1985年(昭和60年)10月1日 の由利高原鉄道への転換時に今の矢島駅となっています。



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プロフィール

稲見部長稲見眞一
<自己紹介>
昭和52年4月、中京テレビ放送入社。「ズームイン!!朝!」を始めとした情報番組や「ドラマ」「ドキュメンタリー」等のディレクター・プロデューサーを務めた。鉄研最終回(2010年1月29日放送)では自ら自慢の鉄道写真「俺の一枚」を持って出演。 鉄道歴は小学校5年からスタートしはや半世紀。昭和55年には当時の国鉄・私鉄(ケーブルカーを除く)を完全乗破。平成18年にはケーブルカーも完全乗破。その後も新線が開業するたびに乗りつぶしている筋金入りの“乗り鉄”。好きな鉄道は路面電車。電車に揺られながら窓外に流れる街並みを眺めているのが至福のとき。さてスジを寝かせてゆったり乗り鉄と行きましょう!