2021年11月30日 15時06分

全国未成線サミットin浜田。広浜鉄道今福線の遺構(2)土木学会選奨土木遺産。

里山の風景の一角に5連のアーチ橋が見えます。

未成線となった後、この5連アーチ橋は県道として使われています。この写真は、橋を通過後に振り向いて撮影したものです。まるでローマの世界遺産、水道橋が如くというと言い過ぎかも知れませんが、規模の大きさはともかく、その造形美は通じるものがあると勝手に思いました。

今福線(旧線)のアーチ橋は他にも幾つかあり、それらをまとめて土木学会選奨土木遺産に認定されています。

※土木学会選奨土木遺産とは…『土木遺産の顕彰を通じて歴史的土木構造物の保存に資することを目的として、平成12年に認定制度を設立いたしました。
推薦および一般公募により、年間20件程度を選出しています。』(公益社団法人日本土木学会ウェブサイトから転載)

※今福線のコンクリートアーチ橋群…選出理由は以下の通り。

*未完成に終わった鉄道のコンクリートアーチ橋が一群として現存し、山間の景観に溶け込みながら、悲運な歴史を伝えている。

*竣工年:昭和12年着工、昭和15 年中止

今福線アーチ橋群のシンボル的な存在の4連アーチ橋。

なおこのアーチ橋群は、2015年に島根県のしまね景観賞奨励賞を受賞しています。ここでの注目は賞の中身。「奨励賞 まち・みどり活動部門 まぼろしの広浜鉄道「今福線」 浜田市宇津井自治会殿」とあること。

実はこの景観を保つために地元の自治会の皆さんが草刈りを始め様々な整備を行っておられ、それゆえ賞の対象は地元自治会。もっともそうした活動があるからこそ私たちがこうしてここを訪ねて回ることが出来、このエリアの景観を素晴らしいと思えるのです。

アーチ橋の上は歩くことが出来ます。

画面の左端に4連アーチ橋。そして右上の天空をゆくのは浜田自動車道。思わぬ場所で新旧の出会いはありました。

次に訪れたのは「おろち泣き橋」。そしてその案内看板に注目。ここに限らず今福線の名勝と言える場所にはこうした案内看板があり、QRコードを読み込みと音声で各ポイントの魅力を聞くことができるようになっています。

これが「おろち泣き橋」。この2つ目のアーチの場所にある立つとおそらく目の前の川の流れによるものでしょうか、不思議な音が響いて聞こえてきます。これは実際に立ってみなければ分からないのですが、この橋をおろち(大蛇)に見立て「今福線が開通しないことが決まった日から、おろちがひそかに泣き続けている」という地元の伝承があります。丁度この風景が見える場所。まあ科学的な分析はしないで、まずはここの音を楽しみましょう。

さてここまでで何となく未成線が観光の対象となりうることがお分かり頂けるようになったのではないでしょうか?

そこから今回の未成線サミットに繋がっていくのですが、ここ浜田市には沿線の自治会、まちづくり団体、大学、島根県技術士会など13団体が参加している「今福線を活かす連絡協議会」があります。その目的は、広浜鉄道『今福線』の遺構を活かして交流人口増加など地域の活性化をめざすとのことで、つまり観光誘致を行っている団体です。それにプラス遺構のある浜田市佐野、宇津井両地区の住民がガイドの会を結成し観光客らに魅力を伝えています。ガイドの会ではボランティアガイドの育成も行っており、今回の案内役もそうした方々でした。

2021年11月29日 12時06分

全国未成線サミットin浜田。広浜鉄道今福線の遺構(1)下府駅からスタート。

未成線とは?については昨日UPしましたが、ではそれで全国規模の「サミット」を開催するとはどういうことなのでしょう?

それを知る手がかりとして、今日は広浜鉄道今福線(未成線)の現在の状況について見てみましょう。

紹介する内容はサミット翌日、地元のボランティアガイドの方々に点在する鉄道遺構をご案内いただいたエクスカーション(体験型の見学会)『JR浜田駅発着 幻の鉄道遺産「広浜鉄道今福線」 遺構を巡るバスツアー』参加時のものです。

最初に訪れたのは山陰本線下府(しもこう)駅。

ここで今福線の簡単な歴史紹介。

(旧線)

*1933年(昭和8年)、下府駅を起点に岩見今福駅(現在の島根県浜田市金城町今福に作られる予定だった)まで着工。

*1940年(昭和15年)、戦争のため工事は中止。

(新線)

*1970年(昭和45年)、浜田市の起点を浜田駅に変更の上、浜田駅~岩見今福駅を着工。

*1980年(昭和55年)、日本国有鉄道経営再建促進特別措置法により今福線工事中止。

つまり今福線は戦前(旧線)、戦後(新線)と2度も工事中止の憂き目にあっているのです。

下府駅はホーム2面2線の交換可能駅。この写真では浜田駅側を臨んでおり、右側が京都方面に向かう上り線で、手前が下り線です。

その下り線ホームの右側の草むらが戦前の今福線の線路が敷かれる予定だった場所、幻の3番線。解説を聞きながらの見学ですので分かりますが、知識なしでこのホームを見た場合に、ホームの端に違和感を感じることはきっとないでしょう。

余談ですが、下府駅は100周年。駅本屋は開業当時のものだそうで、待合室の木のベンチも100周年。思わずひと座り。戦前の今福線が無事開業し、その線が昭和50年頃まで残っていたとしたら、乗りつぶしをいていた私はこの椅子に腰掛けていたかもしれません。

下府駅発8:37の424D益田駅発出雲市駅行き。列車が来ればシャッターは押します。世が世ならば、浜田駅発広島駅(方面)行き普通列車となっていたのかも知れない。

今福第一トンネル。そして振り向けば…。

橋脚群。

私は廃線跡巡りもしており、それはかつての栄華の余韻に浸る一つのロマンです。一方、未成線でも特に着工されたにも関わらず日の目を見ることなく終焉を迎えてしまった建造物にはもののあわれを感じ、一種独特の「美」を感じてしまう私です。

この写真は今回のテーマとは無縁です。美しい風景だなと感じシャッター押した1枚。

2021年11月28日 22時00分

全国未成線サミットin浜田。

かつて広島県広島市と島根県浜田市を結ぶ路線、広浜鉄道の計画がありました。開通していれば広島~浜田間約89キロ、全区間の80%がトンネルのその路線をノンストップ特急が約55分で結ぶはずでした。

(参照:山陰中央新報社 ふるさとメール  [浜田市ふるさとメール] 2008/04/25  第153号 発行:浜田市総合調整室 ◇住民の熱い思いの結晶 ~二度にわたる広浜鉄道計画~(2)  浜田市教育委員会金城分室)

しかしその路線(島根県側の路線名は今福線)は着工はしたものの、1980年(昭和55年)に工事は中断され、その後工事は再開されることなく「未成線」として「幻の広浜鉄道」となりました。

※未成線とは…建設途中で工事が中断したり、完成したが列車が走ることがなかったりした鉄道路線のこと。

11月13日(土)の旅のスタートは広島駅新幹線口。

広島駅新幹線口にあって金色があまりにまぶしいその名も「朝」の像。朝日を浴びて輝いていました。

朝9時20分、広島駅新幹線口を出発した高速バスは水の都・広島の町を抜け、一路島根県浜田市を目指します。

未成線となった広島市と浜田市を結ぶ鉄道路線。その2つの町を今、高速バスが2時間20分で結んでいます。

窓外の風景は典型的な田園地帯ですが、このあとはほぼ山の中。

鉄道が走る予定だったルートとバスが走る浜田自動車道とどれほど離れているかまでは調べていませんが、中国山地を越える道(線路)を作ることの厳しさは容易に想像でき、「全区間の80%がトンネル」というのはそれはそうだろうと肌で感じることが出来ました。

浜田駅。

駅前のオブジェは石見神楽。毎正時になると仕掛けが動き、私もたまたまそのタイミングにここに居合わせ、思わず足を止めてしまいました。

ところで浜田の町に足を踏み入れたのは初めてのこと。大学時代、同じ下宿の住人にこの町の出身者がいたのを思い出しましたが、彼がこの町に戻ったかどうかも含め消息は分かりません。そんなことを思い出したのは年のせいなのか、それとも旅の感傷なのか?さあどうなのでしょう。

浜田駅に入線する452D快速アクアライナー/益田発米子行き。

1921年(大正10年)9月1日開業の浜田駅は今年100周年。

浜田駅から徒歩数分の「石央文化ホール」。

この日、この地で行われたのは「第3回全国未成線サミット」。たまたまネットのニュースで開催を知り、どんな会なのだろうと興味が湧き、足を運ぶことにしたものです。

2021年11月27日 16時05分

広島電鉄の広島駅前界隈。

今月(11月)12日は、広島駅前のホテルで一泊していました。

夜の7時過ぎに新幹線を降り、早速目の前を行く電車を撮影。

ここだけ見ればヨーロッパの市街地を行くトラムの風景。

駅に近い立地のホテルに泊ると、まずは窓外の風景の確認がお約束。「トレインビューホテル」であると分かっている場合は、予約時に「鉄道の見える部屋」を事前にお願いすることもありますが、今回は出たとこ勝負。

夜なので流し撮り。

一夜明けて13日(土)の朝。線路に朝日は届いていませんが、川沿いの木々が少し輝き始めました。

広島駅から南方の景色。

ホテルを出て朝の散歩。清々しい朝の空気を吸い込みながら、電車を撮影出来る幸せ。

広島の電車。連接車が知らない間に増えている気がしています。

2021年11月26日 17時03分

名古屋の鉄道136年史(10)鉄道開通以前の名古屋。

「尾張明細図」国立公文書館デジタルアーカイブ 公文附属の図・六九号 明治5年(1872年)10月発行

明治5年、日本に鉄道が開業した年に発行された現在の愛知県の内、尾張の地図。

形は何となくイメージできそうですね。

 余談ですがこの地図の本来の見方は横位置。南北が縦位置にならない地図は今となっては見慣れませんが、当時の地図では他にも見かけたことがあります。

真ん中の色が黄土色の部分が当時の「名古屋市」の区域です。ここだけ見ても各集落を結ぶ道路は整備されていたことがわかります。今風に言えば「県道」レベルの道の印象ですね。

「名古屋并熱田全図(なごやならびにあつたぜんず)」 明治11年(1878年)発行 。

この地図の表題が「名古屋并熱田全図」と、名古屋と熱田の地図となっているのは、当時、熱田の地はまだ名古屋市に編入されていなかったからです。

「并」の読み方は多分合っていると思いたいのが「ひとつにする」「ならぶ」という意味があります。

それはさておき明治5年の地図から進化したというか、ちゃんとした測量に基づく「地図感」があります。これだと市街地と郊外がはっきり区分できますが、市街地の広さそのものは明治5年とそれほど変わりません。「栄」の位置をいれましたので、名古屋城の位置との見比べで、当時の名古屋の町の規模をイメージして下さい。

またこの頃の名古屋市はざっくり言えば、現在の中区を中心に東区、西区の一部。今の名古屋市は、この狭い地域をスタートに徐々に市域を広げ、昭和39年(1964年)に当時の知多郡有松町、大高町を合併(緑区に編入)し、現在の形となっています。

今の栄界隈。真ん中に横向きに「栄町」と書いてある場所が今の広小路通り。縣廳(県庁)とあるのは愛知県庁で、この場所が今の栄交差点辺りとなります。広小路の左端は、今の伏見に達しておらず、市街地の狭さが分かります。

そしてこの「広小路」がこの先の名古屋発展のキーワードの一つとなるのですが、また機会を見つけてこのブログに書きます。

ところでこの明治11年では「名古屋市」とはまだなっておらず「名古屋区」の時代。もっとも意味合いとしては「区」であっても「市」で良さそうです。

因みに「名古屋区」となったのは明治11年からで、「名古屋市」となるのは明治22年(1889年)のこと。つまり名古屋駅誕生時は、名古屋市に出来たわけではなく、名古屋区に出来たということになります。なお名古屋市発足時の人口は157,496人。参考までに現在の名古屋市中区の人口は約93,000人ですから、当時の市街地の密集度がうかがい知れます。

もう一つ明治22年の名古屋のトピックス。この年、名古屋で初めて電灯が灯りました。

※名古屋市役所のウェブサイト参照。 

明治19年(1886年) 「尾張国参河国新図」

名古屋駅開業の年に発行された地図。

地図にも今の東海道本線が登場しています。が、この地図では「名古屋駅」がありません。

その疑問は今も解けていません。

また矢印のところにあるのは、後に手で書き加えられた線。現在の中央本線で間違いないのですが、なぜ手書き?これは当時、まだ建設されていなかったからですが、それにしてもいつの時代にこの線を描いたかと言った意図が分かりません。

ただこの線、実は名古屋にとって大きな意味のあるものなのです。

2021年11月25日 23時25分

名古屋の鉄道136年史(10)名古屋駅の位置と東海道本線の経路の謎

さて名古屋駅はどのようなところに作られたのでしょうか?そして東海道本線はどうして今の場所を走ることになったのでしょう?

国土地理院 125,000デジタル標高地形図(名古屋)

これで名古屋エリアの各地の高度が分かります。

名古屋駅界隈をトリミングしてみました。その色から標高がとても低い土地であることが分かります。ところでそもそもどうしてこのように標高の低いところに東京と京を結ぶ日本で最重要の幹線の線路が敷かれたのでしょう?

全体図に現在の東海道本線の位置を赤線で描いてみました。

金山駅を中心としたトリミング。

赤線の南北の高台は熱田台地と呼ばれており、当時の市街地はその上にありました。よく見ると東海道本線は熱田台地が狭くなったくびれの部分を堀割にして通っています。

つまり明治に開業した鉄道は、当時の市街地であった高台に上がることなく、それを避けるように線路が敷かれているのです。

「国鉄80年 機関車の発達」著者/本島三良・臼井茂信(昭和27年(1952年)/交友社)

明治30年代の東京/新橋駅の様子。

「国鉄80年記念写真集 車両の80年」編集者/日本国有鉄道工作局(昭和27年(1952年)10月14日/鉄道博物館)

鉄道草創期を走った蒸気機関車は見かけ以上に非力で、坂道は可能な限り避ける形で線路は敷かれたのです。

もっとも市街地の中心に線路を通すことは、明治の御一新の時代であっても住民の反対は避けられなかったでしょうし、住居などの立ち退きなどを考慮すれば、市街地の縁(へり)に線路を通すのが現実的な選択であったと私は考えます。

2021年11月24日 23時16分

名古屋の鉄道136年史(9)初代名古屋駅と濃尾地震。

明治19年(1886年)5月1日、官設鉄道の名護屋駅(翌明治20年4月25日、現在の名古屋駅に改称)として開業しました。

昭和17年(1942年)発行の「鉄道温故資料」(名古屋鉄道局総務部)に掲載されていた初代名古屋駅。

所有者名に高橋正照氏とあり、この本の出版時にその方からお借りした物と思われます。ところで初代名古屋駅の写真は、これしか見たことがありません。私が探した限りですが、オンリーワンでまず間違いありません。

何故ならば開業から僅か五年後の明治24年(1891年)10月28日、巨大地震「濃尾地震」がこの地方を襲い、駅舎が倒壊してしまったからです。

明治の時代ですので、写真そのものの希少性はあるのでしょうし、結局地震もあってこれ1枚しか残せなかったような気がしています。

ところで駅を倒壊させるほどの地震「濃尾地震」はどれほどの地震だったのでしょうか?

 

『内閣府/防災情報のページ/災害教訓の継承に関する専門調査会報告書 平成 18 年 3 月/1891 濃尾地震』

にはこう記述されています。

<概要>

1891 年 10 月 28 日に発生した濃尾地震は、マグニチュード8.0と推定される過去日本の内陸で発生した最大級の地震であった。岐阜県美濃地方においては地表に明瞭な断層が発生し、その比高は 6 メートルにもなった。特に震源に近い地域においては近代建築が倒壊したのに対し、伝統的な土蔵が残った。

<教訓>

濃尾地震は、近世から近代への過渡期にあって、復旧のための資材、人員等の不足に悩まされながらも、マスメディアによる情報伝達、近代行政システムによる迅速な救援、地震原因の科学的研究、減災のための耐震建築の研究など、今日の地震対策の原型をつくり、その発展の方向を決定することとなった。この地震を機に「震災予防調査会」が設置された。現在においてもなお地震は避けがたい災害ではあるが、今後とも減災のための努力を続けなければならない。

新愛知社(名古屋市)が明治24年(1891年)に発行した「地震聚報 全」にその記録が残っています。

これは絵として残されたものですが、

写真でもその被災状況が伝わってきます。もっともそれほど甚大な被害とならなかった建物も中にはありますが、これを見れば名古屋駅が倒壊したのも頷けます。

この本の中の名古屋停車場の記述です。

この波形を見て、それがどれほどの大きさであるのかは分かりづらいですが、地震の激烈さは理解できます。

日本国有鉄道百年史 第2巻(昭和45年/1970年4月1日 日本国有鉄道) 229ページ

参考までに鉄道関係では、長良川の鉄橋の一部が崩落している写真が残されています。
初代名古屋駅舎。その前には大きな水たまり。低湿地に作られた名古屋駅の立地が見てとれます。

乗客が使う駅舎の右側の大きな建物は貨物扱所でしょう。たった1枚残った写真。それでもこうして残っていることで、鉄道開業時の名古屋市の様子を窺い知ることが出来る貴重な1枚です。

2021年11月23日 9時21分

鉄印帳の旅(41)若桜鉄道~智頭急行~ことでん~土佐くろしお鉄道、今回の旅の終わりに。

高知駅と言えばアンパンマン。

子どもでなくとも心和むアンパンマンのキャラクター。

以前は列車の出発、到着時間に関わらずここで遊ぶ子どもの姿を見た記憶あり。コロナ禍が本当の意味で収まるまでの辛抱です。

高知駅でアンパンマンととさでんのコラボ。

高知龍馬空港発16:05  FDA346便。先回この空港から名古屋に戻ったのはいつだろう?「鉄」ではなく「仕事」だったから20年ほど前のことだと思う。

夕景は家路を急ぐ時に似合うと思う。思うように出掛けられなかった長い期間を経て、仮にもこうして出掛けられるようになったことに感謝。2019年までの「帰路」は、次の旅への期待感で胸を膨らませていた。そんな日々が懐かしいと思いつつ、この穏やかな時間を過ごしていました。

久々に上空から見る中部国際空港。

久しぶりの上空から見る中京テレビの鉄塔。

中部国際空港開港前は、この風景で名古屋に戻ってきたことを実感していました。鉄塔と一部の建物は残っていますが、それ以外はスーパーマーケットになっています。でも、私にとっての「名古屋」は今も確かにここにあります。

2021年11月22日 23時01分

鉄印帳の旅(40)土佐くろしお鉄道。

11月4日(木)。この日は土佐くろしお鉄道の鉄印帳の旅。

朝一番で「ことでん」撮影散歩。

朝食は今月末で閉店の「連絡船うどん」。高松駅構内にありますが、改札口を入らずとも、お店の裏側で食することも出来ます。私の知人に、「高松」に来たらここでうどんを食べることが“儀式”という方もいるほどです。ただ今の営業時間は7:20~14:20(水曜日定休)。行かれる方は要注意です。

ところで私は宇高連絡線に乗っている世代ですが、何と今回初めて「連絡船うどん」を味わいました。これまでこの選択をしなかった理由は思い当たりません。単なる「その時の流れ」で、到着時は大体夕方なので駅を出て、居酒屋へ直行。出発時は朝早くが多く、多分ギリギリまで寝ていて、やっとこさで列車に乗り込んでいたと思う。その証拠に、ことでんを朝一で撮影したのは今回が初めてだったりします。

土佐くろしお鉄道の鉄印は、中村・宿毛線中村駅もしくはごめん・なはり線の安芸駅で記帳できます。で、今回私は、高知県安芸市の安芸駅を目指します。乗車するのは右側に停車中のJR四国2700系気動車。それにしてもお隣のマリンライナー/JR四国5000系電車との高さの違いが際立っています。振り子車両の低重心と2階建てグリーン車との列車設定の目的の違いでしょう。初乗車のこの形式、2700系。なかなか格好いい。それとこれまでの2000系気動車に比べ同じ振り子式ながら、乗り心地が随分進化し、カーブ通過時の感覚が滑らかになった気がしました。なお科学的な根拠はありません。あくまでも私見です。

高松駅発  08:25 しまんと5号(高知駅行き)

後免駅着  10:29

後免駅発  10:43 5864D しんたろう2号(奈半利駅行き)

安芸駅着  11:36

阿波池田駅を目指して徐々に高度を落とすこの界隈の風景は、何度見ても飽きません。

もしも土讃線に乗る機会があるなら、坪尻駅から阿波池田駅、大歩危駅界隈は是非、眠ることなく目を開けて車窓を楽しんで頂きたいと思います。

後免駅からは土佐くろしお鉄道/ごめん・なはり線(阿佐線)の9640形1S「しんたろう号」に乗車。

太平洋を渡る風を感じながら絶景を直に楽しめるオープンデッキ付の車両。他の列車に比べ、ゆっくりゆったり走っていると感じました。

ここから話しは朝一番のこの日の行動に繋がるのですが、この「しんたろう号」に乗ることを前提にこの日のスケジュールを組みました、それゆえことでん~連絡線うどんとなるのですが、高松駅発8:25のしまんと号はこの時間にして高松発の3列車目。効率よく回るならばしまんと1号06:04発、しまんと3号07:23発があるのですが、まあ今回はそこまでしなくとも、以前から乗りたかったこの列車への乗車を最優先した次第です。

安芸駅。ホームには「タイガース列車」が停まっていますがこの写真では分からないですね。

左側が本来の鉄印。右側が「コラボ鉄印」。なお2種類とも安芸駅と中村駅ではデザインが異なります。またいつか中村駅に出掛けよう。

昼食。安芸のご当地グルメは「釜あげちりめん丼」とのことで駅前のお店に入る。

値段も手頃で納得の味。

鉄印帳の旅では、心身共にゆとりある行動をしており、それゆえか以前に来たことのある駅であっても初めて気付くオブジェあり。そもそも由来を書いた案内を読む余裕はこれまで無いに等しい状況でした。

これから高知に向かう列車に乗車。タイガース列車との2両編成かと思いきや、タイガース列車は奈半利駅行き。手前が高知駅行き快速列車。

連結器は繋がっていませんでした。

安芸駅発 12:38 5833D 快速(高知行)

高知駅着 13:33

高知龍馬空港発16:05  FDA346便

名古屋飛行着着17:05

車体側面の沿線案内もにぎにぎしく出発進行!

高知駅到着。

2021年11月21日 21時14分

鉄印帳の旅(39)智頭急行(ちずきゅうこう)。からの瀬戸大橋線のかぶりつき席。

八東駅で今年4月に新デザインで登場した『第三弾「隼」ラッピング列車』と交換。格好いいと思う。

ライダーの聖地「隼(はやぶさ)駅」には元北陸鉄道のED301とJR四国高知運転所所属だったオロ12 6が保存されています。

郡家駅、午前の到着時に思ったのは「えっ!」。

2010年の郡家駅。やはり建て替えられていました。

出雲大社はお隣の島根県です。

14:08の出発時間まで構内売店で買った100円のコーヒーでくつろぎのひと時。

振り子式の特急「スーパーいなば」岡山行き。

鳥取県の象徴とも言える「梨」のイラスト。

郡家駅を出て直ぐ、右側にお城が見えました。調べたところお城山展望台「河原城」で、もともとあったお城の再建ではなく、2004年(平成6年)に建設された町のシンボル、情報発信の拠点とのこと。

因美線、智頭急行を特急列車で突っ走り、上郡駅で下車。

右側がオフィシャルの鉄印。左側が智頭急行オリジナル「鉄印 平福駅」(期間限定)。

たまたま上郡駅で出会った智頭急行の「あまつぼし(天津星)」。普通車両(HOT3521)で2018年(平成30年)にリニューアルデビューした車両です。

イベントでの使用を想定していますが、普段はこうして普通列車で活躍しています。

上郡駅からは113系。

途中の熊山駅で停車中。ふと外を見れば歴史的建造物とも言える跨線橋を発見。

1912年(明治45年)に2駅離れた瀬戸駅に建てられたものを、1960年(昭和35年)に熊山駅に移設された物とのこと。

電車の発車直前に撮影した銘板には「明治四十五年 横河橋梁製作所」とありました。「各駅停車」の旅は「各駅停写」の旅でもあります。

岡山発高松行きのマリンライナーに乗るならグリーン車狙い。

1号車の1番D席が取れたなら絶対にお勧めです。

かぶりつき席。夕日を見つめながら一人、感傷にふけることなく、ただ正面展望を楽しんでいる。

瀬戸大橋を渡るなら次回もこの席に座りたい。

高松駅に無事到着。



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プロフィール

稲見部長稲見眞一
<自己紹介>
昭和52年4月、中京テレビ放送入社。「ズームイン!!朝!」を始めとした情報番組や「ドラマ」「ドキュメンタリー」等のディレクター・プロデューサーを務めた。鉄研最終回(2010年1月29日放送)では自ら自慢の鉄道写真「俺の一枚」を持って出演。 鉄道歴は小学校5年からスタートしはや半世紀。昭和55年には当時の国鉄・私鉄(ケーブルカーを除く)を完全乗破。平成18年にはケーブルカーも完全乗破。その後も新線が開業するたびに乗りつぶしている筋金入りの“乗り鉄”。好きな鉄道は路面電車。電車に揺られながら窓外に流れる街並みを眺めているのが至福のとき。さてスジを寝かせてゆったり乗り鉄と行きましょう!